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純白が馴染むような光の中で

 note書くぞ書くぞとたまに嘯くわりに全然書けていない状況でこのような纏りのない、書き出したタイミングで記憶をかき混ぜながら進めている体たらくな記事をお出しすることをまずお詫びします。ゴリラ語で。ウホウホウホ。

 京子の話。齊藤京子。先日横浜スタジアムで行われた3Days公演の初日「齊藤京子卒業コンサート」にて日向坂46での活動を終了した、けやき坂1期生の齊藤京子。

 私は京子が推しだったというわけではなく、しかしそういう立場の人の幾らかがきっとそうであったように、彼女の個性に笑い、惹かれ、感心して、独特のリスペクトを感じていて、そして彼女が常々言っていた「アイドルは天職」という言葉の説得力を疑うことなく、だからこそ「卒業」という言葉を初めて聞いた時にどこか実感が持てず、それは卒業コンサートの日を迎えるまで変わることはなかった。

 個人的に「今回のライブは京子がすごく拘っている」という言葉が本人ではなく周囲からずっと聞こえていたことが嬉しかった。
 すごく素直で自己評価が妙にシビアで、だからこそ自己プロデュースを欠かさず、発言のフィルターのなさがなんだかいつも良い方向に転ぶ京子のことだから、今回のライブのこともどこかでいっぱいレップしてくれるだろうと思っていたところ(実際してくれていた)、最後に彼女の晴れ舞台の期待感をあげてきてくれたのが周囲、特に同期のみんなだったことが胸にくる。

 卒業が差し迫ってくると折に触れて彼女の印象や思い出をメンバーが口にするようになって、そういった機会のたびに毎度のごとく「正直でかっこいい」と表現されるのを目に耳にする度に納得感を覚えた。正直さとかっこよさが共有されて浸透しているというのは実は難しいことだと思う。正直さというのは簡単に人を傷つけるから。でも京子が自分の感情の中のもぎたての言葉を使うとき、その言葉を使うという選択に齊藤京子の中の確かな納得が感じられるから納得できるしプラスに転じる。
 それは直接彼女の姿を見続けてきたスタッフやメンバーだけでなく、ファンにとってもきっとそうだったはずで、日向坂46への改名を経てキュンをリリースする時、センターに抜擢された小坂菜緒について彼女が口にした「菜緒ちゃんで良かった」には、何を隠そう私自身すごく純粋な勇気を貰うことができた。
 多分、京子以外にそこまでハッキリ「改名して世間に存在を浸透させるなら小坂しかない」なんてことを口にはできなかっただろうし、その後沢山良いことも大変なこともあったけれど、今となってはその正直で素直な気持ちが小坂にとって大きな助けになっていたと本当に思う。

 思えば京子自身、いつも嘘のなさを根拠に他人に接していた気がする。丹生ちゃんの心を説いたり、生まれてこの方裏表という概念の存在しないであろう東村に懐いたり、自分をむき出しにしてもがきながら成長していく金村のトークをとっていたり、そしてなにより潮という善意の塊のような人を誰よりも頼りにしていたり。
 そんな京子がアイドル活動の最後に距離を詰めたのが、同期という繋がりが最も親友という言葉に近い3期生の面々というのも納得で、そういえば京子ってやたらめったら親友って言葉を使う人でもあったなぁと今まさに思い返したりもする。口にするのを戸惑うような正直なことを納得と共に放てるカッコよさと、語彙を綿毛かってくらい軽く扱うところが共存していて、それらひっくるめて自分のことを「赤ちゃんみたいに純粋」とのたまっていたことの納得感が増していく。それをのたまったということそれ自体にも。

 京子の納得と正直さは、彼女が口にして叶えた夢の実現という結果を伴って、相互に作用しながら膨らんでいった。改名と躍進、紅白出場、キョコロヒーの昇格。
 バラバラ大選挙の時だったか、共演者のヒコロヒーが京子の存在について「隣の変な女だけが無謀な目標を一切疑うことなく言い続けてきた」と言ったような内容のことを言っていたと記憶していて、的確で深い洞察を持っている人の視点が、心の中にあった京子という存在の輪郭に色を塗ってくれたような気持ちになったことを覚えている。

 先日発売されたH46MODEという、日向坂にとっての贅沢なクラス文集のような本で、卒業生の齊藤京子が在校生のメンバーに向かってそれぞれ言葉を残していて、その特集が個人的に凄く好きだった。
 というのも、普通なら惜別の言葉やエモーショナルなしろものになりそうなものだが、京子の言葉はどちらかというと残される人へのアドバイスに近くて、それがなんだか京子の率直さや正直さを如実に表していると思えたからだ。そしてそれはやはり、彼女の愛嬌でもあったと改めて思う。

 卒業コンサートを目前にLeminoで独占公開された齊藤京子のドキュメンタリー特番で、ついに「叶わなかった夢」について本人の語りを聞くことができて、おかしな言い方に聞こえるかもしれないけれど、私はこのことを嬉しく感じた。センターを務めた月と星が踊るmidnightで紅白に出場できなかったこと。これだけ夢を叶える姿を見せてきた彼女が「夢は全部叶うわけじゃない」という現実を目の当たりしたということ。それらを齊藤京子本人の言葉で聞けたこと。彼女が口にすると、余計なルサンチマンが溶け出して、やはりこれは彼女の納得をへて差し出されたものなんだなと思える。彼女の言葉は大事で、軽くて、だからこそいつだって真剣で切実だった。
 その真剣さや切実さが時々妙に軽みを帯びていて、その率直さが憧れを引き込み、彼女の魅力へと引き連れて行く。

 京子は色んなことを叶えていく、進んでいくところを姿や言葉で見せてくれた。それはきっとファンが実際に目にしたわけじゃない、彼女が多くのオーディション落選を経てアイドルになったという経緯だってそうだし、センター曲をより良くしようとギリギリまで意見を出したこと、グループ初の作詞曲をリリースしたこと、卒業コンサートを細部まで拘って作り上げたこと、それらを見てきたメンバーや伝えきいたファンや、彼女自身に何かを感じたことのある全ての人に「夢を叶える」ということの正直さを見せてきた。

 私は日向坂46が岐路に立った時、おそらく選抜制度を導入するだろうと納得をしつつ「4期まで巻き込んだ本当の全員選抜があってもいい」と結構本気で思っていた。ステージングを考えたら不可能に近いし、現実的ではないことは承知の上で、日向坂46が今1番求めているアイデンティティの確保には「無理を通して道理とする、日向坂の文化でしかできないことをファンに示すこと」が必要だったんじゃないかと感じていたからだ。
 結果は知っての通り、グループとしては初めての選抜制度の導入という形がとられ、今はその中で最善の道をなんとか進もうと努力しファンもそれにしっかりと後押しができている状況にある。

 そのことに不満はない。前述の通り十中八九そうなるだろうと思っていたし納得もしていた。だからこれは私の「夢」で「夢は全部叶うわけじゃない」のだ。

 でも齊藤京子は「本当の全員選抜」をステージで観るという、その夢さえ最後に叶えてしまった。
 彼女の卒業曲である「僕に続け」はまごう事なき「本当の全員選抜」だった。
 彼女の歩みを辿るMVは即ちこのグループすべての歴史を辿ることでもあって、そこにはねるも、芽実も、井口も、美穂も、愛萌も、影も、潮も、もちろん岸くんもいた。

 全ての期の曲をパフォーマンスし、加藤史帆とソロ曲を分かち合う、「齊藤京子は夢を叶えるアイドル」という実感が形となったかのようなコンサートの最後にステージ上で披露された僕に続けは、まるで「これまでの全ての夢」を引き連れていってしまうかのようだった。白と白のサイリウムカラーの純白のドレスを着て、透明な涙を溜め、彼女が去っていくステージの全ての光を浴びて。

 誰かが去っていく時に、これからを前向きに捉えるのはいつだって難しい。これまで、このグループも様々な形で別れを経験してきたし、その度に未来について考えさせられた。今だにしっくりとくる納得は、自分の中にはうまれていないと思う。
 でも齊藤京子がアイドルを全うしたと思ったならそこには彼女の中の納得があったに違いなく、彼女の納得を経て放たれた光はいつだって軽やかで誠実で、正直だった。
 誰よりもグループの躍進を正直に誠実に願っていた京子が去るということがどういうことなのか。
 今回もまた、私は彼女の正直さを信じることにする。

 みんなもそうでしょ?



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