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AKのスピリチュアル講座8:還元論・唯物論を超えて

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前回は、理論心理学者ニコラス・ハンフリーの意識論の集大成「ソウルダスト」を取り上げ、還元論・唯物論がいかに「錬金術」にすぎないかを見てきました。
今回は、ケン・ウィルバーの考え方をもとに、人間の意識について、よりスピリチュアルに、より統合的に扱うならどうなるか、つまり還元論・唯物論を超えた先に何があるかを見ていきます。

■この世の森羅万象が持つ共通点

このシリーズ3で見た「存在の大いなる入れ子」の構造において、「物質+生命」層と「心+魂+霊」層の隔たりを埋める「接着剤」として何を選ぶか。それは理論家によって異なり、その選んだものがその理論家の人間的成長度を表すことを、前回見てきました。
生物学者のリチャード・ドーキンスにとって、それは遺伝子でした。理論心理学者のニコラス・ハンフリーにとって、それは自然淘汰の法則や数学的法則でした。ケン・ウィルバーにとってそれは、一言で言うなら「進化の構造」です。
ただしウィルバーは、ダーウィン的進化論を意識の進化に「還元」したわけではありません。知っている方法論を知らないことの推論に援用したわけではないのです。生命から心への橋渡しとして、取ってつけたような「接着剤」を用意したわけでもありません。

まずウィルバーは、物理学、生命科学、総合システム理論、哲学、心理学、宗教学、社会学、神学、神話学、人類学、神秘主義という具合に、あらゆる知の最前線を詳細に渡り歩き、それらの学問的最新成果をいっぺんに俎上に乗せてみせます。
そして、それらに通底する共通の法則を導き出します。つまり、物質であろうと心であろうと、この世の森羅万象が持つ共通点ということです。
この困難な作業を、ウィルバーは、個々ばらばらな数珠玉を一本の糸でつなぎ合わせることで数珠を完成させる試みだと言っています。

「さまざまな知の分野(物理学から、生物学、心理学、神学にいたるまで)から大きな合意点を求め、それを数珠のようにつなげてゆくことにより、驚くような、またしばしばとても深い結論に達することができる。それは確かに驚くような結論ではあるが、すでに合意された知識以外のものを体現しているのではない。知識の数珠玉はすでに受け入れられている。それを数珠に仕上げるのに必要なのは玉に通す糸だけである」(「進化の構造」序論より)

この項をまとめておきます。
「すでに合意を得ているあらゆる学問分野を一本につなぐ糸は存在する。それは進化の構造である」

■「創発」:進化とは「含んで超える」こと

数珠玉に通す一本の糸を、ウィルバーは、たったひとつの概念(「ホロン」)で説明してみせてしまっています。物質から心まで、森羅万象、一切衆生は、すべてホロン構造を持っている、というのです。
ちなみに、これを最初に言い出したのは、ウィルバーではなくアーサー・ケストラーという哲学者です。理論物理学者のデヴィッド・ボームなどは、宇宙の根源的秩序を説明するのに、この概念を使っています。また、心理学者のカール・プリブラムなどは、脳が記憶を貯える仕組みを解明するモデルとして、この概念を応用しています(この部分にかんしては、かなり専門的になるので、稿を改めたいと思います)。
ウィルバーはいわば、そうした各分野の科学的成果を踏まえて、その根本的な考え方を、心や意識の構造解明に応用している、と言えるでしょう。

ホロン構造の特徴を一言で言うなら「全体(進化後の状態)は、部分(進化前の状態)を含んで超える」ということです。
これについて、このシリーズ6で若干触れましたので、それを再び持ってきます。

たとえば、ある有機体の「全体」は、原子を「部分」として構成されています。しかし、原子をどれだけ集めて団子状にしても、それだけでは有機体にはなりません。進化の過程で細胞膜や細胞核といった独自の性質を持つ構造が発生して初めて有機体に進化したわけです。原子は細胞膜の部分ではあっても、全体ではありません。一方、細胞膜は原子を内に含み、さらに単なる原子の集合体を超えた、プラスアルファの「何か」です。この仕組みを、現代進化論では「創発」と呼びます。すなわち、「全体(進化後の状態)は、部分(進化前の状態)を含んで超える」あるいは「全体とは、部分の総和を超える何かである」ということです。
同じように、人間の身体は有機物の集合体として出来上がっていますが、どれだけ有機物を集めて団子状にしても、人間の心(意識)は出現しません。有機体から心にまで進化するには、原子が細胞膜にまで進化するのと同じように、独自のプロセスが必要になります。ただし、そのプロセスについて、ウィルバーは安易に唯物論的に説明しようとはしません。そこを安易に説明する前に、そうした共通する構造、あるいは仕組み、あるいは性質を突き詰めていった先に何があるのかを、まず見極めようとします。

この項をまとめておきます。
「ホロン構造とは、全体(進化後の状態)は部分(進化前の状態)を含んで超える、ということである。現代進化論では、この性質を「創発」という」

■物と心、科学と宗教、西と東

いわば心の「ホロン」構造を見極める具体的な方法として、ウィルバーは心や意識を扱う科学(心理学、哲学、宗教学、神秘主義など)の最新成果から様々な証人を集めてきます。たとえば、宗教学者のヒューストン・スミス、哲学者のユルゲン・ハーバーマスやジャン・ゲブサー、意識研究のロジャー・ウォルシュ、心理学者のクレア・グレイブス、ロバート・キーガン、ジェーン・レヴィンジャーなど、名前を挙げればキリがありませんが、そうした研究者たちの最新の研究成果です。彼らは何十・何百種類という「心の発達構造モデル」を提示していますが、それらには共通項があるとウィルバーは言うのです。人間の心の成長・発達においても、あらゆるものの進化の構造と同じように、「創発」すなわち、全体(進化後の状態)は部分(進化前の状態)を含んで超える、という現象が起きている、というのです。その詳細については稿を改めますが、ここで重要なことは、有機体と心を比べてみると、「心は身体を内に含んで、なおかつ超えている」ということです。もっと正確に言えば、「心(意識)」層は、「物質+生命」層を「含んで超えている」ということです。もちろん、「心」層以下に対する「魂+霊」層も同じです。
「そんなバカな話はない。意識は脳の中に収まっているのであって、心が身体(有機体)を内に含んで超える、などということはあり得ない。それは科学ではなく宗教の教義にすぎない」と唯物論者なら言うでしょう。しかし、それこそが唯物論者の「幼さ」です。これは宗教の教義などではなく、人間の経験的真理であることが、この後明らかになります。

ここまでをまとめておきましょう。
ウィルバーは、「物質から生命へ」という物理学的・生物学的な進化にかんする研究成果と、「心から魂へ、そして霊へ」という心理学的・宗教学的・神秘学的な進化(意識の進化)にかんする研究成果とをつぶさに検討してみた結果、そして(このことは以下に詳しく触れますが)もちろん自らの体験にもとづく実感も踏まえたうえで、両者がその構造において同じ性質を持っていることを発見した、ということです。その結果ウィルバーは、西洋的な知のあり方と東洋的なそれを見事に融合させてしまった感さえあります。
実際にウィルバーは、二十代で著した「意識のスペクトル」では、「心理学において、西洋の知と東洋の知を統合するという、今まで誰も成し得なかった困難な仕事を成し遂げてしまった」と言われ、四十代のときに著した「進化の構造」では、「この世のすべての知の領域を統合してしまった」と評価されたのです。
とはいえ、ウィルバーは「物質+生命」層と「心+魂+霊」層とを短絡的に結びつけることには、あくまで慎重な態度を取っています。

この項をまとめておきます。
「人間の意識進化にもホロン構造があり、進化は創発という性質をともなって起きる」

■真にスピリチュアルな意識論

さて、この世のありとあらゆる知の領域をすでに統合してしまっているような人は、人間の意識について、どのようなアプローチをするでしょう。
改めてケン・ウィルバーのこの言葉を引用します。

「真の意識の理論への最初のステップは、意識が有機体の中にあるのではないという認識を持つことである」

つまり、「意識は脳の中に収まっているのではない」と考えるところから、真の意識論を始めるべきである、というわけです。
ウィルバーは、人間が生まれる前のいわゆる「中間生」とか「過去生」といった現象に対しても、決して否定しない立場に立っています。

「フルクラム(階梯段)0が、今生での人生の「ラインの出発点」であることは、意識のラインの出発点もそこにあることを意味しない。
私たちは、フルクラム0に先立って、全中有(バルド)領域、あるいは過去生の境域があるという可能性に対してオープンであるべきであろう」(「統合心理学への道」)

ここで言う「フルクラム0」とは、生まれたばかりの赤ん坊の状態(これから成長の階梯を昇ろうとする最初の段階)を指します。「バルド領域」とは、死んでから次に生まれ変わるまでの期間(いわゆる中間生)のことで、「チベット死者の書」に登場します。
ウィルバーはここで、赤ん坊がゼロの段階から成長していくことを認めつつも、意識のレベルでは、中間生や過去生の領域ですでに何かを獲得した状態で人間が生まれてくる可能性について、決して否定しない考えを表明しているわけです。

この項をまとめておきます。
「真のスピリチュアリティとは、意識を頭蓋骨の狭い空間から解放するところから始められる。そのように考えるなら、意識が肉体に先立って存在している可能性も否定できない」

■意識は死をも超越する

ウィルバーが死後の世界や過去生を否定しないという考えに至ったのは、意識の進化が極まれば、熟睡中でも意識を保っていることが可能である、ということを経験的に知っているからかもしれません。

「覚醒している時、夢を見ている時、深く眠っていて、夢のない時、このすべての状態を通じて現れる一定の意識は、通常、長い年月の瞑想体験のあとに起きる。わたしの場合、二五年かかった。(中略)
(夢を見ている状態から)やがて夢のない、深い眠りに入るが、この時も意識は残る。しかし、そこには広大な空(くう)があるだけで、内容は何もない。しかし「意識は残る」というのも正しい言い方ではない。というのもそこに意識しているものとされているものの二元性がないからである。そこはむしろ、純粋無垢な意識それ自体であり、内容も主体も客体もなく、「無」ですらない広大な空性であって、ただいかなる属性ももたないだけである。」(「存在することのシンプルな感覚」)

この一文を読んだだけでも、ウィルバーがそんじょそこらの瞑想家や「スピリチュアリスト」を自任する輩とは比べものにならないほど高い次元まで意識の進化を遂げていることがうかがい知れるでしょう。このシリーズ6で披露したジョークのように、暗がりにあることがわかっている「鍵」を明るみだけで探そうとするのではなく、長年の間、「懐中電灯」一本で暗がりに分け入り続けた結果、ごく限られた人間しか到達できない境地に到達した、といったところでしょうか。それはとりもなおさず、ウィルバーの目には、この「世界」が、唯物論者や還元論者が見ているのとはまったく違うものとして映っている、ということだろうと思います。もちろん、より高く、より深く、より広く、ということです。その高さ、深さ、広さは、最終的には(意識のうえで)「死」に極限まで近づくところまでいくようです。

「どんな形であれ、瞑想とはエゴを超えること、あるいはエゴに死ぬことの道である。この意味で、瞑想とは死の模倣、すなわちエゴの死の模倣なのである。どのような方法であれ、一定の瞑想システムに熟練すると、やがて身体と心を完全に「目撃」しつくして、実際にそれらの上に出る、あるいは超越することが可能になる。こうしてエゴは死んでしまい、微細な魂、あるいは「スピリット」が目覚める」
(「存在することのシンプルな感覚」)

人間の意識を、「構造的に進化するもの」と捉えるなら、原子が細胞に進化するように、身体が心へと、心が魂へと、魂が霊へと進化する(含んで超える)はずだ、というのがウィルバーの主張でしょう。それは、人間の意識が、どのように「死」を内側に含んで超えるのかを描いてみせることでもあるわけです。
これこそ、「意識の無限自己言及性」(シリーズ6参照)が極まった先にあるものではないでしょうか。

この項をまとめておきます。
「心と身体という二元性を超越する(含んで超える)ことによって、エゴの死が経験される。その後、あらゆる二元性を超越した「魂+霊」層が立ち現れる。意識は、それらの諸段階を一貫して経験する」

■井戸の底と宇宙を超えた世界

ニコラス・ハンフリーは、その著書「ソウルダスト」を意識研究における「驚天動地」の理論書にしたかったようですが、本当に「驚天動地」なのは、ウィルバーがすでに到達している意識進化の段階です。
この論考を締めくくるにあたり、ウィルバーの次のような長すぎる引用をお許しください。(以下「存在することのシンプルな感覚」より)

「物質から身体、身体から心、心から「スピリット」へ。それぞれの段階で、見守る「自己」は、浅い、低いレベルと同一化する排除的な自己の殻を脱ぎ捨て、より広い、より深い、より高い自己へと開かれていくだろう。それは最後には、それ自身のグラウンドである、「スピリット」へと開かれるのである。
個を超える成長と発達の段階とは、基本的に、この見守る自己が、その最終的な住処、すなわち純粋な「スピリット」、純粋な「空性」へと導かれていく段階である。そこがすべての顕現世界のグラウンドであり、道であり、結実する場なのである」

この文章は、ウィルバーの意識が「存在の大いなる入れ子」のいちばん外側の「スピリット」の層、すなわちすべてのものを内に含んで超えている層にすでに到達していて、その層を含むすべてのものを一貫した「自己」の視線でもって見守っていることを表しています。そればかりでなく、この最終層である「スピリット」の状態は、見るものと見られるものの二元性さえ超越している状態ですから、ウィルバーは、「見守る自己」と、すべてのものがそこから顕現してくる基底の場所でありプロセスでもある「スピリット」と一体化していて不可分であることをも表しています。「私はスピリットであり、スピリットは私である」ということです。もちろんそのなかには「私はあなたであり、あなたは私である」が含まれます。

「悟りの心、純粋な「スピリット」それ自体は、獲得するのが難しいのではない。避け得ようのないものなのである。今、この文章を読んでいながら、どうして「スピリット」がない、などと言えるだろうか。ビッグ・バン以前のあなたの「自己」を見せてほしい。そうすれば、わたしはあなたに全コスモスの「スピリット」を見せることができる。純粋な、時間のない、形のない「スピリット」を・・・あなたは・・・それ・・・なのである」

「そんなバカな!」とあなたは思うかもしれません。「ビッグ・バンとは、この世界の、すべてのものの始まりの瞬間だったはず。たとえ概念的な「自己」であれ、あるいはかたちのない意識であれ何であれ、ビッグ・バン以前に何かが存在したなどというのは、単なる論理矛盾ではないのか?!」
この疑問の答えは、次の文章です。

「そこで、この「見者」は誕生し、時間とその流れ、空間とその運動に先立ってあり、顕現に先立ってあり、ビッグ・バンに先立ってあるものである。この純粋な「自己」がビッグ・バン以前に時間のなかにあったということではない。それは時間に先立って、ある、ということである。すなわちそれは決して時間の流れのなかに入らない。それは時間に気が付くがゆえに、時間から自由であり、完全に非-時間なのである。非-時間であるがゆえに、それは永遠である。永遠というのはずっと続くということではない。時間から完全に自由であるということである」

「スピリット」層に到達し、「スピリット」と一体化した、見守る「見者」としての「自己」あるいは意識は、「時間」という現象さえも見る対象としている、ということです。すなわち時間の外に出ている状態です。ビッグ・バンから始まった時間の流れ、空間の運動の外に出て、それらを内に含んで超えている状態ということです。時間の流れの外に出ているわけですから、始まりも終わりもありません。すなわち「永遠」です。永遠の「今」です。これが「ビッグ・バンに先立ってある」ということです。
ここでもし仮にウィルバーが、「すべてはビッグ・バンから始まった、人間の心や意識、あるいは「自己」という概念さえも」と言うなら、「存在の大いなる入れ子」「意識の無限自己言及性」「意識は有機体のなかにはない」といったことすべてを否定することになります。つまり「存在の大いなる入れ子」のいちばん内側、マトリョーシカのいちばん内側から世界を眺めることになってしまいます。それは、ウィルバー自身が引用している哲学者、心理学者、宗教学者たちの研究成果を否定することでもあります。
それこそが唯物論です。それをウィルバーは「エゴ」の状態と呼びます。「エゴ」の状態とは、苦痛のなかにいる状態だとウィルバーは言います。

「物質としてのあなたの身体は、物質としての家のなかにあり、物質としての家は、物質としての宇宙のなかにある。それは事実である。しかしあなたは、単に物質ないし物理的な存在なのではない。あなたは意識としてのこれそのもの(如)なのである。その時、物質は単に皮膚のようなものに過ぎない。エゴは、物質的な見方をとる。したがって常に物質的なものに捕らえられる。物理的な苦痛に常にとらわれ、苦しめられる。しかし苦痛もまたあなたの意識のなかで起こる。あなたは苦痛のなかにいるのか、それとも、苦痛をあなたのなかに見出すのか。後者であれば、あなたは、深々と真のあなたである空性の広大な「開け」に落ち着いて、苦しみをとりまいて、苦しみよりも大きくなり、苦しみを超越することができる。
もしわたしがエゴとして収縮すれば、わたしの身体はこの家のなかに、この家は宇宙のなかにとらえられている。しかし、もし広大で空なる目撃者の意識に落ち着けば、わたしは身体のなかにいるのではなく、身体がわたしのなかにいる。わたしは家のなかにいるのではない。家がわたしのなかにある。わたしは宇宙のなかにいるのではない。宇宙がわたしのなかにある。このことがまったく明白になってくるのである。すべては広大で開けており、純粋で光り輝く原初の意識の空間のなかで生起しているのである。それは今、今、今、常に永遠に今、ここで生起しているのだ。
それゆえに、意識のままであれ」

お断りしておきますが、これは何もウィルバーだけが経験している境地ではありません。いわゆる「悟り」を啓いた人たちは、多かれ少なかれ、このような境地に達すると言われています。ウィルバーと唯物論者では、同じ世界を見ても、まったく異なるものとして見えている、ということです。唯物論者は間違っているのではなく、ものの見方が原初的であり、狭く浅く低い、ということです。

そろそろまとめます。
ハンフリーをはじめとする唯物論者は、井戸の底から上を見上げ、無限に広がる(マジックショーのような)暗がりに、小さく丸く切り取られた光る一点(これこそまさに全コスモスのグラウンドである「スピリット」そのもの)を見て、井戸から出ることなく何とかその正体を知りたがっているかのように、私には見えます。
一方ウィルバーはいわば、その小さく丸い一点そのものとなり、宇宙の中の地球の中の無限に広がる世界の中の井戸の底から上を見上げているハンフリーの姿を見ている、といったところでしょうか。本来は無限に広がり、「永遠」という、時間から完全に自由な全コスモスのグラウンドである「スピリット」が、ハンフリーには小さな点にしか見えない、という皮肉です。つまりこれこそが、ウィルバーの視点からは、還元論や唯物論が意識進化の(極めて初期の)一段階(エゴとして収縮している状態)にすぎないように見える所以でしょう。
どちらが未熟な考えで、どちらが成熟したものの見方かは、説明不要です。


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