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心理学者、ボルネオの森へ行く【書評】

本書*1は、オランウータンのことがほとんどわかっていなかった戦後すぐの時代に、単身ボルネオに渡り、野生オランウータンの調査を試みた研究者の旅行記です。これまでも、霊長学者による野生のサル調査記に関してはいくつもの書籍が出版されてきました (参考: 【書評】オランウータンとともに)。しかし、そうした類書と一線を画しているのは、本書の著者が霊長類学者というよりは心理学者であり、野外調査の経験がほとんどなく、体力の衰えを感じ始める30代後半に調査を開始した、という点でしょう。

霊長類の行動生態学の王道は、森の中を自由に移動する野生のサルを日の出から日の入りまで何日も追いかけて、1分おきに観察してデータを取るといったようなものです。さらに海外での調査であれば、寝る場所や食べるものにもある程度の妥協をしなければなりません。体力も気力も必要な調査であり、経験には欠けるかわりに若さや覚悟は十分な若い学生といった人たちが、野生霊長類調査の立役者でありました。

著者である岡野博士は、未経験の野外調査に37歳で飛び込みました。彼をそうしたオランウータンの野外調査に駆り立てたのは、学問への情熱とチャレンジ精神だったようです。より適切な比較認知心理学のために、ヒトに近い霊長類が野生の状態で暮らしているのを観察しようと、アフリカより日本に近い、東南アジアのボルネオ島に狙いを定めます。いろいろと面倒な手続きが必要になる研究許可などもきちんと取得し、野外調査の経験を積んでいる京都大学の霊長類研究者たちにアドバイスを求め、政治状況や既存資料を考慮し、調査地をボルネオ島の (現在の) サバ州に定め、ヒルよけのための専用の調査着や寝袋を作成してもらったりなどして、満を持して出発します。


ぜんぜんみつからない!

しかし、1963年になされた岡野博士の調査はなかなかうまく進まなかったようです。野生オランウータンの生息地になかなか行き当たらず、結局、1ヶ月程度の滞在期間のうちで、オランウータンを見ることができたのは1回だけでした (それも、乗る予定の船が遅れて、その時間つぶしに森を調べていたときに!)。

岡野博士は以下のように考察しています。現代のボルネオ島で野生オランウータンの調査に関わっている私からすると、この考察は本当にそのとおりだと思います。

この木にいるといわれてもまだ私たちにはその姿が見えない。そのくらいオラン・ウータンは巧妙に身をかくしているのである。
(中略)
野生のオラン・ウータンの研究をするのには、森の中をやたらに歩き回ってもだめだということである。森を知らないものがいくら歩きまわっても、ガサガサいう足音は森の中をはるか遠くまで伝わるし、森の動物はわれわれの近づくのをとっくに知ってしまって、逃げるか巧妙に隠れるかしてしまう。


野外調査のいろいろ

本書には、冷静でありながら温かく、そしてちょっぴりのユーモアを備えた視点から、1960年代のボルネオ島の習俗や人びとのことが描かれています。現代のボルネオ島での調査からも、「ああ、こういうことあるある!」と感じる部分があります。

たとえば、原生林で道に迷う壮絶な恐ろしさ、森のなかで襲ってくるヒルや蚊の面倒くささ、おいしそうな食べ物の様子や、現地の人とのやりとりなど。なかでも特に、調査を手伝ってくれたふたりの調査助手の性格の違いにはおもしろいものがあります。

調査助手のひとりは、現地語、マレー語、中国語、英語を自由に話し、鉄砲が上手な、抜け目のないトマス。もうひとりは、英語しか話せずのんきな性格のラジャパクシー。トマスのほうが調査に役立つかと思いきや、自分勝手で言うことを聞かず、岡野博士はたびたび手を焼きます。一方のラジャパクシーはとても誠実な性格で、友人のように、最後まで岡野博士の調査に協力します。霊長類の野外調査では、調査助手の選定が非常に重要だという話を聞きますが、まさにそれを体現しているような感じです*2。


図. 筆者 (ぬかづき) のズボンにくっついていたヒル

その後

その後、岡野博士が本格的に野生オランウータンの野外調査に着手することはなかったようですが、マレーシアのサバ州に半野生オランウータンのリハビリセンターができると再度渡航され、行動学的な研究をされています*3。

本書のあとがきのなかで、岡野博士は以下のように書かれています。

アフリカにはアフリカ病というものがあって、一度アフリカに行ったものはその病にとりつかれて、二度、三度とアフリカに行きたがるという。おそらくボルネオにもボルネオ病というものがあるのだろう。そして、どうやら私もそのボルネオ病にとりつかれてしまったらしい。

1963年から56年が経ち、現在では、ボルネオ島サバ州のダナムバレイという場所で、京都大学や国立科学博物館の研究者たちが野生オランウータンの生態調査を2000年台から継続しています*2*4。ほかにもいくつか野生オランウータンの調査地が確立し、オランウータンの生態もだんだんわかってきています。

しかし、研究が進めば進むほど、今も次々に生息数を減らし刻一刻と絶滅に近づいている、オランウータンの直面する危機が明らかになっています。オランウータン調査は苦労が多いわりに成果が出にくく、霊長類学者たちは敬遠する傾向にあります*4。その生態をもっと明らかにし、保全に役立てることが、わたしたち人類の急務であると言えましょう。

現在、ダナムバレイのオランウータン調査地において、京都大学の研究者が以下のようなクラウドファンディングを実施しています。野生オランウータンのオスの繁殖を解明する研究プロジェクトで、成功すれば世界でもかなり新たな知見が得られます。興味のある方は、ぜひWebサイトを覗いてみられると良いかもしれません。

挑戦!オランウータンの父親さがし|JAPANGIVING

(執筆者: ぬかづき)


*1 岡野恒也. 1965. オラン・ウータンの島. 紀伊國屋書店.
*2 金森朝子. 2013. 野生のオランウータンを追いかけて: マレーシアに生きる世界最大の樹上生活者. 東海大学出版会.
*3 小山高正. 2003. 岡野恒也先生を偲んで. 動物心理学研究 53: 43−44.
*4 久世濃子. 2018. オランウータン: 森の哲人は子育ての達人. 東京大学出版会.


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