レプリカというパクり、他者の痛みに気付けないアメカジ野郎の悲しみ

みなさんは「レプリカブランド」という言葉をご存知でしょうか。
では、「スーパーコピー」という言葉はご存知でしょうか。
レプリカ、コピー、皆さんはどんなイメージを持ちますか?

 今日は、アメカジ野郎の「パクり」問題への無頓着さと、自分の欲望を制御できない幼児性、そして、パクられる側への想像力の欠如について書きたいと思います。

 冒頭の「レプリカブランド」という言葉を聞いて、アメカジ野郎は確実にワクワクします。自分が欲しくて欲しくてたまらないのに買うことがてきないジーンズ等アメカジ衣料を手に入りやすく提供してくれて、しかも「本物」と見分けが付かない商品を供給してくれる「レプリカ」ブランドを、アメカジ野郎は大好きです。

 また、アメカジ野郎とは別かもしれませんが、「スーパーコピー」という言葉が大好きな人々もいます。高級ブランド好きな人々が、欲しくて欲しくてたまらないのに買うことがてきない高級ブランド品を手に入りやすく提供してくれて、しかも「本物」と見分けが付かない商品を供給してくれるスーパー「コピー」は、犯罪であり厳しく取り締まられています。また、ブランドのスーパーコピー品を身に着ける人はファッション好きとして論外な「ダサいやつ」と見做されるどころか、他者の権利を侵害し文化や経済の発展を妨げる犯罪者とされます。もちろん、スーパーコピー品を作り売り捌く業者は言うまでもなく重大な犯罪者です。

 話をレプリカブランドに戻します。アメカジ野郎におけるレプリカブランドとはどういう物かというと、簡単に言えばアメカジ野郎が大好きな過去の衣類の「レプリカ」を販売する商売です。ひとつ例を挙げれば、リーバイスが過去に販売したジーンズのディテールをそっくりそのまま盗用し無許可で販売しているブランドです。そんなブランドが日本には無数にありました。信じられないことです。そして、実際に2007年頃には流石に看過できなくなったリーバイス社に多くのブランドが訴訟を起こされています。

 リーバイスは言うまでもなく、百数十年間のジーンズの歴史に於いて、その開発、普及を先導してきたパイオニアです。世界中に無数にあるジーンズメーカーの中でもその存在感は飛び抜けて大きく、あらゆるメーカーがリーバイスの影響から逃れられないながらも、追いつこう、追い抜こう、と切磋琢磨しています。例えば、大手ブランドのLeeではリーバイスの採用する生地の織り方(右綾)の逆の織り方(左綾)を採用したり、Wranglerではまた違った織り方(ブロークン)を採用したりしています。これはほんの一部ですが、リーバイスの製品とどう差別化するかはブランドアイデンティティそのものでもあります。

さて、ありえないことですが、例えばLeeがリーバイスの過去製品をそのまま再現して販売したら、どうでしょうか?リーバイス501xxを入手したLeeが、生地の風合いから縫製、タブまでコピーしてそっくりなジーンズを作ったとしたら?さらには、公然の秘密として、ヒップポケットに施した飾りステッチを購入者が一部抜き取ることで、リーバイスのアイデンティティであるカモメ型のアーキュエイトステッチすら再現できるとしたら?そして、購入者はそれを「リーバイスのヴィンテージジーンズ」を履いているつもりでいるとしたら?(ここまでは完全な妄想です。)
前置きしても余りあるありえなさですが、これと同じことをしていたのが日本のレプリカブランドです。

 このような倫理観に欠けた商売は消費者心理として淘汰されてほしいと願います。昨今でも、ファストファッションのデザイン盗用問題はとても制御不能なほどのスピードで拡大し、ファッション業界の知的財産権や正当な競争を守ることは非常に難しくなっています。そこでは、やはり買う側のモラルや価値観への問いかけが重要になっています。

さて、日本のレプリカブランドではそのような消費者モラルによる淘汰は起きたでしょうか?結論から言えば、真逆のことが起きていました。消費者、つまりアメカジ野郎はリーバイスの権利を侵害したレプリカブランドを応援し、細部に至るパクりのうまさをまるで研究成果のように賞賛し、「リーバイスにしか見えない」商品を待望していました。


慣れというものは恐ろしいもので、そのような世の中にアメカジ野郎は慣れすぎてしまい、例えばルネサンス期の絵画の模写を買うような感覚でコピー品を手にしていたのではないでしょうか。そこには「本物は手に入らないから」「ここまで再現したことが凄い」などの言い訳が蔓延していましたが、高級ブランドのコピー品を買うモラルの低い人々との違いはそこにありません。

アメカジ野郎は、ジーンズへの知識は異常なほど詰め込んでいますが、そのオリジナルへのリスペクトは皆無です。リーバイスは過ぎ去った過去の文化ではなく現在も続く会社であり、我々と同じ時代を生きている人間の集団です。リーバイスで働く人々が、「パクられたら嫌だ」という当たり前の感情を持つことに気付けないのでしょうか。全ては、アメカジ野郎の「だってほしいんだもん」という幼児的な駄々が他者への想像力を上回っていることが原因です。古いジーンズに魅力を感じ、欲しくなるのはかまいません。手に入れられないからよけい欲しい気持ちもわかります。しかし、だからってパクりますか?なぜ、アメカジ野郎は誰一人そういった行いを止めることができず、自分たちの醜い欲望を満たすレプリカを賞賛し、あげく被害者であるリーバイスが訴訟を起こした時は批判すらしたのでしょうか?自分たちの「ほしいんだもん」以外の他人の都合に少しでも想像力が向かないのでしょうか。

イラスト、漫画、音楽、デザイン、これだけ盗用が問題になっている世の中で、なぜアメカジ野郎だけはレプリカという他人の努力にただのりした商品をありがたがるのでしょうか?想像力のない彼らは、アメカジ知識で頭がパンパンの自分たちは物知りであり、その知識によって自分たちはより本質を見据えることができるはずだと勘違いし、本質に近い自分たちが欲しいものも本質に近い立派なものだと盲信しています。レプリカジーンズに対する違和感をただの一瞬も持ち得ること無く、せっせとバックポケットの「余計な」ステッチを糸切りで抜いてレプリカジーンズをリーバイスに誤認させる儀式に精を出しています。彼らが自己イメージ通りの本質に近づける日はいつになるのでしょうか。

以前も書きましたが、アメカジ野郎はあまりにも臆病であるため、他人が価値
を確定してくれた過去の遺物にしか興味を持てません。自分で考える、判断するということができないのです。リーバイス501xxがかっこいいのはわかりますが、当時の人々はアメカジ野郎のように数十年前のジーンズの幻影を追いかけていましたでしょうか。その場で売っている新しいジーンズを手に取って、自分なりに履いていたはずです。そこに、ヴィンテージジーンズという妄想上のありもしない価値を有難がる雰囲気はなかったのではないでしょうか。

アメカジ野郎が、オリジナル当時のリーバイス501xxのように、いまこの瞬間に作られ、彼らの目の前で販売されているジーンズを履く日はやってくるのでしょうか。自分たちの時代、自分たちの人生に余計な味つけをせず、そのままありのままを愛し日々を送る衣料としてジーンズを選ぶ日は来るのでしょうか。レアじゃないと、ヴィンテージじゃないと、ジーンズに価値を見いだせない狭い価値観や、その価値観を納得させるためならパクりでもなんでも歓迎する間違った倫理観から抜け出し、本当に彼らが自分らしく生きる日を待ち望んでいます。

また、ジーンズ業界の健全な競争のため、レプリカジーンズメーカーにはリーバイスへのリスペクトをこれからも持ち続け、かつ依存すること無く自立した活躍を期待しています。

今回もお読み頂きありがとうございます。

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