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"23 SKIDOO"の事。

時代を先取りした先鋭的なアーティストは、当時はまったくもって無視され続けても解散後に評価される事が多くて、再評価後にはフォロワーを多数巻き込みながら大きなうねりとなっていく。一方、再評価されても、その特異性からフォロワーを生まずにいつまでも独特な立ち位置に君臨していて、孤高の存在としてカルト的な支持を受けるに留まり、そして伝説となる者もある。ファンク、ガムラン、ヒップホップを混ぜ合わせ、実験的なサウンドを作り出していた他に類を見ないバンドが1980年代に存在した。そのバンドの名前は23 Skidooという、これまた独特なものでした。常に世間の流れに逆らった彼らの音楽人生は、一体どうだったのでしょうか。

[Last Words} (1981)

1979年にイギリスはシェフィールドで結成されたバンド、23 Skidoo。オリジナル・メンバーはFritz Catlin、Johnny Turnbull、Sam Mills、Pat Griffithsの4人でした。バンド名は、アメリカのスラングで「すぐに去る」みたいな意味がある様で、このフレーズをウィリアム・バロウズは短編小説「23スキドゥー」で、アレイスター・クロウリーは「 嘘の本 (約1912–13)」の第23章を「スキドゥー」と題していますので、その辺から取られたみたいです。1980年にはデビュー・シングルとなる7インチ"Ethics"を制作しています。この時のレコーディングは、MadnessのベーシストのMark Bedfordが資金援助し、マネージャーでレコード店オーナーのNigel WilkinsonとDave Hendersonが設立した小さなレーベルPineapple Productsからリリースされました。その後、新メンバーとしてJohnnyの弟のAlex TurnbullとTom Heslopが加入して6人組バンドとなってギグを行います。それを観たFetish RecordsのRod Pearceが感銘を受けて契約しています。Fetish RecordsはRod Pearceが始めた小さなインディーでしたが、Throbbing Gristleや、Cabaret VoltaireのStephen Mallinder、Bush Tetras、The Bongosなどをリリースしたインダストリアル/ノイズ系の伝説的なレーベルで、Neville Brodyによる数々のアート・ワークでも有名でした。同じ年に12インチ・シングル"The Gospel Comes To New Guinea”と”Last Words”をFetish Recordsからリリースしています。これらは、地元シェフィールドの音楽レジェンド、Cabaret VoltaireのスタジオであるThe Western Worksでレコーディングされています。古くからエンジニアとしてQueenやDavid Bowieをはじめとして数々の作品に関わり、後に大物プロデューサーとなる駆け出し時代のKen Thomasの他、Stephen Mallinder、Christopher R.Watson、Richard H. KirkというCabaret Voltaireのメンバー全員がクレジットされており、何らかの役割を担っている様です。バンドは、Cabaret Voltaireのライヴをサポートし、Defunktとも共演し、フェスティバルにも出演しています。1981年にはJohn Peelのラジオ・セッションでレコーディングを行っています。

[Seven Songs] (1982)

彼らのデビューアルバム「Seven Songs」は同じくFetish Recordsから1982年にリリースされています。Fetish Recordsの多数の作品やDepeche Mode、Level42などのジャケットを手掛け、後にThe Face誌のアート・ディレクターになるNeville Brodyによる目を引くジャケットに包まれたこの作品は、耳を劈く耳障りで多種多様なインダストリアル・ノイズと民族音楽の影響が色濃いトライバルで変則的なビート、ノイズと化した攻撃的な低音ヴォイスによるセンセーショナルでアヴァンギャルドな内容でしたが、アルバムはUKインディー・チャートで1位を記録しています。この意図しないコマーシャル・サクセスが、バンドの運命を狂わせる事になるとは...。このアルバムは、ロンドン近郊のサリーに出来たばかりのJacobs Studioで3日間でレコーディングされています。プロデューサーはTony, Terry & Davidとクレジットされていますが、これはKen ThomasとThrobbing Gristle/Psychic TVのGenesis Breyer P-OrridgeとPeter Christophersonの変名でした。この極端なノイズの応酬にも納得させられました。”Seven Songs”は、Richard Heslopがヴィジュアルを手掛けた映像作品としても Fetish Recordsからリリースされ、実験的な映像クリップを収録したVHSと、色のついたコンドームや絆創膏などがプラスチックのバッグに入った特殊なもので、この作品は素晴らしいものだったとメンバーが語っています。Cabaret VoltaireやThrobbing Gristleという、彼らの憧れの人たちとのレコーディングを実現させ、それに大きく貢献したFetish Recordsのオーナーで23 Skidooの理解者であり、バンドのプロデュースやレコーディング費用の全額を負担していたRod Pearceの意に反して、バンドは売れる事に拒絶を示しています。それに絶望したRod Pearceはレーベルを1986年に閉鎖し、移住したメキシコで惨殺されるという悲劇的な最期を遂げています。

[The Culling Is Coming] (1983)

1982年頃から、Johnny TurnbullとAlex Turnbullがインドネシア・バリ島の民族音楽ガムランの習得のために長期に渡って滞在することを決め、その時期に2人が不在のまま、新しいシングル”Tearing Up The Plans”のレコーディングが行われていますが、「Seven Songs」がヒットした事で多数のギグを行う事となり、その途中でギタリストのSam MillsとヴォーカリストのTom Heslopをバンドから追放しています。ヴォーカルとギターを解雇するという大きな間違いを犯したと認める彼らでしたが、時すでに遅しでした。残ったメンバーは、Peter Gabrielが主催する世界的なワールド・ミュージックの祭典「WOMAD(World of Music, Arts and Dance)」に出演しています。Current 93のDavid Tibetの助力を得て演奏したステージは、メタル・ジャンクによるパーカッションやテープ・ループのみを使用した、あまりにも実験的なものでした。1983年のアルバム”The Culling Is Coming”は、WOMADでライヴ・レコーディングをA面に、B面には全編にガムランを取り入れた実験的なスタジオ・レコーディングを収録している変則的な作品でした。このアルバムは、メディアを中心に酷評され、リスナーは困惑し、そして彼らの味方はいなくなったのでした。彼らの創作活動は、リスナーが期待しているものと真逆のものをやる事をコンセプトとし、ライヴの度に楽器のセットアップを変えるなど、挑発的で攻撃的なステージの評判は最悪でした。彼らのサウンドは、あまりにも革新的すぎたのです。

[Urban Gamelan] (1984)

1984年には、ソウル/ファンク・グループLinxのベーシストだったMr. SketchことPeter Michael Martinが加入し、Simon Boswellがプロデュースした2作目のアルバム”Urban Gamelan”をリリースしています。同じ頃に大ヒットしていたPaul Hardcastleの"19"のエレクトロ・サウンドに惹かれていた彼らがレコードを聴いていたところ、流れてきた「戦士したアメリカ兵士の平均年齢は19歳だった」というサンプリングに対して「亡くなったベトナム人はもっと若かったじゃないか」と憤慨し、映画『地獄の黙示録』からのサンプリングを使用してカウンターとして制作したという"Fuck You G.I."などを収録しています。次のシングルで、バンドとして非常に重要な曲であると公言する"Coup"では、ジャマイカのレジェンド的トロンボーン・プレイヤーのVin Gordonと、AswadのEddie (Tan Tan)という、彼らが敬愛するレゲエ・ミュージシャンが参加しています。華麗なホーン・セクションとサンプリングに絡むファンキーでダンサブルなヒップ・ホップ・サウンドは、Liquid LiquidやGrandmaster Flashに触発されたものでした。世間の評判も良かったのですが、これも彼らにとっては嫌悪感でしか無かったようです。課外活動で行っていたDJを通じてヒップホップのサウンド・メイキングの可能性に驚嘆した彼らは、この後ヒップホップに深く傾倒する事になります。別名のユニットAssassins With Soulを立ち上げ、シングル"23 Skidoo Vs. Assassins With Soul"をリリース、彼らのヒップ・ホップへの傾倒は続き、1989年にはメンバーが自身のレーベルRoninを立ち上げ、Paradox , Deckwrecka , Roots Manuva ,Skitzなどのヒップ・ホップの作品をリリースし続け、ナイキ、ラングラー、スミノフといった企業の音楽を作り、数多くのヒップ・ホップ・アーティストのリミックスを行いました。23 Skidooの作品は散発的にリリースしていましたが、バンドとしての活動は、ほぼ休止していました。

[23 Skidoo] (2000)

16年に及ぶ沈黙の後の2000年にVirgin Recordsと契約し、Pharoah Sandersをフィーチャーしたシングル"Drawning"と、セルフ・タイトルのアルバム”23 Skidoo"をリリースしています。この作品は、彼らのサウンドをアブストラクト・ヒップホップやドラムン・ベースへアップデートし、ジャズとダブをミックスしたモノでした。この時の稼ぎを元手に、自身のスタジオであるPrecinctを立ち上げ、2002年にはRoninからシングル・コンピレーション”The Gospel Comes To New Guinea”をリリースし、Roininから"Seven Songs"と”Urban Gamelan”を初CD化しています。2008年頃から急激に彼らの再評価がはじまり、エディンバラの再発レーベル、LTM (Les Temps Modernes)から"Seven Songs"と”Urban Gamelan”がリマスター再発されています。2012年には、過去のJohn Peelのラジオ・セッションがリリースされています。でも、彼らは「評価なんて必要ない」と言うのでしょう。

[Peel Session] (2012)

23 Skidooは、ある意味非常にラッキーなバンドでした。Fetish RecordsのRod Pearceという、バンドの良き理解者で敬愛する先人Cabaret VoltaireやThrobbing Gristleとの奇跡的なコラボレーションをお膳立てした人物の献身を得て作り出したダークなパンクやミニマル・ミュージック、ファンクやインダストリアル・ミュージックを実現できた。しかし、多くの人に聴いてもらえる喜びを感じず、逆に拒絶して挑発して世間を敵に回した。ガムランやアフロ・ビートなどの人々が期待しないサウンドや方法をミックスした独自のサウンドを作り出し、まだ一般的では無かったヒップ・ホップの方法論を持ち込んで独特なサウンドをクリエイトしていった。その才能は疑いようもなくて、彼らのサウンドは時代を遥かに超越していたが、認められる事を否定して音楽業界から完全に締め出された。メンバーのJohnny Turnbullは、音楽的な成功についてどう思うかとのインタビュアーの質問に対して「僕らははポストパンク時代の産物で、そこではコマーシャル・サクセスしたら全てが終わりなんだ」などと答えています。

今回は、時代を超越してしまい、成功を悪とみなして拒絶し続けたバンドが辿った数奇な運命の中で、彼らの運命を狂わせたアルバムに収録された曲ではありますが、ポスト・パンクの時代に生まれた奇跡のようなこの曲を。

”Kundalini" / 23 Skidoo

#忘れられちゃったっぽい名曲


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