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1995

1995年は、日本に文字どおり激震が走った年でした。
阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件があった年です。
関東大震災以来の大都市を襲った巨大地震と、毒ガスを使ったテロ行為は、それまで『飲み水と安全は無料』と言われてきた日本の安全神話を揺るがす大変ショッキングな出来事でした。

一方、私の人生の中でも説明のつかない不可解な出来事の1つが起こったのもこの年でした。

ある日の朝、目が覚める直前に、

「鎌倉へ行け!」 

という雷のような大音声が頭の中に響きわたり、飛び起きました。

その頃、ネイティブアメリカンの聖地を始め、金が尽きるまで世界中を旅した私は実家に帰りニートのような生活をしていました。

「鎌倉?!」

夢というにはあまりに衝撃的。
とにもかくにも、『お告げ』の言うとおり鎌倉へ向かいました。
鎌倉駅のひとつ手前、北鎌倉駅で降りると、何故か黄色いものが目に飛びこんできました。

黄色い道路標識、踏み切りの遮断機の黄色、道ばたの黄色い花。。。。

目に映る黄色いものを追って、歩き出しました。

1日中、歩いて歩いて。。。。最終的に私が出会ったのは、粗末な黄色い袈裟を身に付けた5人ほどの僧侶の集団でした。

その人たちこそ、木津上人が率いる『日本山妙法寺』の面々でした。

日本山妙法寺とは~故藤井日逹師が創始した
「仏教は、死んだものではなく生きている人間のためのもの。平和な世の中を作るもの」
という主旨で活動する僧侶集団で、妙法寺の僧侶は、世界中のあらゆる戦争をしている地域へ身一つで向かい、現地で救済活動をしながら平和を訴え祈りを捧げます。
また、焼身供養と言って自分の身体の一部を焼いて供物として捧げる厳しい修行でも有名です。

あとから知ったのですがリーダーの木津上人は、ベトナム戦争の時にアメリカ軍の戦車の前に一人で立ちふさがり、行軍を止めたことで世界中の平和活動家から尊敬されている人でした。

私は、おそるおそる彼らに、
「これこれこういう訳でここに辿り着きました。たぶん、あなた方に会うためにここへ導かれたのだと思います」
と話すと、
「私たちは全国を行脚している途中だから、明日から一緒に来なさい」
と言われ、次の日に彼らと共に全国行脚の旅に出発しました。

全国行脚の旅、と言っても彼らは言ってみれば
「平和のために戦う僧侶集団」
ですから、いく先々の自衛隊基地やアメリカ軍基地、原子力発電所、あるいは地元住民の反対する巨大な公共事業、そういったところを回って、戦争の愚かさや、平和の大切さ、自然を守ることを訴えて回るのが主な目的です。

夜は宗派は違えど協力してくれるお寺に泊めてもらったり、親切な人に泊めてもらったり、野宿したり。
僧侶ですから朝晩の謹行もちゃんと有りました。

私は木津上人にずいぶん気に入られて、
『正法院 日泰』
という法名をつけて頂きました。

ネイティブアメリカンネームについで、本名以外では2つ目の名前です。

この行脚の旅が終わったら、頭を剃って木津上人の元で修行を積んで一人前のお坊さんになる。
そんな話を夜、旅先の銭湯に浸かりながらお坊さんに囲まれてしたのを思い出します。

しかし、宗教というのは私から見るとどうしても頭が固すぎるように思えて馴染めませんでした。

旅を続けて数ヵ月後、阪神淡路大震災直後の大阪まで来たときに、妙法寺の僧侶たちと、私と旅の途中から加わったアメリカ人の平和活動家とドイツ人のカメラマンの3人との間で意見が真っ二つに割れる出来事があって、私はドイツ人とアメリカ人を連れて、彼らのもとを飛び出してしまいました。

しばらく震災跡のキャンプ村で3人でボランティアをして過ごしたのですが、
「うちの仕事手伝ってくれへん?」
と声をかけてくれたのは、セイクレッドランというイベントの実行委員の事務局のかたでした。

セイクレッドランとは~デニス・バンクスが率いるAIM (アメリカインディアン解放運動)が世界中で行っているイベントで、昔、ネイティブアメリカンの部族の間で争いがあったとき、お互いに和平の伝言を伝え合う伝令のランナーは、ピースメイカーとして尊敬を集めたという故事が元になって作られたそうです。
「All life is sacred(全ての命は神聖)」
をスローガンに、数百キロの距離を何日もかけて駅伝でつなぐというイベントで、このときは北海道の礼文島から長崎までをつなぐことを目標としてネイティブアメリカンをはじめ世界中からランナーが集まってました。

私はネイティブアメリカンには相当な縁があるようです。
しばらく、事務局に泊まり込んで事務仕事にせいをだしていましたが、
「あんたも若いんだから走ってきなさい」
と言われ、東北から私もランナーとして参加するために送り出されました。

世界中から集まった人達と共に毎日数十キロを走り続ける日々は、妙法寺の僧侶たちと過ごした日々とは打ってかわった解放感に溢れていました。

早朝、みんなで輪になってドラムを叩き歌いなから、その日最初のランナーを送り出し、夕方、みんなで輪になってドラムを叩き歌いながら、その日最後のランナーを夜営地に迎え入れました。

夜はよく皆で火を囲んで色んなことを話し合ったり、みんなで一晩中ドラムを叩きながら歌った日もありました。

特に歳上のネイティブアメリカンのリーダー達と深い精神的な話をするのは楽しみでした。

この旅で一番思い出に残っているのは最後の夜、最終目的地の長崎へ着くという前の晩の事です。

私はろくにテントも持たずに旅に出たので、旅の途中で手に入れた毛布にくるまって地面の上で寝ていたのですが、蚊が酷くてどうにも寝られず、いつものように誰かのテントに入れてもらおうと、焚き火のほうへ向かいました。
たいてい焚き火のまわりには誰かいて、火の番をしたりコーヒーを飲んだり、タバコを吸ったりしていたのですが、その日はエメット一人だけでした。

エメットは、最年長のネイティブアメリカンのランナーで、背中まで届く白髪の長い髪、長身で大変カッコイイおじいさんで、みんなの尊敬を集めているセイクレッドランのリーダーの一人でした。

エメットは私を見ると
「眠れないのかい?」
と聞いてきたので、私は
「そうなんだ。蚊がたくさんいて。。。。」
と答え、エメットに前から聞きたかったことを聞きました。
「ねえエメット、私たちはAll life is sacred という言葉を掲げて数百キロを走ってきた。けどね、私は今夜、たくさんの蚊を殺したよ。それに夕飯に肉も食べた。私は生きているだけで他の命を犠牲にしてる。そんな私が全ての命は神聖だなんて言ったら嘘になるよね」

エメットは、私のたどたどしい英語にじっと耳を傾けて聞いてくれました。
そして、
「ジャパニーズボーイ、私も君と同じ悩みを持っているんだよ」
と答え、
「今夜は二人で考えよう。どうしたら我々はAll life is sacred と言えるようになるか」
と言って、私にも分かるようにユックリとネイティブアメリカンの教えについて話始めました。

やがて、ケルトの血をひくイギリスから来たメアリー、オーストラリアから来た女性最速ランナーのスー、イースター島出身の十代の少年マリが話の輪に加わり、みんなでユックリとしゃべり続けるエメットの話に耳を傾けました。

。。。。これで私の1995年の旅の話は終わりです。
『あの声』がいったい何だったのか?謎のままですが、この旅で学んだ深い教えは、私の精神に染み込みました。

そして、この旅は意外な影響も、もたらしました。
妙法寺や、セイクレッドランの活動で、あちこちの反基地運動や反原発運動に関わったおかげで私は、その頃オウム真理教の事件で活発化してた公安のブラックリストにのってしまったようなのです。
事情聴取された反原発運動の人が、
「こいつの身元を知らないか?」
と私の写真を見せられた、と話してくれました。

私はまた、日本を少し離れようかな、と思い始めていました。
~続く?

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