Vtuber・轟京子という人格――凡庸なろきぺによる一考察

・Vtuber「とは何か」から逸れて

 Vtuberとは何か、サブカルチャーとは何か。もう飽き飽きだ。アイドルの話もVtuberの話も、全部「とは何か」から始めないとインターネット論客の方は気が済まないんだろうか。いや、これは特大ブーメランだ。だって僕もそういう記事を書いたから。実際、バーチャルYoutuberをめぐる思想・思考の行く末は、それなりに面白い。ある程度のリテラシーがあれば結構楽しめてしまうし、Vtuberを「ちゃんと」書ければ、Vtuberというコンテンツ自体が大きく盛り上がる可能性だって、割とある。じゃあ、僕も含めて、「とは何か」みたいなクソデカ主語への問いから始めず、「ちゃんと」Vtuberを語れている語りって、実際どのくらいあるのだろう。いや、全部は読んでないから分からないよ。分からないけど、ネットや紙で読めるVtuber「論」みたいなものは、結構な割合で失敗している。単なること挙げに終わっていて、Vtuberに深く潜っていく、あるいはVtuberを拡張するような言葉はまだ開発されていないと思うし、僕もそれができる自信は正直ない。でも、未だ発展途上のVtuberというジャンルが大好きな頭でっかちオタクとしては、単純にそれでは寂しい……。

 なんでそうなるのか――パッと思いつくのはコンテンツと語り手との距離がちぐはぐになっているからという問題。「とは何か」論は、語りがコンテンツから離れようとしているんだけど、書き手はVtuberを「面白い」ものだと決め込んでかかるので、「なんでその人にとってVtuberが面白いのか」が結局よく分からなくなる(僕の頭が悪いだけだと言われたら立つ瀬がないけど)。というか、「Vtuberは面白いもの」という前提が共有されていないと、文章自体が読めない作りになってしまっている気がする。任意のコンテンツを面白いと思うためには、色々な準備が必要だと思う。「楽しい」ことは勿論第一で、楽しいと思わないと「面白く」もならないけど、面白さは感じるものではなくて解る(言葉遊びのようだけど、「分かる」ではないのがミソ)ものだ。僕はクラシック音楽が好きだけど、仮にワーグナーのオペラをクラシック音楽が全く分からない人が観たら、多分訳の分からない4時間を過ごすことになるとは思う。音楽史を知っていればいいかというとそういうわけでもなくて、ワーグナーを面白く感じるためには「クラシック音楽」というジャンルの空気感や肌感覚を時間と共に味わう必要がある。すると、ワーグナーの面白さがだんだん分かってくる。

 話が逸れてしまったような気がするけど、何が言いたいのかというと、Vtuber「とは何か」的な論調での語りは語り以外に要求するものが多すぎるし、語り以外のものを伝えようとする努力すらしていない。コンテンツの中に留まり、訳も分からないまま貪欲に色んなものを摂取していってじわじわと解ってくる感覚をスッ飛ばして、Vtuberはこうこうこういうところが面白いんですよ、と自明なもののように語ってしまう。まあ、そういうことをするとどうなるかというと、コンテンツが閉じる。閉じた中で、語りがうっ血し、頭でっかちなオタクの叫び声がコンテンツ内で反響するだけになる。実際、Vtuberについて書かれたもののどれだけがVtuberを知らない人に読まれてるのか、僕は知る由もない(この文章はそこから更に狭い射程で書かれているように見えるだろうけど、それは置いておいてほしい)。でも、その語りは開かれているような振りをしている。もう、正直こりごりだ。具体的な記事や論文の名前は挙げないが、開かれているような振りをして閉じているというのは、コンテンツの語り方として欺瞞的すぎる。じゃあ、どうすればいいんだろう?


・僕が轟京子について語ること、または押し黙ること

 僕は、推しているコンテンツについてどういう風に語れば、コンテンツを知らない人が「これは、ハマったらヤバいかもしれない」と思ってくれるか考えている。閉じた語りは閉じた語りで結構だ。オタクの暇つぶしにはなるだろう。でも、「推す」ことを自己完結させるのは、少なくとも僕は寂しい。「推す」言葉が伝播して、ウイルスのように人から人へ感染していくコンテンツのおそろしさを感じたい。そういう言葉に溢れているコンテンツは、きっと豊かで、実り多いものだし、何より僕がワクワクする。そして、Vtuberにその「ヤバさ」を嗅ぎつけているからこそ、語る言葉が窒息してほしくないのだ。

 結局Vtuberがどうたらこうたらという話になってるな。違う。こういうことを言いたいんじゃない。手っ取り早く言いたいことを言ってしまえば、僕が伝えたいのはVtuberというコンテンツを「推す」ということの気持ちよさ、危なさなのだ。「推す」こととは、他の何にも代えられない形で推している対象を汲みつくして消費することだ。Vtuberで言えば、それはガチ恋かもしれないし、スーパーチャットを投げることかもしれないし、グッズを買うことかもしれない。ただ、そこにはオタク一人一人の、特異な欲望がある。その「推す」ことの欲望を、人に伝わるように語ろう。それは「推す」ことの肯定であり、擁護でも、反省でもない。「面白い」ものを「面白く」感じてもらうために、それに必要な空気感や肌感覚まで伝えられれば最高だ。僕はそういう語りに飢えているし、そういうものを書きたい。そして、嬉しいことに、その語りは各々のオタクが自らの「推し」を語るという、「とは何か」よりも一見もっと狭そうな形を取って、そこここで実現しているように見える。僕もミクロな視点から、「好き」「かわいい」に回収できない「推す」ことの欲望を、きちんと語れるようにしたい。


 轟京子、現にじさんじ所属(元にじさんじSEEDs所属)のVtuber(詳細なプロフィールを知らなくても読めるようにこの文章は書かれているが、プロフィールは非公式wikiを参照:https://wikiwiki.jp/nijisanji/%E8%BD%9F%E4%BA%AC%E5%AD%90)。この子が、今僕が結構エグめの風速でハマっているVtuber、まさに「推し」である。ものすごく迂遠な書き出しになってしまったが(そして僕が正直に何かを話そうとするときは常に迂遠な話し方になる)、この文章の趣旨は「轟京子を知ってもらいたい」という話である。推しの話をしたいし推しを知ってもらいたい→じゃあVtuberを知ってもらわなくちゃいけない→肝心のVtuberについての語りがうまく行っていないと思う→冒頭の話、みたいな回路だ。分かってもらいたい。

 とはいえ、ろきぺ(轟京子のファンネーム)の端くれを自称する僕が轟京子の魅力について語ることは、結構難しいと思うと同時に、正直あんまり正当な評価を受けているVtuberではないと思っている(過小評価という意味で)。チャンネル登録者数や同時接続の数はVtuberの本質ではないと分かってはいるが、活動を始めてから1年以上が経っていてチャンネル登録者数4万人、同時接続が平均700人という現状は、おいVtuberオタク、もっと真剣になれよという言葉さえ出そうになる(ということは、愚にもつかない配信をしていてチャンネル登録者数や同時接続がもっと多いVtuberがいるということだ。悲しい)。彼女を語る言葉としてあまり適切ではないと思われるのが、一見突飛な言動だけを取り出して「狂ってる(狂子と呼ばれることも)」とか「やべーやつ」(僕はこの形容が本当に大嫌いだ)とかいったものだ。「清楚」、知的なギャルという彼女のキャラクターの上澄みから深く潜った先が、紋切型の「狂気」という救いようのない浅さであっていいのだろうか?そんなわけがない。轟京子は、Vtuberとして、この上なく誠実であり、真摯だ。誠実でも真摯でもない僕は、轟京子を推すことで、誠実さや真摯さというものを信じることができる。そのまっすぐさの深みにハマろう、という話である。

 ただ、轟京子はどこまでもまっすぐであるが故に、語りにくい。屈折や葛藤を、少なくとも配信で彼女が見せることはほぼというか全くと言っていいほどない。その屈折や葛藤に物語やキャラクターのうま味を見出すことは簡単だし、実際轟京子を知る前まではそれがVtuberの醍醐味だとまで思っていた節がある。しかし、轟京子は、どこまでもまっすぐで真摯だ。となると、どこからどうやって切り取って語れば彼女の深い味わいを感じてもらえるかが結構難しい。僕は、この文章で、いくつかの彼女の配信を紹介しながら、できるだけ轟京子を推すことの空気感や肌感覚まで含めた「面白さ」を語っていきたいし、轟京子という「推し」を語る一人のオタクとして、轟京子を知らない人にも彼女を知ってもらいたいという気持ちがある。インターネット検索の限界的にVtuberを知らない人がこの文章にアクセスするのは原理的に不可能な話だが、Vtuberを全然知らない人にも「推し」という欲望がどれだけ特異なものかを知ってもらいたいという気持ちもある。その過程で、僕は轟京子について饒舌になることもあるだろうが、そもそも語れないことがあるということもまた、読み手の人には汲んでもらうことになる。そして、その語れないことこそが、轟京子の真の「面白さ」であり、おそろしさなのだ。


・轟京子をめぐる「人格」の問題――分裂する配信者

 上で轟京子は正当な評価を受けていない、と書いた。それは正直なろきぺとしての僕の気持ちだし、実際本人の面白さに人気が比例しているとはとても言えない状況だ。では、僕は轟京子について何を語れば、彼女の面白さを伝えたことになるのだろう?ほーじろママが手掛けたガワのかわいさ、透き通っていながらもどこか良い意味でだらしなく、親近感の湧く声、サブカルネタを随所に盛り込みマイナーゲームをやりこむオタク気質……あくまでも轟京子を表面的に褒めるならば、そういうところを拾うしかない。そして、そういった彼女の部分的な要素をつまみ食いして語ったところで、轟京子のVtuberとしての面白さや真摯さを語ったことにはならないだろう。

 僕がここで取り上げたいのは、轟京子が「轟京子」であるという難しさであり、Vtuberとして抱える困難をいともたやすく飛び越えて彼女が彼女たりえているという軽やかさである。抽象的な言い回しをしてしまったが、実は轟京子が数々の配信でやっている試みはVtuberという概念への挑戦であり、そして何より恐ろしいのは彼女が無意識にその試みを行っているという事実なのだ。

 当たり前の話をするようだが、Vtuberは名前の通りバーチャルな存在であり、Vtuber自身が自己言及的に自らのバーチャル性について言明するときについて回るのは、このアバターが、この声が、このキャラクターのものであるという「人格」の所有の前提である。YoutubeliveでもミラティブでもOPENRECでもツイキャスでもなんでもいいが、基本的にVtuberという「人格」は、アバター、声、仮構された「中の人」によって所有されていることが、自明なものとして我々ファンの前に現前している。と同時に、Live2Dで動くアバターは所詮アバターでしかない。また、「バ美肉」を例に取るまでもなく、声も置換可能な要素である。そこで、Vtuberファンは、ひとつの倫理的な岐路に立たされることになる。果たして、自分が特別なものとして「推して」いるVtuberは、「取り返しのつかない」ものなのか?「替えの利かない」ものなのか?昨今Vtuber業界をにわかに騒然とさせているゲーム部プロジェクトや、キズナアイ騒動を見れば分かるように、Vtuberが出現した2017年から2年を待たずしてVtuberをめぐる人格の問題はその基盤が揺らいできてしまっている。

 にじさんじは、アバター、声、人格に対して、「取り返しのつかなさ」をその商品価値としているという点で、他のVtuberの企業勢とは一線を画している。現在80名以上を擁するにじさんじは、Vtuberの「人格」の問題を重要視しているという形容では足りないほど、Vtuber個人の「人格」がブランディングの重要な要素をなしている。

 しかし、そこに「待った」をかける存在が轟京子なのである。彼女は、自らの「人格」が、プラットフォームによっては自由に伸び縮みし、変形する可能性の拡張を配信で行っている。しかも、ほとんど無自覚な形で。そして「轟京子」を粘土細工のように変形させることを、轟京子自身が楽しんでいる節さえある。そこに屈託や葛藤はない。「生配信」というプラットフォームにおいて、限りなく轟京子は自由だ。ここでは、2つ(3つ?)の例に絞って、Vtuber・轟京子の分裂する人格と彼女を「推す」ことの面白さを示したい。


・3D轟京子――「ガワ」が違っても愛してくれますか?

 轟京子のアバターは、ほーじろというイラストレーターが手掛けている。にじさんじの他のVtuberでは剣持刀也、雨森小夜など、人気ライバーの多くがほーじろの手によるものだ。

 「ガワ」が持つ意味は、特に生配信というプラットフォームにおいてかなり大きい。今でこそポピュラーになった「雑談」という生配信の形式は、例えばニコ生主が同じことをやったとして(生主の評価システムは生身の人間に対してのルッキズムに負うところがかなり大きい)、通用するだろうか?2次元の絵がキョロキョロと動く様を見ているだけで、現状多くのVtuberファンは喜んでいる。腕が動くわけでも、表情が劇的に変化するわけでもない。しかし、Live2Dの「ガワ」は、消費者にとって相当大きな要素の一つであることは確かである。

 轟京子の「ガワ」は、とてもキュートでありながら、どこかセクシーだ。今年の4月に発表された春衣装では俄然プロポーションの良さを見せつけ、褐色の肌、クリーム色の髪、青い瞳など、人型ではなかったり人型をしていても人間離れしているアバターが多いにじさんじの中では人間味がありながらもどこか浮世離れしている容姿が轟京子の特徴である。それは、オタク文化の中で「魔法少女」や「女子高生」と同じく戯画化されてしまった「ギャル」の姿として、ある種理想的とも言えるアバターが轟京子なのかもしれない。

 轟京子はロールプレイ上「美術系の専門学校生」だが、「ROKI'S COORDINATE」やお絵かき配信で見せる随所のセンスの良さや画力の高さは、ロールプレイをロールプレイと思わせない説得力を持っている。が、この「3Dお絵かき配信」で、我々が目にするものは何だろう。彼女の描くイラストのポップな感性や服飾に対する審美眼を知っていればなおのこと、彼女が専用のソフトで描画する3Dの「轟京子」は、名状しがたいグロテスクさである。不自然に隆起した唇や鼻、見開いているのかよく分からない眼、全体の雑な質感など、これを「轟京子」のアバターだと言い張るのは相当な無理がある(他にも3D社築や3D名伽尾アズマもあるが、結果は同様である)。

 しかし、驚くべきはここからだ。轟京子は、いとも平然と、このグロテスクな「3D轟京子」を配信の「ガワ」として頻繁に登場させる。ゲーム配信でライバー用スマートフォンの電池が切れたり諸事情でにじさんじアプリが動かなくなった場合、轟京子は「3D京子出すね!」と屈託なく言い放ってこのアバターを自らの「ガワ」として使う。当然のことだが、その強烈な見た目の「3D轟京子」が現れるとコメント欄は「やめてくれ」「(元のガワが)止まったままでいい」「怖い」などのコメントで埋め尽くされる。それに対して轟京子が「なんでよー!かわいいでしょ3D京子!」と返すまでがワンセットである。かくいう僕も、彼女を知らなかったとき、『moon』の配信を何気なく観たら、3D轟京子が映っていたというのが初・轟京子である。「初見だけどびっくりした」とスパチャも何もしていないコメントを打ったら、彼女は「いつもこうじゃないんだけどね」と僕のコメントを拾ってくれたのが印象に残っている。

 はっきり言って、「ガワ」がなければ、生配信Vtuberは生主でいい。にじさんじに限らず、企業勢も個人勢も、絵を描いてくれる「ママ」にこだわり、自分の「ガワ」を大事にしようとするのは、視覚的に楽しませ、また配信のイメージから二次創作なども広がっていくVtuberの文化として、ごくごく当たり前のことである。しかし、轟京子は、そこにあえてかあえてではなくか、「ガワ」に揺さぶりをかける。はからずも彼女の試みは、「ガワ」が変わってもVtuberとしての人格が保存されるか、そして「ガワ」が変わっても私のことを変わらず愛してくれますか?とこちら側に問いかけているような気持ちさえする。そのような意図がなかったとしても、「3D轟京子」の存在は極めて示唆的だ。ルッキズム丸出しの物言いをすれば、2次元でも3次元でも「かわいい女の子」は男性にも女性にも魅力的な存在だ。男性にとっては欲望の対象として、女性にとっては変身願望として、「かわいい」ことは男性の「かっこいい」とは別の次元でそれ自体で価値を持つことである。そして、Vtuberの「ガワ」は当たり前に「かわいい」。当然だ。初めから「ガワ」が不細工に作られたVtuberの需要は、マジョリティにとってはないものだ(トークが売りとか他に売り出すポイントがあれば別だが、ガワがかわいければトークが面白くなくても買い手がつくというのがVtuberに限らずルッキズム市場の原則である。これはルッキズムの無条件の肯定ではなく、市場原理が現状そういうものになっているという話をしている)。轟京子は、グロテスクな「ガワ」で配信することによって、そういうルッキズム原理のVtuber業界に揺さぶりをかける。彼女はこう問いかけているようだ。見た目がこんなでも、「人格」が同じなら、一緒に愛してくれるよね?「ガワ」が違うからって、私のことを嫌いになんてならないよね?と。彼女が提起する問題は深刻だ。視聴者は、無自覚に「ガワ」と「人格」を一緒くたにしていたことを思い知る。醜い「ガワ」は見たくない。ファンたちが信じ込んでいる彼女の「人格」と「ガワ」が一致することを、ファンは望んでいるし、そこから逸脱した「轟京子」をファンは見たくない。ここに、「人格」と「ガワ」のズレを巻き込む存在としての「轟京子」が存在している。


・「分裂する人格」がもたらす恐怖――「狂子」言説に抗して

 轟京子を表現するときの紋切型の文句として、「轟狂子」というものがある。深夜1時を回ると頭の回転が遅くなって突飛な言動を繰り返すことや、上に挙げた「3D轟京子」など、デビュー当初は同じSEEDs一期のシスター・クレアと並ぶ「清楚枠」であったにもかかわらず本人も言う通り「アウトロー」な一面を見せることから、「狂子」の名前はもしかしたら轟京子を観たことがないにじさんじファンにも知られているところかもしれない。

 しかし、僕は彼女の逸脱した部分を「狂子」で片づけたくはない。なぜなら、彼女は狂ってなどいないからだ。むしろ、「狂子」的な自らのキャラクターを恣意的に乗り回し、「美術系の専門学校生」というロールプレイに「狂子」というロールプレイを二重にすることによって「轟京子」のキャラクターが持つ重層性に深みを出しているとさえ言えるかもしれない。轟京子が乗り回す「狂子」のロールプレイは、深夜Minecraftで、「3D轟京子」で、至る所であるときは恣意的に、あるときは無意識に暴走するが、ここでは本人が意図的に「狂子」的ロールプレイを行うことによって「轟京子」という人格が分裂している現象について言及してみたいと思う。

 『納涼!ガチhorror▽night』は2018年、『今日はお日柄が大切な紅茶で鈍色のブリッジが太陽でした。』は2019年に行われた轟京子のホラー企画である。他のにじさんじVtuberが「怪談」や「百物語」(あの月ノ美兎でさえ、企画は百物語という凡庸さを呈している。もちろん、演出の巧みさは彼女ならではのものであることは認めるが)で「ホラー」をやろうとしている、もっとひどいものになると単にホラーゲームをやったりホラー映画の同時視聴をやったりしてまともに「恐怖演出」というものに向き合っていない中、轟京子の「ホラー」に対する姿勢は群を抜いて真摯である。怖がらせようという意図はもちろんのこと、生配信ならではのエンタメ精神や、『納涼!ガチhorror▽night』ではトークの上手さも光っている。

 未見の人のために、二つの動画の簡単な内容について触れておく。『納涼!ガチhorror▽night』はリスナーから募集した「怖い話」と彼女自身がセレクトした「ホラーゲーム」の二部構成となっているが、配信中に轟京子のアバターにグリッチが入ったり、テロップが乱れたりする(冒頭の待機画面のBGMのピッチが徐々に下がっていくという念の入りようである)。最終的に背景、アバター、マイク、テロップの全てが崩壊し、「あでゅー」という彼女のお決まりの挨拶もないまま突如画面が砂嵐になって配信が終了するというものである。『今日はお日柄が大切な紅茶で鈍色のブリッジが太陽でした。』は6分ほどの短い配信だが、「本日は、」や最後の「さよなら」しか轟京子本人の肉声は収録されていない。エレクトロスウィング調のBGMが流れる中、春衣装の動かない轟京子の立ち絵が表示され、コメント欄は赤く塗りつぶされている。ときおり立ち絵の目と口が生々しくグロテスクなものに切り替わり、何の予兆もなしに突然終了する。

 これらの演出自体は、新しいものでもなんでもない。多少年季が入ったインターネットのオタクなら、「おもしろフラッシュ倉庫」にあった悪趣味なフラッシュの数々を思い起こさせるものだ。あるいは、ぴろぴとによる『sm666』や『ちっちゃなちーちゃん』などのヤン・シュヴァンクマイエルやピーター・グリーナウェイの映画を想起させるエログロナンセンスな映像作品も喚起するだろう(あまり薦められるものでもないのでリンクは貼らないでおく。検索する際は自己責任で)。また、テロップのバグや背景・アバターの乱れには『Doki Doki Literature Club!』的グリッチ演出を見て取れるだろう。インターネット的恐怖表象には歴史があるが、轟京子のやっている演出はそれに則っているにすぎない。ジョー・力一とでびでび・でびるによる『悪夢』(『悪夢2』には雨森小夜も参加)もほぼ似たような演出方法を取っている(『今日はお日柄が大切な紅茶で鈍色のブリッジが太陽でした。』のタイトルはワードサラダという文章生成の方法が取られているが、これはジョー・力一が『悪夢2』において積極的に取り入れており、これも元を辿れば今敏『パプリカ』(2006)の有名なワンシーンのパロディである)。

 では、これらのホラー配信において轟京子が革新的だった点はどこにあるのか。『納涼!ガチhorror▽night』の34分10秒付近からの「コメント欄」に注目してほしい。「轟京子のミラティブが始まった」と、リスナーが一斉にざわつくのだ。僕はこの配信をリアルタイムで観ることができなかったことが本当に悔やまれるのだが、実際同日のミラティブアーカイブには『霓滉コャ蟄舌→縺願ゥア縺励h縺?シ?シ』という文字化けしたタイトルの動画が履歴として残っている。また、『今日はお日柄が大切な紅茶で鈍色のブリッジが太陽でした。』では、6分という短さの故アーカイブでは伝わらない部分があるが、配信中に轟京子のTwitterが全く無関係のツイートをしていた。何が言いたいのかというと、グリッチやグロテスクな演出は彼女の意図する本来の「ホラー」演出ではなく、プラットフォームにおける轟京子の「人格」が分裂し、増殖していくことによる恐怖を狙っているということだ。それは僕たちがVtuberを観るときに無意識に前提しているものだからこそ、その前提が「生配信」という特性を得て崩れ去っていくことは他ならず恐怖である。

 繰り返しになるが、Vtuberはアバター(「ガワ」)、声、性格、全てひっくるめて「人格」がひとつであるという前提のもとに成り立っており、その前提はLive2Dという「中の人」と動きが同期する(トラッキングと呼ばれる)という事実によって完全に担保されているように見える。故に、Youtubeliveとミラティブの配信が「同時に」始まることもあり得ないし、配信中に全く無関係のツイートがされることも「同じ人格が配信をしている」以上不自然なことである。しかし、轟京子は、そのVtuberの特性を逆手に取る。「違うプラットフォームでLive2Dのアバターが全く違う動きをする」とか、「進行中の配信と全く無関係のツイートをする」ことによって、「轟京子」の「人格」は一つではなくなる。それはあたかも、ゴキブリが頭と胴体を切り離されてもなお別々の動きで蠢いているような生理的な気味の悪さを与える。ここにおいて、「轟京子」はひとつの「人格」ではない。「Youtubeliveの轟京子」、「ミラティブの轟京子」、「Twitterの轟京子」が、それぞれ別の人格でもって蠢いていることは、一人のVtuber=一つの人格であるという前提を破壊するが故に、不愉快であり、恐怖である。

 原理は不明だが、『納涼!ガチhorror▽night』について言えば、注意深く見れば分かる通り轟京子はLive2Dのトラッキングを使わず、バグを起こす背景にOBSでgifのアバターをレイヤードしている(最終場面でアバターがグリッチによって表示不能になるシーンがあるが、どこかのタイミングでgif画像を切り替えていると思われる)。文字化けミラティブの轟京子がめちゃくちゃな挙動をしていたというコメントを見るに、一方をトラッキングさせるために一方のトラッキングをしないで済むようにするというのは妥当な判断と思われる。『今日はお日柄が大切な紅茶で鈍色のブリッジが太陽でした。』については既に収録した音声を流して表示される画像のレイヤーを変えればよいだけなので、配信中にTwitterを動かすことは十分に可能だ。

 だが、このような推測による「ネタバラし」をしてみせたところで、彼女のインタラクティブなプラットフォームにおける暴走の居心地の悪さは払拭できないし、それこそが彼女の狙いである。君たちが当たり前に思っているVtuberの「人格」は、こちら側でいかようにも操作できるし、いくらでも増殖させることができるんだよ……。ここにおいて、果たして「狂子」という紋切型の形容は適切だろうか?僕はそうは思えない。むしろ、Vtuberのあり方として、生配信というエンタメとして、轟京子の姿勢はこの上なく真摯であり、真面目で、クレバーなように見える。分裂する人格、「狂子」という紋切型を許さないクレバーさ、ろきぺの想像の遥か上を行く形で、轟京子というVtuberは進化し、変容するのだ。


・今目撃すべきは轟京子だ

 轟京子は、先日メンバーシップを解禁し、チャンネル登録者数も4万人を突破した。彼女のファンとしてこれは喜ばしいことだし、僕はメンバーシップ解禁当日に大喜びでメンバーになった。でも、まだまだ行ける。一人の配信者として、複数の人格を自在に操るVtuberとして、轟京子はもっともっと知られていい。それは何より、Vtuberの存在の根底を揺るがせる恐るべき「人格」の持ち主だからだ。実際、まだまだ轟京子の楽しい配信はある。流石に全部は紹介できないが、どれを見てもVtuberファンならば何か新しい視点を彼女の配信から受け取るだろうし、轟京子の沼は深い。ただ、「にじさんじSEEDs一期生」という肩書だけで轟京子が終わっていいはずがないのだ。「狂子」や「SEEDsのやべーやつ」じゃないんだ。Vtuberとして、彼女ほど「生配信」のプラットフォームに敏感になり、その特性を活かして活動しているVtuberはなかなかいない(偶然ほーじろママの手によるVtuberだが、雨森小夜の実験的な動画・配信が徐々に評価されているのを見ると、轟京子の夜明けもそう遠くないと思わせてくれる)。今目撃すべきVtuberは、轟京子なのだ。ガワがかわいい、声がかわいい、大いに結構。でも、Vtuberのうま味は、決してそれだけではない。Vtuberが持つ可能性を、轟京子は信じさせてくれるのだ。


・おまけ

 彼女は夜に弱いらしく、深夜になると頭が回らなくなるが、むちゃくちゃなマイクラ操作と脊髄で放つトーク、そして何より彼女のキュートな声を堪能できる名配信がこちら。色々言ったが難しいことを考えずふにゃふにゃの轟京子で君も笑顔になろう!