この時代に文通をしたこと

恥ずかしながらこの歳で親知らずを抜くことになったのだが、街の歯医者では対応出来ないと県立病院への紹介状を渡された。
封筒に記載された「御侍史」という言葉の読み方は知らなかった。

「おんじし」と読む。
予測変換でも簡単には出てこない。
医者へ手紙を出す際に「畏れ多くも私のようなものがあなた様へお手紙をだします」という意味がある。

20代でこの言葉を知っていたらきっとふざけて使っただろうなと思う。
もちろん伝わる相手に使うのだ。

ラブレターにふざけて使ったと思う。


東京に住んでいた頃、四季のない沖縄に住む医者へ手紙を出していた。
春には桜模様を、夏には朝顔を、秋には紅葉を、便箋と封筒は季節が織り込まれたものを丁寧に選んだ。

住所が変わる度に知らせてくれたので手紙は喜ばれていたのだとは思う。



もう思い出す事が出来なくなってきたけれど、とても憧れていた。尊敬して、陶酔していた。
顔は好きではなかった。
匂いは覚えていない、容姿も朧気。
素敵だと感じていた声も記憶を反芻したものがどれだけ忠実なのか自信がない。



ただ言葉選びの嗜好がたまらなかった。
これまで出逢ってきた人の中で、的確に言葉を受け止めて、感覚に等しさを含ませて投げ返す男の人がいる事に感動した。
偶々すわったバーで年齢が同じという共通項だけがきっかけで仲良くなった。


数字はいつも何かを記憶する時の指標となる。
言葉はいつも何かを測る時の指標となる。
だから当時、同じ年齢の29歳の男の人が私と同じ感覚で言葉を繰り出す事がおもしろかった。
感動した。


何か物書きの仕事をしている人なのかと尋ねられた時に「文章は仕事にしてないけれど、字はきれいな方です」と茶化したところから文通が始まった。
私が出した手紙に医者はメールで返事をしたので正しくは文通とは言えない。

「あなたが外科医というのは信じていないし、どうでもいい」と手紙を出すと、拗ねたようにパスポートの写真と勤務病院のHPを送って来た時に年相応に幼いのだなと思った。

本意は“職業に惹かれているわけではなくて、あなたをすきだ”と伝えたかった。でもどちらにも取れるような卑怯な言い方をした。


最後は呆気なかったけれど、医師不足の沖縄での激務に耐えかねた彼が大阪へ。
東京生活にすり減った私が沖縄へ帰る事が決まった時に終わった。

「どこまでいってもこれからも道は重ならない」「もう手紙は送らないでくれ」と言われた。
あまりにも辛くて「お互い連絡先は消そう」と提案して、そこから3年が経った。
私は本当に全ての連絡先を消したのでもう二度と繋がることはない。




今年お互いに33になる。
歳を重ねれば重ねるほどに、誰かとの新しい会話で深く感動する事はさらに減るのだと思う。
(職業病のようなもので人との会話を先回りして相手からほしい言葉を抽出できるようになった。)
もう二度と味わえない感覚というものを確信したら書き留めておかないとその経験すら忘れていくのだと思う。

平静でいられなくなるほどの思い入れを誰にも持ちたくない。
諦観して、ひっそり生きてひっそり死んでいきたい。

40を超える頃に結婚したかったとか、子どもを産んでおけば良かったとか思う日が来るのか。
そんな日が来ることを正直に、怖いと思っている。
そう思わない為に必要な準備や努力を惜しまないでおきたい。

逆算して、体づくりと資産運用について勉強始めた。
読めない漢字に出会う事が怖い。
ひとりで生きていくと決意がいまだにできずに、ひとりがこわい。
世の中こわい事がこんなにたくさんある、と思えば「こわい」とは「知らない、見えないこと」なのだと自分に言い聞かせる。




ほんと心がずっと不安定。メンヘラってかんじ

2020年4月(コロナ禍記)

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