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親は死ぬまで子どもを育てる

子どもが就職を決めるにあたって、その会社の選択が良いか親に確認をとる「親確(オヤカク)」なる言葉があると、以下の記事で知りました。これは「子どもの自主性のなさ(あるいは、それを助長する親の態度)」という点から簡単に批判されやすい。だが、そう安易に判断できることだろうかと思います。

まず前提を言うと、子どもの教育は学校教育の終了と同時に終わりになるのではなく、その後、つまりは子どもが就職し、転職し、結婚し・・・と続き、言ってみれば親自身がこの世を去るまで子どもの教育は終わりません。子どもが30代であろうが、40代であろうが、「親の教育期間は終わった」ということはないでしょう。

これは子どもとべったりになるという意味ではありません。常に子どもと一緒に人生を生きてきた人間として、子どもが苦境に陥ったときも絶頂のときも、親が「示唆する」ところは大きいという意味です。

したがって親が子どもを教育するのは、せいぜい20数年という時間ではなく、寿命を勘案すれば、少なくても40-50年という単位になります。この時間の長さを意識することが大切だと思います。

もちろん、その長い間で子どもに示唆する内容は変わってきます。子どもが小さい時は「社会ってこういうものだよ」との比重が大きく、大人になればなるほど「歴史のなかでの君はこういうものだよ」とのウエイトが増していくはずです。

社会の価値や基準は時と共に変化していきますから、子どもに示唆するのは、できれば、そうした社会の価値や基準に振り回されるのではなく、「歴史のなかで君の貢献度は何なの?それを意識している?」を繰り返し、飽くことなく問い返しを続ける存在であり続けることではないか。即ち、その時代の流行りの価値に自分のアイデンティティを置いて自らを失うことにストップをかける。それが親が子どもに示せる、あるいは示すべき大きな役割だと感じています。

とするならば、親は「就職は自分の決めたいように決めなよ」といかにも子どもの自主性を尊重するふりをしながら、「今のビジネスの価値観はよく分からないから口出ししない」と逃げるのではなく、いつでも必要なタイミングで大きな視点から「口出しができる」準備を怠らないことが親の心がけになります。

子どもが行きたい会社を規模や知名度ではなく、前述したような視点で子どもから確認を求められるならば、それは良い親子関係だと思うのですね。しかしながら、内実はまったくそういうことではなく、あまりに「情けない」やりとりが多いからオヤカクが批判されやすくなっているのでしょう。

問うべきはオヤカクではなく、親の教育のあり方ではないかという気がします。

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