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文学論―文学はいま

ほぼ日アーカイブ「吉本隆明の183講演」から「文学論―文学はいま」(A103)を聞いて考えたこと。3回目。

人類の歴史は無駄な死の数が減少してきた歴史である、という人がいる。無残な殺戮が少なくなってきた、と。現代においても大量な死が戦争や圧政によってある。自然災害による無念な死もある。しかし過去と比較すると少ない。

ローマ時代や中世の歴史書を読んでいると、あるいは日本でも戦国時代のドラマを見ていると人が簡単に殺される。あることを成し遂げるにあたり、それを妨げる人がいれば「消す」。

かといってあの時代にあっても、殺人が蚊を殺すことと同じであったわけではない。裁判の対象にはなる。理由なき殺人は人として非難される。

現在、死刑が執行される国とされない国があり、執行されるにもその理由がカバーする項目や許容度は文化圏によって異なる。また動物の死に対する考え方も時とともに変化してきた。

1987年、吉本隆明は村上龍のある小説を取り上げ、人をどんどんと殺して大きくなった組織の物語には面白味を感じないと語った。何らかの工夫で大きくなる方がいい、と。小説自身を高く評価し、アンチヒューマニズムにみられる毒性が文学にとって必要だと語りながら。

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マキャベリを主人公にした小説を読みながら、「こんなに簡単に人を殺すなんて、楽な時代に生きていたのね」とも言いかねない時代と国に生きているぼくは、いったいどんな毒性をあえて文学に求めるだろうか。

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