「受を犯したい」と言えても「攻に犯されたい」と言えない腐女子

腐女子の性欲について話す前に、少し『百合男子』の話をします。


倉田嘘の『百合男子』のことを考えていました。『百合男子』は2011年から「百合姫」で連載されている漫画で、百合好き男性と百合作品をメタ的に描いています。

「我思う、ゆえに百合あり。だがそこに我、必要なし」

この「名言」が、私は本当に嫌いでした。

今から偏見を口にします。

すごく「自意識過剰」に思えるのです。

そもそも、百合作品(に限らず、ほとんどの創作物)の中に「自分」という登場人物は存在しません。登場人物に共感し、感情移入することはありますし、「このキャラのようになりたい」「こういう気持ちはすごくよくわかる」「このような恋愛がしたい」ということもあるでしょう。

でも、「自分」を作品内に作り上げることはない。

『百合男子』の言説に対する違和感は、感覚としては以下のものに似ています(厳密な対称性はありませんが)。

少女漫画の超美少女のヒロインと超イケメンのヒーローが恋愛をしていて、自分は彼らのクラスメイト(※親友ではない)である。彼らの恋愛には自分は参加できないし、参加してはならない。自分の存在は、彼らの恋愛には必要がないんだ――

と、考えているように見えてしまいます。他人の恋愛に、自分の存在が関係ないのは当たり前なのに、「自分は必要ないんだ!」と勝手に悲しみを背負っているように。

wikipediaでは、『百合男子』のキャラクターについてこのようにあります。

「『女性は女性同士でくっ付くべき』を信念に、自分が男性に生まれた運命を呪い、一生女性と交際しない決意をした上で、他の百合男子にもそれを強要する」

このあたりも、すごく苦手な空気を感じます。「オタクはオタク同士でくっつくべき」とオタクじゃない人から言われたら(少なくとも私は)強い抵抗を覚えます。「お前に性的指向を決められるいわれはない」と思うのです(捕捉しておくと、同様の理由で「男性は男性同士でくっつくべき」と言っている腐女子のことも苦手です)。

ずっと、「嫌いだ」「苦手だ」と思っていましたが、もっともっと考えてみました。

おそらく、私はこの言説から、「性欲」を感じてしまっているのでしょう。

下品なたとえを使います。素敵な女の子が2人いて、そして自分のペニスがある。この世界では自分のペニスは必要とされていないのだ、と嘆いているんじゃないか、と思っていたのです。

『百合男子』的言説の主体は、ヘテロセクシャルの男性で、女性を性愛の対象にしている。その性欲を捨てきれないでいるんじゃないかと(はっきり言えば)偏見を持っていました。その性欲が気持ち悪いと。

でも、そこで、もうちょっと考えます。

いや、性欲、持ってていいんじゃないの?

性欲持ってるとダメって誰が言ったっけ?

『百合男子』的男性が、女の子2人の関係を好んでいる。彼女たちは自分の性的対象となりうる。しかし、そこで彼女たちを「異性愛的な」対象にさらすことは、『百合男子』的な自分の指向(嗜好?)を壊すことにつながる。だからこそ(意識していないと彼女たちを異性愛の対象として見てしまうからこそ、そうならないために)「自分」の存在を意識し、律している。

まず「性欲」を認めて考えていくと、『百合男子』の言う「ジレンマ」や「アンビバレンツ」が腑に落ちたように思います。「百合を壊す」「百合は遠い」というのも、その文脈でならわかります。

(ただ、「性欲」を起点としないといまいち理解がしっくりこないので、もし見当はずれだったら申し訳なく、再考が必要だと思います。また、いろんな考え方があるので、本当に性欲関係なく『百合男子』的思考をしている方も確実にいるものとは思います)


ようやく腐女子の話、標題に移ります。腐女子の中になんとなく存在する倫理観として、「女性としての性欲を表明するのはだめ」というものがあるように思います。なんだかそれは、生々しいから。

前回のnoteで書いた、BLと男女カプとドリームについても、それは性欲が大きく関係しているのではないでしょうか。

私はずっと二次創作で男女カプを書いていました。そのとき、意識的にせよ無意識にせよ考えていたのは、女性キャラの魅力を主張することでした。私は彼女のキャラクターがとても好きだったのですが、心のどこかでなんとなく「彼(カプの片割れの男性キャラ)よりも、彼女を魅力的に描かなければ」と思っていたようにも思います。

説明するのが難しいのですが、彼女を1人のキャラとして独立して描けなければ、魅力的な「彼」と「代替可能な女の子」の恋愛譚になってしまいそうな気がしたのです。それは当時の私にとって「悪いこと」でした。今それをよーく考えると、女性キャラから「〈私〉が愛されたいという欲望」が万が一にもにじみ出てしまうのを恐れていたんじゃないだろうか。

そしてドリーム(夢小説)。「好きな男性キャラと自分の性愛関係を描きたい」という行為は、かなりあけすけな欲望です。

二次元好き女オタクに対立があるとしたら(というか、実際対立があったという実感があります)、この「性欲」をめぐって対立しているようにも見えるのです。

過激な腐女子の言葉を見ていくと、「受(まれに攻)を犯したい」と発言している人が見られます。けれど、「攻に犯されたい」という人はあまり見かけません(観測範囲の問題でしょうか?)

「犯す」という行動は、男性的な性行動のように見えます。そして。「犯される」は女性的なもの。男性的な性欲を表明することはできても、女性的な性欲を口にすることははばかられる。これが、腐女子の倫理観のように思えます。

(加えて言えば、それは社会的な倫理観です。女性の性欲は長い間「存在しない」ことになっていました。自分の欲望を比較的早い段階から示していた腐女子たちをしても、むしろ早い段階から男性社会の中でひっそりと性欲を表明していたからこそ、女性的な性欲の表明が忌避されていたのかもしれません)

私はけっこう社会的な倫理観に縛られているほうなので、性的な話をするときに、自分の話をしたくはありません。好きなAVやエロ漫画の話はしたいのですが、自分が実際にどんな行為をしたいか、という話はできるだけせずに生きていきたい。

もっといえば、二次元でも女性的な性欲を直視したくはない。たとえばニコ動スラングの「耳が孕む」や、最近ブームのオメガバースによる受の強制懐胎も、(後者にはじゃっかん萌える気持ちは隠せないものの)「うわっ、性欲!」と思ってつらい気持ちになります。

超余談ですが、小6のときに知り合いの20代男性にエロ小説をリクエストされ(←黒歴史)書いて渡して(←超黒歴史/書いちゃダメです)「いやーよかったw抜けましたわw」と言われた(←マジで黒歴史)のがけっこうトラウマで、「自分の好きなものが誰かの性欲にさらされること」っていうのにかなり抵抗があるのかもしれません。そのわりに自分も性欲を持っていて、たえず好きなものをそれにさらそうとしている。それがにじみ出ないように、外に出さないように、無意識のうちにセーブしたいと思っているのかも。

そう思うと、『百合男子』的なものへの嫌悪感は、同族嫌悪にも似た、八つ当たりに近いものなのかもしれません。「私が出さないようにしてんのに、なんでそんなに簡単に出せちゃうの?!」みたいなね。

ひとの せいよく じぶんの せいよく そんなの ひとの かって…

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