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深夜1時のサイゼリヤ

地元の夜は早い。マクドナルドだって24時で閉まる。でもちょっと今は「会社から戻ってきてもうちょっとなんかしたい、家だと確実に寝る」という週間で、タスクもあり、人生に対してのやる気もちょっとある。

というわけで夜に作業できる場所を考えると、24時間営業のファミレスか、もしくは2時まで空いている駅前のサイゼリヤ、ということになる。ちょっと考えて、しばらくサイゼリヤに通ってみよう、と今日の私は思っている。

タイムリミットがあったほうがいいような気がしている。24時間営業のファミレスは、やろうと思えば朝までぶっ通しでいられる(PCの電源が先に切れる可能性はある)。3時くらいになったらおそらく家に帰るのもおっくうになるので、ぼんやりと5時くらいまでいて、ぼんやりと帰ってしまいそうだ。

その点サイゼリヤは2時で閉店する。2時に寒空の下へ追い出されるので、それまでの短い時間、何かしらのことをできるのではないかと、ちょっと自分に期待をしている。

夕飯をちゃんと食べていなかったので、小エビのサラダ、若鳥のグリル(ディアボラ風)、ドリンクセットを注文する。サイゼリヤで1000円を超える注文をすると、何か悪いことをしている気分になる。いつもはミラノ風ドリア一択なのだけど、体重を減らしたい週間なので。

50歳くらいの男性が人を待っていて、駆け込んできたのは20代くらいの女性だった。「すみません!」「遅すぎ」と話していて、距離感がやや不思議。2人は追加でドリンクバーを頼み、20分くらいおしゃべりをしたあとで、店を出ていった。今その席には大学生ぐらいの男性が座っていて、Mac Bookを猫背気味に見つめている。

今日小野美由紀さんのnoteを読んで、大学時代のことを思い出した。

一時期、今よりも「リア充」と「非リア」の区別が激しかった時代があったように思う。私は自分のことを非リア側に配置し、「ぼっちなんですよ~」と友達いないキャラを自称していた。当時はそれなりに本気で自分には友達がいないと思っていた。

それをやめた理由は3つほどあって、1つは嫉妬、1つは悲しみ、1つは納得だ。私よりも友達の多い女性が「私は友達が全然いないんですよ」と言っていたのを聞いたとき、私が友達だと思っている女性が「私は友達が全然いないんですよ」と言っていたのを聞いたとき(これもある意味嫉妬、あるいは片思いか)、そしてバイト先で知り合った40代のサラリーマンが「いや青柳さん俺より友達いるでしょ」と言ったことだった。仕事に生きてきたその男性は友達付き合いを完全に失っていて、「あっ、確かに私はこの人よりも全然友達がいる…」と気づいた。そうして振り返ってみると、私にはかなり多くの友達がいて、それなりに充実したリアルを送っていることを発見したので、非リア自称はしなくなった。

とはいえ、それとは別問題に、「自分はコミュニケーションが下手なのではないか」という漠然とした不安は付きまとっている。「コミュ障」も20代前半は自称していた。最近は言わなくなったが、それは自信が生まれたからではなく、米光さんに「コミュニケーション障害って、本当の言葉の意味をちゃんと知って使ってる?」と聞かれ、あっ、全然知らないで使ってた…と気づいたから。いろんな人がいろんなことを教えてくれる。

ちなみに私の「コミュ強」の定義は、「誰かの1番になれる人」で、私はそれができないというコンプレックスがある。3人組の中でペアを組むとしたら、きっと1人残っちゃうんだろうな、という不安。学校からの帰り道を集団で歩いていて、自分が会話に入り込めないと思ってしまった瞬間のいたたまれなさ。小野さんの言う通り、憧れるコミュニケーション強者のありかたは、自分のコンプレックスをもろに反映しているんだろうなー。

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