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13月1日

どうしても一度は訪れたいと思っている場所が何か所かある。そういった場所は行く機会があっても避けることが多い。行きたいのに行ってしまうことで、自分の中で何かに区切りがついてしまいそうな、あるいは飽和した感情があまりに強く負の方向に働いてどうにかなってしまう様な、そういう気がしていてなるべく行きたい場所には行かない様にしている。勿論、僕らの趣味は、時間の流れに抗えない性質を持っているので、行かず仕舞いに消えていった場所も少なからずある。そういう時は縁がなかったと思うことにしている。

それでもどうしてもとなった時に、そういう場所に訪れることにしている。
今回訪れてた場所もそういう場所の一つ。1月1日、未だ2024年になったことを認めたくなくて、密かにずっと行きたかった場所を一つ使うことにした。本当は新年一回目の投稿で写真を出そうと考えていたのだが、性質的と時世を鑑みて先送りにしていた。それでも、1月のうちに残して記録しておきたいと感じ、なのでnoteの方に記事を書くことにする。年が明けたことを認めたくなかった僕は、まるで何かの間違いで違う世界に迷いこんだ様な景色を求めて水没したペンションを眺めていた。それは丁度13月の幻想の中に行って、そこで去年が今年として継続して欲しいと縋る様な気持ちだった。

冬にしては少し暖かく、体調は飲んだ薬の影響か、浮遊感を俄かに感じつつも辿り着いてすぐに景色に心を奪われた。

一帯は鵜や鷺の営巣地になっていた。終末的な雰囲気が濃い景色の中に命が紡がれている姿も印象的だった。

今年あったことと去年のことには随分と感覚的な隔たりがあると感じる。たった1日を跨ぐだけで、全ての今年は去年に塗り替えられてしまう。去年は一昨年に。そうやって段々と感覚から離れていく。言葉が離れていけば、一つ忘却に近づく気もする。去年も一昨年も十年前も過去というくくりの中に、溶けてしまう。全て等価値に大切で、全て一つの過去という箱の中に仕分けられてしまう。そうして埃を被って、どうせ忘れてしまうんだろう、全部。もう思い出せなくなった名前が沢山ある。怨憎会苦の日々の中で潰れていく様で、それはとても寂しい。

子供の頃、自分の住んで居る町を退屈な街だと思っていた。整然と碁盤の目に並んだ真っ直ぐな道に味気なく舗装された道路。それがなんだか退屈だと感じた。雪が降ると、少しだけ高揚した。町が白に上書きされるような感じがして、毎年少しだけ新鮮な気がした。もっとも塗り替えられた景色にも数日で飽きて、そうしたら忌々しく冬を想う様になった。そういう時、街路樹に並ぶナナカマドの実が地面に垂れるのをみて、町が血を吐いていると思ってみたり、排気ガスや滑り止めの砂利で黒々しく汚された雪が少しだけ愛おしく思った。そんな風に、白が違う色に塗り替えられた場所を求める様になった。それすらも飽きたら、ただただ汚らしいと思う。そんなことを毎年のように繰り返していた。この思考過程が全て上書きの繰り返しであることに虚しさを覚えたのは、随分後のことだった。

元からあった景色が時や雪や水に修飾されるのは、ある種上書きだろう。
けれども、この場所は聞くに意図的にこの状態にしているのだと言う。
記憶は上書きされていく。そういえば、飲んだ薬だって上書きだろう。

誰も辿り着けない13月で、緩やかに過ぎた美しさを並べて数えて眺めて、そうして美しさの中に溶けていきたいが、日常は続いていく。ならば忘れてしまったことは、美しい何処かの存在しない13月に行ったんだとそう思うことにする。そうすれば、少しだけ忘れてしまうことを自分の中で許せる気がしたんだ。だから今年は沢山上書きしようとそう思ってようやく、今年を始められた気がした。


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