盗人狩を歩きながら考えてたこと。

「そんな生き方は寂しすぎる。」と、いつか誰かに言われた。
誰に言われたんだっけ。もう思い出せない。
とかく捻くれた私は、その慈愛の中に小さな軽蔑と驕りの影をみたんだ。

なんて書き出しで書いてみても、写真を張り付けて、文字に修飾的な表現を交えながら、文章にする程度には今の自分は健康だ。僕は明日も仕事をする。唯、少しの悪趣味と少しの実体験を交えながら、歩きながら空想していたこと、思い出していたことを文章を書きたいと思った次第だ。本心を語るには、僕は臆病で嘘吐きだし、さりとて全てを修飾しきる程に自分の向いている方向を信仰することもできない。ただ少しだけ書き言葉を本心側に寄せて書いてみようと思った。なので偏った考え方の暗いだけの文章。以上、予防線。

*

盗人狩なんて、そんな意味ありげな地名の由来は、かつて盗賊がこの断崖に逃げ込んで、足が竦む最中、容易く捕まってしまったからと言われる。盗人を狩るから、盗人狩。その場所を知ったのは冬のある日だった。何処かに行きたいなと、ネットを探していた、盗人狩という不穏な地名に、惹きつけられた。画像検索をしてみて、その荒涼とした景観の中で、花が咲いている姿が美しいと感じた。だから春を待ってから、その場所に行こうと決めていた。けれども、せっかく待ったのに、当日は晴れの予報が外れて曇り時々、雨。なんとも間の悪い話ではあるが、この間の悪さは自分の中では存外腑に落ちるというか、この場所は晴れてなくて良かったと受け入れることが出来た。大袈裟な言い方をすれば100回行っても、100回とも雨が降るだろう。そういう星の下に自分はいるんだと、確信めいた謎の感覚に陥るくらいには、曇天のこの景色がすとんと頭に入ってきた。

階段があった。

僕は趣味で、酷道だの山奥だのを徘徊する趣味があり、足場の悪い場所もそれなりに歩いて来た。けれども、一つこの趣味をやる上で決定的な弱点がある。僕は高所恐怖症なのだ。高い場所にいけば足が震えてしまう。覚束ない場所でもそう。けれども、捨て鉢の好奇心が強すぎて、震えながらいつも進んでいる。

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ずっと覚えている景色がある。ある夏の夜のこと。つま先の向こう側には、夜が灯っていて、車が行き交う音が微かに聞こえる気がする。実際には物理的に距離は隔てられていて、そんな音なんか聞こえやしないはずなのに、頭の中で環境音として再生されている。きっとこれは後付けとして記憶が改変された嘘だろう。けれども、きっと聞こえていた。聞こえていたことにする。ビル風が吹いて、長く伸びた前髪を揺らしていた。履いていた靴は、確か赤い靴。当時はまだ、半袖を着ることに強い抵抗感があったけれども、その日は夜に出かけたので半袖だった。どうせ誰も見やしない。だから別に後のことなんてどうでも良かった。その頃の僕は習慣的に自分の葬式を想像する癖があった。それで、あの人は泣いてくれるだろうかとか、あの人はきっと僕の葬式でも笑っているだろうなとか、そういう仄暗い想像をする癖があった。なんでだか、分からないけれどもそういう想像をすると心が酷く落ち着いた。だから自分の中でこれは空想の延長線だという自覚もあった。けれども不意に強風でも吹いて、あるいは偶然居合わせた誰かとかに背中を押してもらうとか、そういう不幸で幸福なアクシデントはあってもいいかなとか思っていた。逡巡して、それから思考を断ち切って、立ち上がってみる。風が一層強くなった気がした。「どうせ」という言葉の先を飲み込んだ。それでも足が震えたこと。とてもとてもお腹が空いたこと。

盗人狩に至る道に架かる木製の橋。少し高波が訪れればあっという間に波に足を掬われてしまいそう。
強烈に捲り上がった波食台

辿り着いて、最初に目を引いたのは、まるで親不孝者の指先の如き、強烈に捲れ上がった地形だった。この地形を表現するのに、仮に波食台という呼称を使っているが、正確なことは知らないことを断っておく。ただ、この捲り上がった地形が強烈に歩きにくく、まただからこそ非常に記憶に刻まれたことを覚えている。物事の解像度を上げて、知識を蓄えて訪れたならば、また着眼点も変わるだろうが、それは次回以降の訪問をする未来の自分に譲るとして、今回は荒々しい、それでいいのだ。

この荒涼とした景色が見たかったのだから。その動機がある種の自暴自棄な衝動を内包していることは言わずもがな。

*

「私の様な人間は嫌いでしょう?」

そうやって卑屈な笑みを浮かべて、決まりきった事実確認をする様に、極めて作業的に、いつだって同胞の君達はそうやって尋ねてくる。その「確認作業」の意図も、そこに至る思考過程もなんとなくだけど分かる。
僕も何度も色々な人にそうやって確認してきたから。自分という存在は付きまとう。どこにどうやって逃げても、どれだけ否定しても、
ずっとずっと影法師の様について回る。一番近くで、その醜悪な姿を見せつけられる。こんなもの。好きになれる筈がないと思うし、こんなものを好きになる人間もまた皆無だと思う。嘘を吐かれて、浮かれて祭り上げられて、そうして叩き落される。そういうのが恐ろしくて、「自己への憎悪に関する」確認作業を行うのだろう。

しかしこれすらも、多分にして、好意的な意見なのだろう。
好きの反対は無関心だとは良く言ったものだ。そう無関心は恐ろしいよね。
決して、好かれることのない存在が、せめてものか細い糸で他者と繋がるという感覚を享受し得る唯一の方法として、「嫌われる」ことをあてがっているのだろう。消極的な方法として、それはとても綺麗なパズルに当てはまる様に他者の心理という絶対的な恐怖の対象に対して、「分かり易い」答えで塗り潰すことが出来るので、楽なのだろう。

手前の様な存在は、愛されることなどなく、けれども一切の他者からの影響から隔絶された孤独の海に身を投げるには、どこか諦めが付かなく、寂しくて、人の中に生きていたいという切実で自暴自棄な願いの収斂先としての偽悪だろう。

荒涼とした場所であっても、雨が降っていようとも花はしっかりと咲いていた。そうして花を見る時、やさぐれた気持ちでも、やっぱり綺麗だなと思った。だから花が見たかったんだ。花の持つ美しさは絶対的だと思う。美しさが相対化する時、それは陳腐なものになってしまう。だから、他に寄らない絶対的な美しさが、荒涼とした場所にある風景が好きだ。救われた気持ちになる。

日陰に住んでいても、日向の心地よさに対する憧れの念は消えない。
だからといって日向に住まう権利をある日、譲渡されたとしても、僕らはそこには住めない。日向に躍り出れば、そんなことをしてしまえば、その価値を失墜させてしまう様な気がするから。日陰の中から、綺麗な陽だまりを眺めていたい。そうして、綺麗なものを際立たせる為の材料に成り果てたい。

後ろ向きな憧れはきっと消えない。けれど、それでいい。
だから、時々同じく日陰にずっと住んでいる様な人を見かけると心がざわつく。それは暗い真っ暗な場所で星を眺めている、ちっぽけで自暴自棄な観測者が他にもいることを感じられるから。

*

盗人狩に至る道に架かる木製の橋。少し高波が訪れればあっという間に波に足を掬われてしまいそう。

日陰に住んでいても、心臓が動く。心臓が動くなら、お腹が空いてしまう。
お腹が空いたら、どうしようもなかったら盗むだろう。奪われそうになったら守るだろう。殴られたら痛いだろう。僕はそうした。

そんなのはいけないことだ。
そんなのは悲しい生き方だ。
そんなのは間違っている。

それでも、そうなってしまったら、
そうするしかなくて、そういう薄暗がりで生きるしかないのなら、

「ごめんなさい」と謝る人を許したい。ちゃんと償った人は許されるべきだと思う。そうして、許されたい。

いつか、どうしようもなく大きな罪を犯してしまったり、人がいたとして、
その人が償いを終えたなら、
或いは、自分自身を徹底的に許されなくて、生きていること自体に対して
強い罪悪感の念に憑りつかれて逃げる様に生きてきた日陰に住んでいる人とか、そういう人と一緒にいつかこの場所で花でも見てみたいなと思った。

そんなことを考えていた。

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