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【小説】灯

松下洸平さんの『旅路』という曲の、ギターの音を想いながら書いたお話。曲とは直接関係のないストーリーです。

コンビニの灯りは暗闇の中で煌々と光を放ち、いつでも変わらず道標のようにそこにあった。自動ドアのボタンを押すと楽しげなメロディが流れ、疲れ果てた私を明るく歓迎してくれる。
ここには何でもある。雑多な色や文字や形。その中に混ざっていると安心する。私はとても空腹で、でも何も食べたくなくて、何を食べたら良いかわからなくて、甘いお菓子やパンばかりを一心不乱にカゴへ放り込む。
いっぱいになったそれをそっとレジに置く。いらっしゃいませ。ひとつひとつ、丁寧に大切に、袋に詰めてくれる手。私のために動くその手をじっと見つめる。この人の手が好きだ。この数ヶ月ほとんど毎日、私は仕事帰りここに来ているが、大抵いつもこの大きな手の人が一人でレジに立っている。
ありがとうございました。優しい声。急にいたたまれない気持ちになり、逃げるようにまた暗闇に飛び込む。私はその人の顔をまだ一度も見たことがない。

コンビニの向かいに私の住むマンションはある。靴を脱いで荷物を置き、玄関で腕時計とアクセサリーを外す。手を洗い、メイクを落とし、シャワーを浴びる。無防備な自分の姿が恐ろしく、鏡から目を背ける。
ひとり。テレビをつけると毎日悲しいニュースが飛び込んでくる。私はコンビニで買ってきた大量のものたちを、夢中で次々口に運ぶ。味がしない。甘い優しさは口にした瞬間に消え、どんなに詰め込んでも一向に満たされない。とても苦しい。全部吐き出してしまいたい。でも空っぽになるのが怖い。広すぎる宇宙を想像し、今ここにいる私が得体の知れない曖昧なものに思えて意識がふわふわする。続いていくはずだった誰かの未来と、自分との境界が混ざり合う。このままこの身体が溶けて消えたとしても、世界はきっと変わらずに進み続ける。

律儀に毎日訪れる朝。カーテンの隙間から覗く突き抜けるような青さに、一度開いた目をまた閉じる。
携帯電話が鳴る。恋人からだ。
「おはよ。ごはん食べた?」
彼は大学の同級生で、出会って程なく付き合うようになってからもうすぐ10年が経つ。仕事のため遠くの街に住んでいて、もう半年以上会っていない。でもこうして毎朝電話をくれる。そして必ず「ごはん食べた?」と聞く。とても優しく甘い声で。
私はできるだけ明るく、嘘のない声を作って、うん、と答える。ごはん、と呼べるものを久しく食べていないな、と思う。身体の中には昨夜の甘ったるい苦しさが渦巻いたままだ。ベッドから半分体を起こし、レースのカーテン越しに、マンションの側を流れる細い川を見下ろす。
「今日は空がすごく青い。雲が一つもないみたい」
「そっか。こっちは雨。細かいのが静かに降ってる」
ごはん食べた?の後には、天気の話をする。電話の向こうで彼の見ている空を、瞼の裏に描く。しっとりと纏わりつくような空気を感じて、少し心が落ち着く。
「気を付けてね、行ってらっしゃい」
これだけのやりとりに私は、この人を愛している、と毎日心から思う。愛されている、とも思う。やりたいことを仕事にし、それに邁進する姿は、私の憧れで目標で原動力だった。この優しく強い人に、愛される価値のある自分でいなければ。そして、今日も生きよう、と立ち上がり、玄関のドアを張り切って開ける。

私は、アパレルショップで販売員をしている。選ぶ服ひとつで人は変われる。素敵な服を身に纏っていれば、自分が自分でなくなり、強くなれるような気がする。誰かのそういう、前向きに生きる力に少しでもなれたらと、この仕事を選んだ。
日々最新のファッション情報を収集し、勉強する。商品を魅力的に着こなすための努力と試行錯誤を繰り返す。理想は果てしなくて、雲を掴むように終わりがない。
気付くといつしか、大好きな洋服は鎧のように重く、着飾った内側の私は弱くて空っぽで、支えきれなくなりそうだった。そんな脆さを見透かされるのが怖い。人と向き合う仕事なのに、目を合わせることができない。強くなりたい、この空洞をなんとか埋めたい、だけどその方法がわからない。愚かな私には、飽和したコンビニの物達をひたすら押し込むことしかできない。理想はますます遠くなり、鎧は重くなるばかりだった。


───ざらりと冷たいアスファルト。マンションの裏の駐輪場だ。今日は仕事でトラブルがあり、すっかり遅くなってしまった。いつものように自転車を停め、向かいのコンビニに逃げ込もうとしていたはずだった。自分が何をしているのか、夢か現か、色々なものが混沌としてまた意識が遠のく。

……あの。大丈夫ですか…?
聞き覚えのある優しい声。差し出される大きな手。あの人だ、と思った。縋るようにその手に掴まる。誰かの体温を感じたのは久しぶりな気がして、その手が離せなくなった。握手をしたような、手を繋いだような格好のまま、初めてその人の顔を見る。が、ぼんやりとしてよくわからない。後ろに、何か背負っている……ギター…?私を見つめる瞳の奥の優しい強さに、あぁこの人は何もかも知っているのだ、と思った。甘い渦の中に堕ちて溺れている私を。この人だけは、本当の私を。
そう思うと泣きたくなって、私は、唐突にその人にキスをした。生きている実感、愛されている体感、心の空洞を埋めるもの、私は何を欲しがっているのだろう?受け取ることも、与えることもできないのに。感情も理性も何もかもぐちゃぐちゃで、ごめんなさい、と謝ってその場から逃げた。色々なものに謝りながら必死で走った。

うまく息が吸えず頭が痛い。走っても走っても、どこにも行くところなんてなかった。いつもマンションから見下ろしている川沿いの遊歩道を、足を引摺りながら歩く。疲れた。街灯と街灯の間の薄暗い場所に立ち、深い青の止めどない流れをぼんやりと見る。
気付くと少し離れたところに、背の高い人影があった。背中には、ギター。流れる川のもっと向こうを見つめているような、美しい横顔。
私の視線に気付いたのか、彼はこちらを見てふんわり笑うと、ギターをケースから出し、大事そうに胸に抱えた。彼の右手が弦を滑らかに撫で、温かい音が響く。その音に吸い寄せられるように、私は彼の隣に座った。

紡がれる旋律は美しく、柔らかく優しく、どこか切ない懐かしさで私をまるごと包む。心の琴線、という言葉が共鳴し、涙が溢れて次々に零れた。身体は軽く、温かく満たされていく。重い鎧を脱いだ私に、優しい肌触りのカーディガンをそっと掛けてくれたようだった。今ここにいる自分の輪郭がはっきりとして、そうしたら、ぼんやりしていた外側も鮮明に見えてきた。色々な人達の顔が浮かんだ。誰かがいて、だから私がいて、私は、誰かにはなれないし、他の誰でもない。誰かと同じ服を着ても、私は私で、そのままの変わらない私がいて、私がずっと欲しかったのは、たぶん、そういうものだった。

何も言えず私は拍手を送る。彼もまた大きな手を優しく叩き、お互いを、自分を、讃え合う。鳴り止まない拍手に彼は笑い、私も思わず笑った。

「さっきは、すみませんでした…突然…あの本当に……」
彼は私の心を包み込むように、すこし笑って、そっとギターを爪弾く。
「…いえ、聴いてくれて、ありがとうございました」
「こちらこそ……」
彼の抱き抱えたギターには、よく見るとたくさんのメッセージが書かれていた。
ありがとう、がんばれ、応援してます、自分の選んだ道を信じて進め!
「前の仕事辞めるとき、みんなが書いてくれました。もう…コンビニでバイトしてる場合じゃないんすよね」
彼はそう言ってくしゃっと笑うと、両腕を天高く伸ばしながら立ち上がり、あっ、と呟いた。桜。白色の街灯に照らされたいくつもの蕾が、柔らかく、今にも花開こうとしている。ステージの上でスポットライトを浴びる優しいロックスターの姿が、私にははっきり見えた。彼の音楽は、きっとたくさんの人の力になる、と。

川の流れと反対方向へ帰って行く勇ましい後ろ姿に、私は深く頭を下げた。
もうコンビニで彼と会うことはないかもしれない、という気がした。

遊歩道の階段を昇りながら、明日は新作のカーディガンを着よう、と思った。中はブラウスが良いかな、あのロゴのTシャツもいいかも、帰ったらファッションショーだな。桜色を纏う自分の姿を思い浮かべ、久しぶりに心が浮き立つ。そして、それを着て、恋人に会いに行こう。ありのままの私で。桜の花が満開になる頃に。

優しいギターの音色が寄り添うように、私の心の真ん中に灯りをともしてずっと響いていた。

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