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闇に咲く花のこと

8月20日(日)に、舞台『闇に咲く花』を観劇しました。
それからずっと考えていたこと。ただただ私の感じたこと思ったこと。の記録です。
(この戯曲から受け取るべきこと、井上ひさしさんの本当に伝えたかったこととは、ちがっているかもしれません……)


観劇前から何度も目にしていた台詞
「忘れちゃいけない。
忘れたふりは、なおいけない。」
この言葉の力がとても強くて、私はこの事ばかり考えていて。受け止めきれるのだろうか……と、すこし身構えたような気持ちで観劇に臨みました。

忘れたいこと、忘れなきゃ生きていけないことってあるのではないかと私は思っていて、
でも、そういうことを人は心の深いところで、本当は忘れてはいけないと思っているんじゃないか、忘れたふりをしている自分をどこかで責めているんじゃないか、
忘れないでいても過去は変えることができず、自分にはどうすることもできない、それが苦しいなと、この言葉だけを文字で見たとき思いました。(うぅうまく言えない…おかしな文章……)

だけど実際にこの物語を観て感じて、生で聴いた健太郎のその言葉は、誰に言われたからでも強制されたからでもなく、心の底から沸き上がって噛み締めているみたいで、それを押し付けたり責めたりもしていない、まっすぐな心からの切なる願いのようだった。その願いが会場を不思議な力で包んで、私の心にもそっとまっすぐ染み込んでいった気がしました。

うまく言えないけど、忘れちゃいけないことを、ちゃんと抱きしめて大事にしまう、みたいなことが必要なのかもしれないと私は思いました。犯してしまった罪、いつしか従ってしまっていたこと、ゆるされないこと、理不尽なこと、辛かったことかなしかったこと、続くはずだった命のこと。
そのひとつひとつに対する、複雑で自分でも掴みきれない絡み合った想いを、記憶の島を浮かび上がらせるように対話して、受け止めてもらって、受け止め合って、否定も肯定もせずに自分の意志で心の真ん中にそっとしまう。闇の中で見えなくても咲き続ける花のように、大事にしまったものを宿した心のまま、これからを生きていく。
健太郎にとってそれが稲垣との対話だったのかなぁと。きっと稲垣にとっても。そして公麿さんにとっても。
これからはあの神社が、人々にとってのそういう存在になる。そこには健太郎もきっといる。人々の心を抱きしめる神社に宿って、その命は続いていく。
忘れない、というのは苦しみ続けることではなく、記憶というのは過去だけのものではなく、もっと未来へ向かう灯火のようなものなのかな、と……

そして、「忘れない」の前に、そもそも知らなかったことを「知る」ということ。
今ここにある幸せが当たり前ではないことを知って、ひとりひとりの存在の尊さ、ひとつひとつのありがたさに感謝する。自分と違うもの、違う人、知らなかった出来事で傷ついた人がいることを知って、差別や過ちや何かを傷つけることに荷担せずとどまれる。そういう心の中の力になってくれる。
その「知る」手段の一つが演劇で、死者の言葉をも生き返らせることができるもので、
大切な記憶、忘れてはいけないものを、抱きしめて大事に心に残してくれるものなのではないかと思いました。

私はこの作品を観劇して以来、全く別の何かを見たり読んだり聞いたりしたときにも、闇に咲く花のことをいつも考えます。(最高の教師の相楽くんのこととか…)  戦争のことだけではない、日々の生活の中にある大切なこともたくさん教えてくれました。それを頭で記憶しているだけでなく、あの劇場という場所の空気や温度や照明、座った席から見えた景色、ギターの音色や足音や生の声、全てを含めた体感として残っている。それが演劇のすごさで、洸平さんのおかげで本当に世界が広がっているなと、改めて思いました。

落ち着いて読み返したら自分でも何のことやら…な文章になってしまいました……
私はいつも感覚や感情ばかりで物事を受け取ってしまうから、それを理論立てて考えたり理解したり説明したり言葉にするのが難しい……でもそれがすごく好きだし楽しい。
また私の感覚だけれど洸平さんが届けてくれるものはいつも、広々としていて優しくて、余地や余白をくれて、どんな感性で受け取っても解釈してもそのまままるごと大事に包んでくれる気がして、そういうところがとても好きだなぁと私が思うところです。
この闇に咲く花は、これからもずっと人々の心に残って、ずっと咲き続けていくのだと思います。この花を、我が子たちにも見て欲しいと思う。闇の中でも咲き続ける存在にそっと気づいて、優しく見つめて心で抱きしめられる人であってくれたら。まずは私がそうでありたい。
こんな文章を読んでくださった方、本当にありがとうございました。

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