【私もアセクシャルです】Case:青葉

「雑誌アセクシャルアンソロ企画」
・テーマ:私もアセクシャルです

私は現在、クアロマンティック・アセクシャルを自認している。

自分の場合は、家庭環境(性自認?)・性分等が複合的に作用してこの自認に至っていると解釈している。よって、広く浅く長々と書いていく。
あくまで私個人の場合として。
※なるべくマイルドな表現をしているが、性・恋愛という単語が無理な方は読むのをオススメしない。

尚、現状世の中では恋愛と性愛が地続きになっていると感じているため、アセクシャルだけでなくクワロマンティックにも触れることとする。

■家庭環境(性自認?)

実家は自営業をしている。そこに私は女として生まれた。するとどうなるか。
小さい頃から
「将来このお店を継ぐのね」
「お婿さんを貰わなきゃね」
と言われ続けるのである。物心ついた時から現在まで。

小さい頃、自分は男になるのだと何処かでそう思っていた。いずれ男になる、と。それが関係しているのか不明だが、齢1桁でネクタイを結ぶようになり、スカートやヒラヒラした服を嫌い、人形よりラジコンで遊びたかった。しかし生物学上、自然と男にはならない。女として生まれたのだから。それを頭で理解しても、納得はしなかった。

・私は女であるから、婿を貰って店を継ぐのが正しいのか?
・自分が男であったなら、問題なく継げたのか?
・そもそも継ぎたいのか?

疑問は多数あれど、真っ先に考えついたのが「男になれないなら、男に負けなければいい。」だった。可愛さ余って憎さ百倍と言っていいのか分からぬが、男になれないならば、負けない。対等になればいい。そんな脳内であった(そして体格では勝てないので勉学に走った)。
子どもというのは察知能力が高い。女である自分に周囲が何を期待しているかなど一目瞭然。スカートは頑として履かなかったが、いい子ちゃんで過ごした。しかし第二次性徴が訪れると「あ〜あ」という気持ちにもなった。

女でいることに違和感があるかといえば、身体に違和感はないし、気まずさもない。毎月のホルモンバランスはどうにかしてほしいが。あと筋肉も出来れば欲しいし、男のフォーマルスーツはカッコイイの多くていいなとは思うが。
男も女も脳的にはモザイクのように要素が混じりあっているのであり、純然たる性差がある訳でもないらしい。男になると思っていたけど、その前に自分は自分、そういう個体もいる。そんな感じである。


■アセクシャルの自認

アセクシャル自体の自認は一瞬であった。
1年程前に友人から、君はアセクシャルなのでは?と話をふられ、アセクシャルの定義(他者に性的欲求を抱かない)を聞いて「うん、そうだね」。
これで完了である。アセクシャルというラベルを知る前に、既に自分はそういう人間だと自覚していたので。その時は世間話の一つという感じで、しばらくして別の話題になった気がする。
振り返ってみれば、友人からその話題をふられたということは、私が「そういう人間だ」と第三者から見て分かる振る舞いをしていたからだろう。
その友人との付き合いは高校時代からなので、そこから考えてみる。


■振り返り

当時の私は漫画やアニメに熱をあげていた。クラス内の恋愛事情には疎く、誰と誰が付き合ってるとか、誰から告白されたとか聞いても「へぇ、そうなんだ」以上の感想を抱けなかった。友人から「それだけ?!」と言われたこともあった。話を広げられずに申し訳ないが、それだけである。
自分が女であるという自覚も希薄で、友人は皆友人。そこに女も男もなかった。そのせいか勘違いを与えてしまい、友人からベクトルを向けられて初めて「これヤバイやつだ、逃げよう」となる。漫画やアニメで「恋愛」についての学習(刷り込み)はあったため、相手からの恋愛的好意を受け取ったらどうなるか位は分かっていたのだ。そして、私はそういった行為を自分がすることに嫌悪感を感じていた。友人としてのスキンシップならギリギリいい。しかしそこに恋愛要素が乗ると、下心が生じる。それを察知してしまうが故であった。

多くの人にとって恋愛は性愛と地続きであることには、未だに疑問を感じる。やはり物語や資本主義による「そういうもの」という刷り込みなんだろうか。
これをしたら相手に勘違いを与える、というのを毎回やらかしながら少しずつ学習していく他なかった。最終的には「もう面倒だから異性に関わるのは最低限に」とか考えていた。私の場合、ベクトルを向けてくるのは100%異性だったので。大学の研究室に入ったとき、人口の80%程が異性だった時には色々と諦めたが。

大学ではひたすら実験をしていた。実験するために研究室に入ったのだから。そこで新しい価値観を提示してくれた人、新しい解釈を与えてくれた人等に出会い、有難いことだと感謝を伝え、しかしそれがまた相手に勘違いを与えてしまい、どうしたらいいんだ…となっていた。
そんなことをしていたので、
「恋に恋してるんだね(理想が高いんだね)」
「大人な恋を知らないんだね」
「ストイック過ぎる」
「アイツは君のことが好きだったのに、アイツが可哀想だ」
等と言われたが、相手がそう捉えるならもうそれでいいです…互いにとっての普通が違うから仕方ないですね。という顔をしていた。人間よりも研究対象に興味があったので。
尚、社会人になってからは、そういう方面での話題はほぼ無くなったので割愛する。

エロいと言われると不快感を感じたり、恋愛感情を向けられるとその先の性行為の気配を感じて危機感を覚える。何より身体が反応して、吐き気や腹痛に見舞われる。自慢気に生々しい性事情を話された時や、自分への見合い話をされた時も同様だ。痴漢に遭った時には実際吐いた。
ただ人としての好意は別だ。下心を感じなければ、基本的に好意には好意で返す。そこには対等な関係があると信じているからだ。

ざっと振り返ってみたが、お腹痛い気持ち悪い〜を知っていた友人だからこそ、こいつアセクシャルだなと思ってくれたのだろう。
人間は人間で面白いのだけど、こう…相性があるからね。


■因みに、クアロマンティックについて

そんな私も、これは恋愛感情なのでは?という感情を抱いたことはある。しかしほとんどが相手に何を求める訳でなく、ただ挨拶をするくらいで満足だった。付き合いたいとも独占したいとも思わない。相手に恋人が出来ると少し寂しい気持ちにはなったが、相手の良さを理解してくれる人が現れたのだな!そう、あの人は素敵な人なのだ!幸せになってくれ!という気持ちも大いにあった。
※家庭環境(性自認?)に関わるのか、性分なのかは分からぬが、恋愛感情(仮)を持ち続けていると、そのうち「こいつにだけは負けない」という対抗心へ変化してしまう場合もある。正直これはこれで燃費のいいエネルギーなのだが。

説明が遅れたが、私がここで言うクワロマンティックは「友情と恋愛感情を区別できない/したくない」人のことだ。
私の言う好きは「人としての好き」であり、手を繋ぎたいとか、連絡をマメにとりたいとか、好きと言って欲しいとか、そういう好きではないのだ。むしろそれらは苦手だ。
これについて人と違う、欠陥だ、寂しいと思ったことは特にない(アセクシャルに関しても)。何故ってこれが自分だからだ。人は皆違うからだ。人間社会で暮らしていると人間ばかりが目につくが、人間以外の魅力的なものは山ほどある。自分という篭もれる城もある。興味のあるものを追いかけているときのドキドキは大好きだ。恋愛が分からなくとも楽しいドキドキは幾らでもある。私の場合は特に身体から苦情が来るので「試しに人間と付き合ってみよう」が出来ない、というのもあったが。

大変有難いことに人には恵まれ、そういった私を私として受け入れてくれる人が多かった。私も友人を友人として(その人をその人として)受け入れていたので、友人に後からどんな属性がつこうとも、大抵のことは何でもなかった。病気になろうと、自認が変わろうと、子どもができようとも、その人はその人だからだ。無論、人は変わる。けれど、真摯に向き合う姿勢を持っている人はそれだけで尊い。

恋愛についてそもそもよく分からないし、恋愛を基準に生きている訳でもない。あくまで人対人で接したい。自身が抱く好意をラベリングせずに、ただ好意として抱いていたい。大切にしたい人をただ大切にしたい(友愛、敬愛、慈愛的な意味で)。
そういう訳で、クワロマンティックを自認している。


■どう向き合っているか

・恋愛について
この歳になるとベクトルを向けられることもそう無い。そもそも出会わないので。
人として素敵な人に出会えたらラッキー!くらいに考えおり、これまで学んだ「これをやったら勘違い発生するぞ集」を駆使して適度な距離感で信頼関係を築けたなら僥倖。相手の性自認に関わらず、付き合うという発想は端から無い。

・性愛について
身体が拒否反応を示すので近寄らない。
因みに性欲自体はある。
アセクシャルと言うと、性欲が無いと解釈する人もいるらしい。私はホルモンバランスの通りに性欲が顔を出すタイプだ。しかし人と性行為をしたいと思ったことはない。嫌悪感さえある。
以前SNSで見かけた「性欲と性交欲は別」という言葉にとても納得した。正直、性欲が顔を出すだけでうんざりなのだが、放置したら睡眠の質等に影響が出たため仕方なく自己完結型で何とかしている。全くもってやれやれである。


■その他:こぼれ話

恋愛についての話題をふられた時、そういうのよく分からんのよね〜と返すことが多かったが、何故かよく恋愛相談を受けていた。私でいいの?分からんよ?とは前置きするが、それでも話をしたいのなら真摯に向き合うのが友というもの。
結局恋愛も、人対人の一部。相手の性質、友人の性質、お互いの齟齬が無いかを話を聞きながら整理する。何やかんやあって友人はお付き合いを始め、更に何やかんやあって結婚までいった。ことの成行をずっと見てきた身としては、何だか嬉しかった。恋愛がよく分からずとも、友人が幸せなことはよく分かったからだ。口頭で1番に教えてもらったとき、思わず涙してしまうほどに。


長々と書いてしまったが、こういう人間もいるというサンプルの1つになれば幸いだ。

青葉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?