ローポリゴン・ブルー・アンビエント

文 ЁАЫ

 誰しもそのゲームプレイを思い出しながら、鼻歌で口ずさんでしまうゲームミュージックのひとつやふたつはあるだろう。だけどこの話はそうじゃない。全く逆だ。誰に聴かれることも目指していない、ある時代から始まったゲームミュージックの話だ。

 家庭用ゲーム機の人気が著しい90年代の中盤、スーパーファミコン・メガドライブ・PCエンジンなどなどの世代から新たにマルチメディア時代をも謳われた3DO、セガサターン、そしてプレイステーションの世代に移り変わったことで、ビデオゲームは過去の定義から大きく変わることになった。

 これまでのドット絵で作られた映像を基調としていたところから大きく変化していったのは、まずヴィジュアルだった。リアルタイムで表示されるポリゴンの世界、豪華なプリレンダムービーなどなど、その他には実写映像と豊富なボイスまで導入した作品が次々とリリースされていった。

 これまで2Dの世界で、記号的だったり言葉のやりとりの要素が強かったところから、初めて現実のような空間に近いなかのゲームが出来るという変化がまず最初にあったのだと考えている。それはビデオゲームを彩る、音楽のあり方さえも大きく変わったのではないだろうか?

 3Dポリゴンの世界になったことで、まず仮想現実を体験できるようになった。そこで大きく使われるようになった音楽ジャンルが一つあると思ってる。それがアンビエント・ミュージックではないか?と長らく考えている。

環境の音楽

 アンビエントミュージックとは簡単に書いてしまうと、「聴くことを強制しない、空間の中で漂う音楽」とされでいる。聴きやすいメロディやリズムもない、空気のように流れる音楽だ。日本語で「環境音楽」とパッと見では解釈し辛い訳語になっちゃうのだけど、そんな風に意識して聴くものとは違った音楽の事だ。

 これは極めて実験的なアプローチを行っていた音楽家のエリック・サティから、U2やコールドプレイのプロデューサーも務めたブライアン・イーノに通じる、従来の”音楽家が念入りに作曲した音楽を演奏し、聴き手がそれを一音も逃さずに静かに受け取る”と言う関係を壊す試みだった。それは単なるドラマチックだったり感動的であったり、聴きごたえのある調性音楽の方法論を壊し始める現代音楽の方法論のひとつだ。ところがそんな前衛的な試みが、後にアートからビデオゲームに繋がったのではないか、と考えてる。

 サティは酒場で演奏を行っていたときに、客たちのおしゃべりを邪魔しないような音楽を演奏するように試みていた…という、普通の音楽家ならプライドに障るだろう経験を逆に利用した。”生活に溶け込む音楽”として、積極的に聴かれることのない音楽を意図的に作ろうとした。その果てに「家具の音楽」なんてタイトルの楽曲さえ作曲したほどだ。そうしたコンセプトをブライアン・イーノなどが引き継ぐ形で、今日のアンビエントミュージックが定義されてきた。

 ではそんな実験音楽の一種であった”意識して聴くことのない、空気のような音楽”がどのようにしてゲームに登場するようになっていったのか?を考えると、それは当時作る側も遊ぶ側もまだまったく馴染みの無かった3DCGの世界と、そこを彩るBGMは何が当てはまるのかを追った結果だと考えている。

シークエンスの崩壊した3D空間

 PSをはじめ、3Dのポリゴンの世界の中にプレイヤーが置かれると言うことは現実の空間に近い中にいることを意味した。現実ではシーンに沿ったBGMなんてない。それが音楽の演出の在り方にも影響を与えていると踏んでいる。

 過去の世代の2Dゲームのときはヴィジュアルからゲームメカニクスまで記号的だった。だから音楽もわかりやすくそれを彩るように強調された音楽だった。ゲームの中の世界ではアクションなりRPGなりシューティングなりのジャンルが強固に設定されており、個別のステージやシーン別に個性的で耳に残る音楽が配置されていた。「ロックマン2」のワイリーステージなどは分かりやすいと思う。これは3Dのポリゴン時代の初期だろうと、アクションなりシューティングなりのジャンルでステージのクリアのゲームだったならば違う。

 3Dポリゴン時代の初期のゲームでアンビエント・ミュージックが大きく起用されるようになるのは、まず特定のゲームジャンルに属さないアドベンチャーゲームであったり、はたまた実体の知れないアート的なアプローチをとったゲームからだ。例えば海の中を探索する「アクアノートの休日」では全編に渡り海中の環境音が流れる。コンセプトに「ゲームオーバーも明確な目的もない」と銘打っているように、特定の戦闘や、物語といったシークエンスがまったく存在しないゲームゆえにこうした音楽のアプローチになったと思われる。

 「ゲームらしい勝敗を目的とせず、空間そのものを味わう」そうした表現はその後の世代でも大きく生かされる。たとえばPS2の初期の作品「ICO」ではほとんどの音楽がアンビエントで彩られた。この作品はUIを廃止し、主人公がヒロインの手を引き、廃墟のような古城から脱出する純粋なゲームプレイを求めるタイプのアクションであり、特定のゲームシステムやルールによって競い合うことを目的としたゲームデザインではなかった。ゲームに勝つことを目的に置かず、情緒的なゲームプレイを目指したそこでは感情移入を大きく促すような楽曲ではなく、古城のなかで少女の手を引く情景そのものを生かすためにアンビエントが使われた。

 こうした時代の3DCGの世界の中を旅する作品では、ゲームメカニクス以上にその空間や環境の中にいることそのものがゲームプレイの中で最も大きな意味を持っていた。そこには敵と戦うとか、コインを集めて得点を増やすということが目的ではない。架空の世界の只中にいることそのものが重要であり、その異質な空気をささえるためにあの”空気のようにそこにある音楽”が登場してきたのだと考えている。以後に定義されたウォーキングシミュレーターというジャンルでも、その多くはアンビエントミュージックを採用していた。

それから2Dゲームの意味も変える

 時は過ぎ、ビデオゲームの処理能力が増大化するとともに過去の2D・8bitや16bitのビデオゲームのフォームや方法論も現代にリバイバルされる。だが、それらは単なる過去の再現や懐かしむだけでは終わらなかった。

 そう3Dポリゴンの時代から培われただろう、アンビエントミュージックの方法論は2Ⅾプラットフォーマーでも大きく生かされるようになったのだ。世界観全体をプレイヤーが浸るようにゲームに触れる方法論が、記号的なわかりやすさを至上としていた2Dアクションなどにも使われるようになったのだ。

 ここで「Limbo」や「Thomas was alone」といったタイトルを挙げるのはたやすいのだが、最も洒脱だったのが「Fez」だ。あれは一見8bit16bitの画面に見えるのだが実は3Dポリゴンで出来ており、画面を横に回転させることで普通いけない場所に行けたりするというゲームなのだが、主なメカニクス以上にビデオゲームのアート水準を書き換えた点が大きい。

 「Fez」が革新的な点はいくつもあるのだが、特に驚いたのはピクセルだけではなくバグやグリッチさえも含めたアートスタイルは、もはや「洞窟物語」のようなの「8bitの温かみ」「レトロゲームのリバイバル」という意味から大きく離れていたことだ。それは単なるリバイバルではなくなっていたからだ。「Fez」においてはビデオゲームの歴史上の2Dの記号的なデザインと3Dの空間表現のデザインの両者が混ざり合った結果、全編に渡って使われるゲームミュージックには8bitや16bit全盛の時代には使われることがまずなかったアンビエントミュージックが流れていた。

 

 ゲームミュージックの変化は初期PS・SS後もボイス有りの時代から映画的な演出に伴う映画的なBGMの導入などなどで変わっていったのだと思う。今ではビデオゲームは特定のジャンルの中であるルールに沿って勝ち負けを競う…というだけではなくなり、多彩な表現による架空の環境の中をたゆたうように、世界全体を味わうものとしても大きくなった。そこに”意識して聴かれるためのものではない、空気のようにそこにある音楽”は流れる。世界の中をたゆたうことを音楽が助ける。

■プロフィール■

ЁАЫ(twitter @EAbase887 )

ビデオゲームブログ「GAME SCOPE SIZE」
(https://goo.gl/aO9QXe )
にて様々なタイトルを書き散らす。その他格闘技やアニメーションのブログもやっている。

アニメ最悪書き散らし「17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード」(http://goo.gl/mTsrmi ) 

格闘技「オウシュウ・ベイコク・ベース廃墟」(oushuandbeikoku.blog134.fc2.com)