見出し画像

舞台『モノノ怪 座敷童子』感想

はじめに
 私の意見が全て正しいとは思っていません。
観た人それぞれにいろんな感想があって然るべきです。
 この作品に感動した方も、そうでない方も、何故そう受け取ったのかを各々の書きたいところへ書いてください。皆様のマコトとコトワリ、お聞かせ願いたく候ってことで。

 以下、文中にネタバレを含みます。
また、作品に対する批判的な内容がありますのでご注意ください。
 言いたい放題言わせてもらってますが、特定の個人を攻撃する意図は一切ありません。
大事なことなので明言しておくと、私は同調することが出来ないってだけで肯定的に捉えようとする方々を否定する気もありません。
あらかじめご了承くださいませ。

良かったところ

 キャラクターが登場するオープニングの華やかさは、作品の雰囲気とプロジェクションが一体となっていて効果的だと思った。
 映像は前回よりかなり良くなっていた。アニメの美術をそのまま舞台に持ってきたような広がりだったので、アニメのファンも楽しめたんじゃないかな?
 前回に引き続き、衣装とメイクは私の好み。新しく取り入れられた階段や沙幕の仕掛け方も良かった。
客席を使った演出が盛り込まれているので、アトラクションショーと舞台の中間的位置付けで楽しむこともできると思う。
 無音のエンドロールは音響トラブルかと思ってたけど、3回観て3回ともあれなので多分トラブルではない。オープニングの迫力と比較すると尻すぼみ感が否めない。
 とはいえ、薬売りさんの出す空気や表情の細やかな変化で「新木さんって、やっぱ巧みな役者さんだなぁ」感じた。我ながらチョロい。

気になったこと、そこから考えたこと

 私は初見の時から、原作より引き継がれた
・子は自ら親を選び、この世に生まれることを望む
という設定と、舞台化にあたり加筆された、
・子は親にどのような扱いを受けても親を愛し続け、親からの愛を欲し続ける
・子どもが自分の存在意義を確立する為に、その意味を充分理解せずに堕胎を手伝う
という描写が気になっていた。
 私の主観だけど、この3点がなんとなくの流れで美化されていたように思えてしまう。
今の時代に舞台化するのに適した出力方法だったのかな、と。ずっと引っかかっている。

 原作が制作されたのは17年前で、当時私は中学生くらい。いろんな形の家庭があることを知ったのは、自分が大人になって少し世界が広がっただけでなく、世論の変化もあると感じている。
 上記の点が自分のトラウマとして人生の一部にあるわけではないので、私は当事者として物申すことは出来ない。
 ただ、今作で付け足された部分に傷つく人がいるのではないかという不安と、その懸念について議論がなされたのかという不安を感じるのは確かなこと。

 原作からして『モノノ怪シリーズ』がファンタジーであることは分かっている。だから遊郭に関する時代考証が無くても成立するし、今作が舞台芸術として何かしらの法に触れているわけではない。
 芸術を作る上であらゆる可能性を考慮した挙句、作り手が自分の作品にさまざまな制約を科していくことが健全とは思えない。無意識下で行われるとしたら尚更危険。
あえてタブーに触れて作品を作り、その真価を問うことは、芸術の担う一側面であることも事実。
 ただし、なんでもやって良いかというとそういうことでもないはず。
難しいことだと百も承知で言うけど、この時代に何かを作るには、[道徳や倫理に沿った内省]と[自主的な検閲に対する抵抗]の狭間を、頭の片隅で模索し続ける必要がとあると思う。媒体が2.5次元だろうとなんだろうと。

 演劇という表現媒体は、たくさんの人が関わらなければ完成し得ない。
私は1人で作品を作ることばかりしてきたから、人間が増えたらその分煩わしいことも増えるだろうなぁと思う。現実的なことを言えば、公演期間は決まってるんだからそこに辿り着くために一旦蓋をしてそのまま存在すら忘れちゃうような諸々の問題はあると思う。
ただ、最初から議論することを諦めてかかっているような空気ならば、それは間違っていると言いたい。
 真偽は定かで無いけども、私はこの座組からそんな雰囲気を感じてしまった。こういうことは今作に限った話では無いんだけど、私が今まで観てきた中では一番気になった。私のように末席ながら演劇を応援したい人間からするととても歯痒い。
 役者たちの仲が良いと言われても、結局は権力勾配の下流で、やれと言われたことをやっているに過ぎないんだなって悲しくなった。操り人形として適切な振る舞いかもしれないけど、表現者としてどこか軽蔑してしまう自分がいる。そういう風に感じる自分が嫌だ。
そんなこと考えたくて観に行ってるんじゃないのに。役者さんの表現力を素直に感動していたい気持ちはあるのにね。

 感動が削がれると言う点で、チケットの販売方法も大概だった。
後々からランダム商品だと明かされる特典。新木さんのファンのこと金づるだと思ってるのかなぁ?と観る前からちょっと萎えてた。
 ファン目線で言えば、ランダム商品をきっかけに生まれる交流があるので必ずしも悪とは言いきれないが、特典ありきのチケット販売はいい加減にして欲しい。ちなみに私が見かけた新木さんファンと岡田さんファンのトレードは平和そのもので、良い界隈だなって思った。岡田さんの演技はもちろん上手だったし、ファンの方々も穏やかで好感を持った。

 本題に戻る。指摘したい設定の矛盾点は枚挙にいとまがない。しかし何よりの問題はそれらが無視され、なんとなく「感動もの」っぽい仕上がりに着地しているところだと思う。
・原作よりも拙い言動の大人徳次
・幼い徳次が自分を久代に認めてもらうために堕胎の手伝いをする描写
・そんな幼い徳次の選択を推奨しつつも女郎屋を旅館にする久代のチグハグさ
・それらへの憎悪を抱くことをやめ、あまつさえ自分が座敷童子になった原因たちに感謝しながら二度目の死を受け入れる座敷童子
・なんの罰も受けずにちゃっかり許された扱いになってる久代たち
まだまだ書き足りない。作中で座敷童子は自我を持って成長すると明言しておきながら、匹で数えていた方がいましたが大丈夫ですか?
制作の各段階で「これで行ける。良い作品になる。」と思ったのならば、あまりにもお粗末。

 さて、これらを踏まえて、私は劇場で泣いていた方々に伺いたい。この作品のテーマって何ですか?
生命の尊さ?親子の絆?今作でそれらを伝えるために先述の要素は絶対に必要でしたか?
 なんのフォローも無く子どもに見せることを推奨した関係者の方々、本当に適切だと思ってましたか?私は助成金云々は言い訳として罷り通らないと思いますよ。

 私は前からここに書いているとおり、もともと新木さんが好き。新木さんが出るから観に行った。というかキャストが発表された時からチケットを買うと決めていた。さらには前作を観て好きになった役者さんが続投されてすごく嬉しかった。
 自分の捉え方が間違っているのかと自問自答しながら3回足を運んだ、今の正直な感想は「今作に好きな俳優さんたちが携わったことが残念」これに尽きる。
 あれこれと書き散らす私に「嫌なら観なければいいのに」と感じる人も居ると思う。私もそう思う部分はある。実際に言われたし。
 じゃあなぜ観たのかと言えば、そもそも観ずして批評は出来ないし、観た上で私の見方が極端に穿っているだけかと思ったし、自分の目で観てそれを確かめたかったから。それだけ。
「最初からこの仕上がりになることは分かっていただろ」って言う人もいたけど、私のレベルではそんなこと分からなかった。分かっていたとしても観るまでは批評しようが無くない?

 楽しんで観た人もたくさんいると思うし、私がこういう文章を書くことで、その人たちの素敵な思い出に泥を塗るかもしれないと思うと本当に申し訳ない。
せっかく出来た観劇仲間を失うかもしれない。それも相まって私は初見の時から苦しかった。それでも私はこの演目を称賛できない。
私がこの作品と出逢うタイミングが良くなかっただけなのかなぁ。どうなんだろうか。

 私は懲りないミーハーな人間なので、次回作があるならば一回くらい観に行きたい気持ちも、座組を応援したい気持ちもまだある。
そして上で書き散らした不安要素が私のただの杞憂であると願ってる。

お目汚し、大変失礼いたしました。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?