さよならサマーバケーション

9月14日で学生最後の夏休みが終了した。
なんというか、無。特筆すべきことがない。
もっと焦燥感とか、憂鬱な気分とか、せめて感情だけでも動いたらいいのだけれど、夏休みが終わることに何も心が揺れない。

このことは、最近といってもここ半年以上、日記が書けなくなったことにも通じていると思う。去年は毎日ではなくとも週に3日くらいは日記を書いていた。書きたいことがあるときに書くルールにしていたから、今書けないのは書きたいことがないということになってしまう。でも恐らくそんなことはなくて、ポジティブなことでもネガティブなことでも何かは毎日起こっているはずだからただ単にそれを受け取る私の感受性が弱まっているんだと思う。

多分きっかけは就活。就活に本格的に取り掛かかった年明け頃から日記のページは進んでいない。短歌もこのあたりから離れてしまった。就活は思った以上に自分との勝負で常に自分と向き合っていたから、そのプロセスは日記や短歌とさほど変わらないと考えている。私にとって就活はマイナスの存在ではなくて、むしろプラスの存在だった。割とスムーズに内定まで進み、それが自信になった。詩情や独白などの内向的手法に頼らなくても外交的手法(社会との関わり)で自分を好きになれてしまった。社会的に認められたことがきっと嬉しくて、意識が外交的になったのだと思う。就活を終えたあともTOEICや資格試験などに取り組み(本当なら大3あたりにやるべきことだけれど)、やりがいを感じるようになった。感受性が弱くなったことが寂しいとも思う反面、わかりやすい道を進んでいる安心感もある。

こうして迎えた今年の夏は、なんだか味気ないものになってしまった。とはいえ夏休みという括りではなく一日単位で見れば充実していたと思う。確かにバイトや勉強もしていたけれど、人と会ったり遊んだりして楽しかった日だってある。「味気ない」と感じるのは完全に私の問題なのだ。そして笹井賞を諦めてしまったことも夏の記憶を弱めている。大学に入ってから毎年出していたのに、とうとう見送ってしまった。それこそ就活では「学生時代に力を入れていたこと」で短歌の話をしていた。最後の年に出せないなんて…。

特に着地点を決めずに書き始めてしまったけれど、ここまで書いてみて思ったのは、私は感受性を取り戻したいのかもしれない。短歌や日記をつけていた頃に比べて、自分の心の場所が遠い気がする。大人になったと言えばそうなのかもしれないけれど、それが良いことだとは限らない。少なくとも、去年の短歌や日記を読むと、羨ましいと感じる。
このままでは、ぼんやりしたまま学生時代の終わりを迎えてしまう。今までの大学生活をこれからの私が台無しにしたくない。高校を卒業するときには、色んなものを同時に失ってしまった。今度は、ちゃんと今までの私を次の場所に連れて行きたい。
なるべく取りこぼさないように、でも一番取り出しやすい記憶がきらきらしたものであるように、ここから頑張っていこうと思う。
具体的にはまだわからないけど、久しぶりに長い文章を書けたことに意味があると良いな。

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