人権をいまだ実現されていないものとして構想しなおすことは、すでに市民権を保障している現在の主権国家の枠組みの外へと言ったん足を踏み出し、市民社会、あるいは国民国家における諸制度の内でこそ、権利=義務関係の網の目が紡がれているといった思い込みを捨て去ってみることをわたしたちに要請している。〔…〕ケアの倫理が強く批判する自立的主体と主権国家の強い結びつきが、脆弱で不安定な存在から生まれる関係性を、国家を構成する市民たちの関係性から排除し、市民たちの関心外へと放擲してきた、政治思想史の在り方であった。しかし、政治的に強い拘束を受けてきた規範的な家族像から離れて、実際にそこで行われてきた営みを注視してみれば、脆弱で不安定な存在だからこそ他者からのケアを待つ存在と、その存在のニーズを満たそうとする強い応答責任を担う存在から織りなされる、人びとの関係性がみえてくる。そして、そのような関係性のあり方は、自立した主体同士の関係性から排除され、主流の政治思想史においては忘却されてきたのだった。〔…〕
しかし、わたしたちは本書において、ケアの倫理と他者関係について、次の三つの特徴を見い出してきた。第一に、たとえ目の前において、他者の助けを必要としている人に出会ったとしても、その者が本当になにを訴え、必要としているかについては、究極的には分かりあえない。したがって、あたかも一心同体であるかのごとく、男性思想家たちによって語られてきた母子関係においても、母親は、刻々と変化するこの成長にとって何が必要なのかについて、「考えなければならない」のだ。〔…〕第二に、ケアという営みの道徳的価値とは、抽象的な正義論や人権概念がともすれば見落としがちな、一人ひとりが代替不可能な価値をもったユニークなひとであること、すなわちあらゆるひとが尊厳あるひとであることをケア関係において承認しあうことにあった。「価値ある自分と人間性という感覚を発達させる」場が、ケアを与えあうホームなのである。〔…〕そして第三の特徴として、本書の文脈において大切なのは、「ホームという理念はまた、批判的・解放的な可能性」を秘めていることである。〔…〕再現不可能性の中での創造的な想起によって、わたしたちは、歴史の中の多くの欠落や忘却、自分たちの想像力の限界、未知なる他者の存在を、痛切に想い知らされるのである。そうした気づきがもたらしてくれるのは、マードックやルディクの言うように、意志によるコントロール不可能な世界の中でわたしたちが学ぶ「謙虚さ」であり、他者に対する非暴力的な応対の在り方なのだ。そして、そうした態度にこそ、実現不可能な人権へとわたしたちが接近しうる方途が存在している。