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平和研究会(2023.8.5/第百四十九回)

岡野八代『フェミニズムの政治学』

 人権をいまだ実現されていないものとして構想しなおすことは、すでに市民権を保障している現在の主権国家の枠組みの外へと言ったん足を踏み出し、市民社会、あるいは国民国家における諸制度の内でこそ、権利=義務関係の網の目が紡がれているといった思い込みを捨て去ってみることをわたしたちに要請している。〔…〕ケアの倫理が強く批判する自立的主体と主権国家の強い結びつきが、脆弱で不安定な存在から生まれる関係性を、国家を構成する市民たちの関係性から排除し、市民たちの関心外へと放擲してきた、政治思想史の在り方であった。しかし、政治的に強い拘束を受けてきた規範的な家族像から離れて、実際にそこで行われてきた営みを注視してみれば、脆弱で不安定な存在だからこそ他者からのケアを待つ存在と、その存在のニーズを満たそうとする強い応答責任を担う存在から織りなされる、人びとの関係性がみえてくる。そして、そのような関係性のあり方は、自立した主体同士の関係性から排除され、主流の政治思想史においては忘却されてきたのだった。〔…〕
 しかし、わたしたちは本書において、ケアの倫理と他者関係について、次の三つの特徴を見い出してきた。第一に、たとえ目の前において、他者の助けを必要としている人に出会ったとしても、その者が本当になにを訴え、必要としているかについては、究極的には分かりあえない。したがって、あたかも一心同体であるかのごとく、男性思想家たちによって語られてきた母子関係においても、母親は、刻々と変化するこの成長にとって何が必要なのかについて、「考えなければならない」のだ。〔…〕第二に、ケアという営みの道徳的価値とは、抽象的な正義論や人権概念がともすれば見落としがちな、一人ひとりが代替不可能な価値をもったユニークなひとであること、すなわちあらゆるひとが尊厳あるひとであることをケア関係において承認しあうことにあった。「価値ある自分と人間性という感覚を発達させる」場が、ケアを与えあうホームなのである。〔…〕そして第三の特徴として、本書の文脈において大切なのは、「ホームという理念はまた、批判的・解放的な可能性」を秘めていることである。〔…〕再現不可能性の中での創造的な想起によって、わたしたちは、歴史の中の多くの欠落や忘却、自分たちの想像力の限界、未知なる他者の存在を、痛切に想い知らされるのである。そうした気づきがもたらしてくれるのは、マードックやルディクの言うように、意志によるコントロール不可能な世界の中でわたしたちが学ぶ「謙虚さ」であり、他者に対する非暴力的な応対の在り方なのだ。そして、そうした態度にこそ、実現不可能な人権へとわたしたちが接近しうる方途が存在している。

ケアから人権へ

 ここでいう証言の政治は、前章でハーマンを参照しながら論じたように、〈慰安婦〉にさせられた女性たちが語り出せるようなホームを、繕いの共同体として要請する。また、ヤングが祖母に想いを馳せるように、再現不可能な過去の文脈をみずから再構成するような創造力を要請する。したがって、証言の政治には、死者をも含んだあらゆる存在を代替不可能な尊厳をもったひととして生きている、あるいは生きたものとして受けとめる態度が要請される。そして、だからこそ、彼女たち・かれらが生きた具体的文脈の中で発せられた声を聴き届けようとする、ケアの倫理が働いているのだ。それは、ある文脈の中で、欠落している声さえも、いや、そうした声こそを聴き届けることを要請するような政治なのである。〔…〕
 人権はつねにわたしたちの経験世界において否定されたものとして現象するからこそ、わたしたちは、そのようにしかあらわれることがない人権を理念・規範的な価値として追い求めなければならない。また、そうすることによって、人権を否定している経験世界を変革するしかない。経験世界における人権保障が理想状態からほど遠いからこそ――ほど遠いにもかかわらずではなく――、時間をかけて、偶然のように回帰してくる沈黙の「痕跡」を、経験世界ですでに承認されている文脈に対して否をつきつける、規範的な価値をもった人権として受けとめていくのである。

ケアから人権へ

アーレントの言葉を使えば、世界の荒廃を促す〈忘却〉の中で、彼女たちは見捨てられていたのである。したがって、容易に想像できるように、半世紀近く経った時点での〈慰安婦〉にさせられた女性たちの証言は、過去の体験の再現であるはずがない。また、その「証言」の中には、見ることができないものも含まれるであろうし、そもそもたった一人の証言から始まったことからわたしたちが想像しなければならないことは、わたしたちが出会うことのできなかった多くの「証人」が、忘却の淵に追いやられているはずだということである。
 金学順さんの「証言」がわたしたちにもたらしてくれたものは、現在にとって〈もはやない〉彼女自身の体験だけでなく、文字通り〈もはやない〉、どこにも存在して〈いない〉、金学順さんでさえみていない無数の女性たちの経験や出来事である。そうした出来事や経験は、語られないがゆえに、わたしたちは、どこか他に「本当の証人」がいたのではないかと想像せざるを得ない。過去の「証言」に耳を傾けるときに喚起される想起の力は、そうした意味で単なる記憶ではなく、むしろ再現されていないもの・現前していないものを想像することを意味する。ここに、過去の「証言」が現在に未来の光を投げかける契機が存在している。〔…〕未来とは、現在においても過去においても決して現前していないものであると同時に、他方で「現在」の中に現前を否定された「痕跡」として残存し続けている、ということである。彼女たち=未来がわたしたちに到来するためには、わたしたちは、彼女たちを否定し続けている「いま」において、わたしたちにとっての過去を読みなおし、書きなおし、語りなおさなければならないのだ。そうした過去の再創出において、「現在」の在り方が変革され、そこに新しい未来への展望がひらかれていく。こうして、わたしたちの現在を変革し得る力をもった未来は、未だ語られることのなかった過去の出来事を物語る力によって回帰してくるのである。〔…〕
 もはや取り返しのつかないほどの損傷を負わされた者たち——原理的にはすべての危害は取り返しがつかない——に対する繕いの行為は、つねに遅れている。だからこそ、それは、加害者=被害者の直接的な因果関係の内では、修復し得ない。とりわけ、もはや亡くなった者たちへの、現在のわたしたちの責任は、そのような過去を忘却するかのような現在を変革する責任を共有することから始まるのである。再度、ここでギリガンの言葉を思い出しておきたい。なぜならば、「誰もが応答され、包摂されていること、誰も一人で放置されず、傷つけられないこと」というケアの倫理は、単に共時的な規範的要請ではなく、通時的な要請として、わたしたちの現在というときを変革するための指針にもなっているからである。ケアの倫理は、空間的に限定されるどころか、もはやどこにも場所を占めない者たちの想起をも促す倫理でもあるのだ。
 主体を起点に他者の声を聞くという「承認」が批判されたように、わたしたちはあたかも他者の発話を第三者的に聞く証人ではあり得ない。なぜなら、人権を訴える者はわたしたちの眼前にはいないからだ。あるいは、語ってくれる証人はもはや存在しないからだ。事故と現在を中心にした、国民国家の市民による他者の「包摂」はあり得ない。わたしたちが他者を受け入れるのではない。他者が呼びかけているのだ。わたしたちがその他者の方へ、歩んでいかなければならない。

ケアから人権へ

〔…〕予測不可能な沈黙との出会いがあるからこそ、過去の残酷な現実が希望への鍵ともなるのである。しかも、それでもなお、わたしたちは、そこに残された沈黙を自らの文法において、自らの言葉に翻訳できるとは限らない。一人ひとりの人権は、なにものにも代え難いものであるのだから、むしろ翻訳不可能であることを学ぶためにこそ、わたしたちは荒野に向かう。「長い骨の折れる探索のあとに、やっと彼女の家に近づいたとき、私は、知らない道を、終わりなき差延を、どうして私は彼女のことを知ることができないのかということを「経験する」」ために、一歩を踏み出す。国民国家の市民であるわたしたちは、自らの限界を経験するために荒野に誘われ、荒野に向かうのである。〔…〕
 「承認の政治」がなお払拭し得ない傾向とは、「異教徒を人間化し、自己が目的となるような存在とせよ、野蛮人を人類社会という仮想体に仲間入りさせるために。昨日の帝国主義、今日の〈開発〉」という具合に、スピヴァクによりすでに的確に批判されてきた。わたしたちが尊重すべきである(すべきであった)と気づかされる人権は、国民国家の内部ではなく、国民国家の外部にある、というところから出発しなければならない。そして、わたしたちは、「荒野」にこそかつて「否定された希望の鍵」を見い出すであろう。「生まれ」に基礎づけられない法=権利システムの新たな模索は、さまざまなレヴェルですでに始まっている。国民国家の限界を知らしめてくれる人権は、ケアの倫理とともに、これまで否定されてきた希望をもう一度夢みることを、わたしたちにも要請しているのだ。

ケアから人権へ

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