『シンコウ』論



風呂場でふと、

私の『信仰』がただの『憧れ』だったと、

初めて気づいた話。




少し生半可な知識で宗教に触れなくもないので、
苦手な方はお気をつけくださいませ。





私は人間になる前、
宗教に苦しめられた人間と一緒にいた時期がある。
そんなことはすっかり忘れていて、
この人生では特に深い理由もなく、
家から遠いとかいうくらいの理由で、
高校はミッション系に通っていた。

すっかり忘れていたけれど、
長い時間生かされてきた私はなんとなく、
『神』とは?
という疑問を強く持っていたらしい。

聖書の先生に、
「なぜ神を信じるのですか」
とお手紙を出したことがある。

授業中起きているタイプでもなかったし、
少し驚かれたように思う。
そりゃそうだ。

そのこともすっかり忘れていたのだけれど、
今さっきふと思い出した。っていう話。



私はあの人間のことをあまり覚えていなくて、
別に特段親しかった訳でもないのだと思う。
ただ、「布教」と簡単に言う割には、
「信者」という言葉に苦手意識を持っていた。
それくらいの薄い記憶はあった。たぶん。



しかし、人間になってからやたらと長く感じるようになった年を幾つか重ねていく中で、教祖ネタをしている人物を好きになった。
自分でも不思議なくらいストンと、
私は教徒を名乗るようになった。

『信仰』と呼ぶにはぬるく、
ただそう呼んでも嫌な気持ちにはならぬような。



さて、私は所謂推しがたくさんいるオタクだが、
どの推しにも基本的に嫉妬心を覚えるタイプである。
嫉妬や羨望。がある自覚がある。

しかし恐らく私は、
「目指す対象であること」
「自分もそうなりたいと思うこと」
を『憧れ』と呼んでいたのだろう。

いや、そうでなければ「憧れている」なんておいそれと言えないと、そう思っていたのだろう。


私の推しは多くが男性アイドルである。

私は推しになれない。
なることが出来ない。
それは私の力量に関わらず、
性別的になることができない。

それはある意味で私の救いであった。
故に私はそれを『憧れ』とは呼ばなかった。



しかし、『男性アイドル』になれないのであって、
その枠を飛び越えた推しができれば、
その前提は成り立たなかったのかもしれない。

まして、私は、
同じ土俵ではない。
私は高みを目指していない。
という言葉で煙に巻いていたが、
されど私は『VTuber』である。

そうなってしまったのは、
他でもない自分が決めたからだ。




私は推しになれない。

それは諦めというには爽やかで、
決して悲観的な意味合いを持たない。

いつだって私がなりたいのは、
「そういうひと」
ではなく、
「それそのひと自身」
なのだから。

私は推しになれない。




でも、

「なれないもの」も『憧れ』と呼べるらしい。


誰かに聞いたわけでも諭されたわけでもなく、
シャワーを浴びながら、
「私の信仰は__________________」
と、ふと、

なんだ、これ、ただの憧れじゃないか。

と気づいてしまった。
むしろなぜ今更そう思えたのかはわからない。
何の気なしに、ふと、思った。
その「思った」は、
当たり前に「気づき」であると、
なぜだかそう思った。





聖書の先生は、確かあの時、


「人それぞれだとは思うけれど、それがなくては生きていけない、とか、盲目的に信じる、ということではなく、道標のようなもの。自分が歩く時に、どの方向に歩けば良いかを教えてくれる目印のような存在だと私は思っています」


と、そんなようなことを言っていた気がする。
その時の手紙は、多分どこかにあるのだけれど。

聖書の授業の大半を寝ていたような私が、
細かいニュアンスは違うかもしれないけれど、
それでもこれだけは、
手紙を見ずともずっと覚えていた。




私は5年以上前から、
『神』が『道標』だと知っていた。
それは、目指すもの
とも言い替えられるのではないか。

ともすれば、それは、
『憧れ』にも近しいものなのかもしれない。




私は多神論だし、
どちらかというと無神教に近いような、
いや、そりゃあいるだろうが、
だからと言って何をしてくれる訳でもないと。
あまり神という存在に意味を持っていない。
故に先生に問いを投げかけたのだと思う。


私案外あの先生に大切なことを聞いていたんだな。
しかも、珍しく能動的に。
自分から大切なことを聞き出していたんだな。








『憧れ』って高尚なものだと思っているし、
それを目指さねば成り立たないと思っていた。
でも、この信仰が『憧れ』だと気づいても、
それを目指したいとは言えないし、
なれるとも思わない。

私の『なる』は、それそのものなのだ。
たぶん。
成り代わると同義でなければ無と同じなのである。


でも、
そのひとはそのひとだからそのひとなのも、
私は私だから私なのも、
あまりにもわかっている。
だからなれないのだ。なれない。
なりたくない訳ではない。
でも自分が自分である事を憎んでもいない。
それは両立するものなのである。
少なくとも私の中では。


そして、何って、
自分が自分であることに意味を覚えたのも、
私は私だから私だと、
それを好意的に捉えられるようになったのも、
つい最近のことである。

それらも全て、
推したちの功績なんだよなあ。
と、私は私の趣味嗜好を誇りに思える。

今は。





苦節数百年、
いや、この人生23年。
今初めて「憧れ」をその身に認めた。





なんだかすごく泣きたくて、
ストンって落ちた時に、
無性に泣きそうになった。

私は素直にはなれないので、
そう簡単に口には出せないけれど、
それでも人間してりゃ日々、
微々たる変化でも、
重ね重ねて成長していくのだなと思う。



信仰、進行、侵攻、振興。

同音異義語が好きすぎて、
意味無く片仮名にしてしまった。



なんにせよ、まあ、悪くない人生だ。
最高だ、ね。

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