時の何かを知らない

一昨年から昨年にかけて書いた小説。原稿用紙142枚。縦書きPDF


一 集合

 捜索は三月のある土曜の昼過ぎに始められた。
 その日はよく晴れていた。南風がやや強く、日向にいると暖かく、薄手のコートでも着ているとじんわりと暑さを覚える程であったが、日陰に入るとやはり時節並に肌寒く感じられた。
 その日、昼過ぎ、四人は校門を待ち合わせ場所としていた。
 まず現れたのは修二であった。学校は丘の上にある。自転車通学の生徒の多くは、よほど急いでない限りは、その決して長くはないが決して緩やかではない上り坂を自転車を押して歩いて上るのだが、それを修二は全速力で漕ぎ切った。そして集合時刻よりもかなり早く現れた。彼はコートではなくジャケットを羽織っていたが、かなり汗ばんだ。
 校門から入ってすぐのところに、腕や角や尻尾の付いたようなデザインの高さ三メートル程の時計が立っていて、時計は十分前後ほど早く進んでいる(日によって進み具合が違うという噂もある)。教員に訴えるとどの教員も決まって「十分前行動の実践のためだ」と笑いながら、あるいはわざとらしく真面目な顔で答えたが、実際には、時刻を合わせる手順が難しいか、面倒なのだろう。慣れてしまえば、日によって進み具合が違うという噂を鑑みつつ、十分程度差し引いて読めばいいわけで、入学後数週間もすれば生徒らにむしろ余裕を感じさせもし、ゆったり靴を脱いでいたら鳴り出したチャイムに慌てるといった新入生が大勢現れる。さらに数週間もすれば、ほとんどの新入生はもうその時計を見ることがなくなる。そして時計は時計としての役割を忘れ去られ、新入生が新入生と呼ばれることもなくなる頃にはその奇抜なデザインも目に馴染み、やがて存在も忘れ去られる。
 その時計を、息を切らしながら、修二は見上げた。ふと顔を上げるとそこにあったのだった。そういえば時計があったと彼は思った。時計を見、早すぎたと考えたのは、その時計が十分程早く進んでいるということを思い出す前だった。息をゆっくり整え、腕で額の汗を拭いながら、時計にまつわるいろいろな話を思い出して、口元を緩めた。そして、やはり早すぎたと、再び考えた。早く来るつもりではいたのだが、それにしても早すぎた。
 風がどこか狭い隙間を通り抜けたり何かを揺らしたりする音がした。学校を取り囲む森の枝葉のざわめきや小鳥の鳴き声がした。
 やがて汗はひいた。
 朗人と和葉はいつものようにたわいのない話をしながら自転車を押して坂を上り、集合時刻の十分前に着いた。校門を入ったところでまっすぐ背を伸ばし校庭の方を見つめて突っ立っている修二の姿を見つけ、二人は忍び笑いをし、それから朗人が声をかけた。
「早いな」
「早すぎた」
「違うね、気合いの入り方が」
 二人は自転車を駐輪場に置き、修二のあたりに再び戻ってきたが、それ以上言葉を交わすことはなく、四人目、美咲を待ち始めた。
 朗人は腕時計を見た。入試で使うからと新しく親に買ってもらったものだ。時刻はちょうど一時になろうというところだった。ちら、と朗人は修二の方を見た。こちらに背を向けて少し高いところを見つめる修二の表情は朗人には見えなかったが、その背中には、どこか見る者を緊張させる感じがあった。
 また少しして、朗人は手首の角度を変えて、こっそりと腕時計を見た。一時を二分過ぎていた。そっと溜息をつき、何となく腕時計のベルトを一つ緩めて、手は上着のポケットにしまった。和葉は、朗人が腕時計を見て溜息をつき、ベルトを緩める一連の仕草を、やはりこっそりと視界の端に見ていて、つられて自分でも腕時計を見た。
「あ、もう一時過ぎてるじゃん」
 和葉の声は日常的な声量であったが、朗人はその声が学校中に、学校のある小高い丘全体に響き渡ったように感じた。和葉も同じように感じて驚いた。その土曜日は部活動も何もない日で(無論、そういう日を選んで彼らは捜索を行ったわけだが)、ただでさえ過疎化の進む町の外れの小高い丘の上の高校近くまでやって来るような人間などありようもないのだが、それでも、通報などされてしまえば何もできなくなってしまうから警戒はしなければならないと、話はせずともそういった認識を共有していた朗人と和葉はいくらかどぎまぎしたが、修二は、特に気にしなかった。いくら大声を出したって聞く者のいないことを当然のことと考えていた(実際には考えてさえいなかった)というのもあるが、最大の理由は、他に気にすることがあったからだった。
「遅刻だな」
 修二の声は低かった。その声を聞いて和葉も朗人も、彼の不機嫌さがどれくらいのものかわかった。そうだな、と朗人は小さい声で言った。修二の性格をよく知る二人は、不機嫌な彼に刺激を与えることの危険もよくわかっていた。しばらく彼らは声を出さず、腕時計を見ることさえしなかったが、やがて退屈した和葉は朗人に小声で話しかけた。
「朗人、ちゃんと勉強してるの?」
 朗人は少し笑って首を振った。和葉は顔をしかめた。
「来年も落ちる気」
「いや……和葉は? なんか、テスト受けなきゃいけないんでしょ。英語の。トエック?」
「トーイック」
「大学生になっても勉強しなきゃいけないんだな」
「当たり前でしょ。何しに大学行くのよ。そんな考えだから落ちるんでしょ」
 朗人はまた少し笑って、視線を下げ、足下の雑草を、元々は白色だったスニーカーの先でいじった。既に三年近く履かれているものだが、それを見て和葉はまた文句をつけてしまいそうになり、しかし飲み込んで、視線を下げたまま黙った。二人がうつむき、会話は途切れ、再び修二の不機嫌が存在感を増した。
「朗人、今、ほんとは何時だ?」
「え?」
「時間」
「一時十一分、十秒くらい」
「わたしの時計だともう十二分」
「美咲、遅いな」
「まあ、伊佐の遅刻には慣れてるけどね」
 そう言って朗人は笑ったが、修二は笑わなかった。
「落合、悪いけど、美咲に電話してみてくれないか?」
「え?」
「美咲に」
「え、うん、わかった」
 和葉は露骨に怪訝な表情をし首をかしげたが、言われたとおり、コートのポケットから携帯電話を取り出し、美咲の番号知ってたかな、と呟いた。俺知ってるよ、という朗人の言葉は無視して黙って携帯電話を耳にあて、やがて話し始めた。
 今どこ? え? いやもう遅刻してるよ。当たり前じゃん。うん。急いでね。電話先で美咲は、やや早く歩きながら、久々の和葉とまだいろいろと話したいことがあったのだが、和葉は、うん、うん、ふーん、そう、と何度か相槌を打ったあとで、とにかく早くね、走って走って、と電話を切った。
「和葉、スマホにしたんだな」
「え、うん」和葉はピンク色のそれをポケットにしまう。
「便利?」
「普通」
「やっぱ大学生だと、スマホじゃないとだめなもんなの」
「そんなことないでしょ」
 そうか、と朗人は笑顔を浮かべる。少し暑さを感じ、和葉はコートのボタンを外す。
「落合」
「ん?」
 修二は不機嫌を隠して努めて明るく話しかけようとしたのだったが、努めてそうしていることは話しかけられた和葉にも、聞いていた朗人にもわかった。
「美咲、なんて言ってた?」
「え、遅れるって。謝ってたよ。寝坊したみたい」
「寝坊? 昼まで寝てんのか、あいつは」
「まあ、春は眠いよね。春眠暁を覚えず」
「遠藤は年中眠いでしょ」
「和葉、今日、俺に対していつもよりきつくないか?」
「——ああ、そうかも」
「カルシウム不足、運動不足」
「いや、久々に遠藤の顔見たらストレスが」
「俺、別に悪いことしてないけどな。顔も悪くないし」
「何もしてないのがストレス。また落ちるよ」
「落合、朗人は落ちたばっかだぞ、優しくしてやれよ」
「いやいや。そうやって甘やかすから」
 表面上はこのようにたわいのない会話を続けたが、和葉は内心動揺していた。いつもよりきつい、と言われたからだった。そんなつもりはなかったのだが、言われてみれば、確かにそうだった。何がそうさせるのか、何となく思い当たることもあり、冷静さを装いながら髪に触れ、指で梳いた。緊張したり、迷ったり、落ち着かないときに、自身の髪の毛に触れるという癖が和葉にはあったが、そんな癖を意識しているのはおそらくは世界に誰一人としていなかった(あるいは、彼女の母親くらいのものだった)。
 美咲は結局三十分程遅れて到着した。到着するなり、手を合わせ頭を下げ目をぎゅっとつぶり、申し訳ない! と、よく通る声で言った。
「昼過ぎの待ち合わせでも寝坊するのね」
 その頃には和葉も美咲の遅刻に対して相当にストレスをためていて(実際には遅刻に対してだけではなかったのだが)、言い方もとげのあるものになった。ごめんはーちゃん、と美咲は今度は和葉の方を向いて、手を合わせ目をぎゅっとつぶって言った。
「まあ、春は眠いもんな」
「眠いーまだ眠い。走ったのに眠いわ。ちゃんと走ったよ? 坂は歩いたけど。てか朗人くんは間に合ったわけ?」
「なんとかね」と朗人は答えた。
 久々に走ったわーでも意外とまだ走れるわー、と言いながら美咲は修二と目を合わせられなかったし、修二も同様だった。それは諸々の事情で互いに気まずさを感じていたからだったが、朗人も和葉もそれには気づかなかった。一方で美咲と修二は、相手が自分に対して気まずさを感じて、目を合わせないようにしているということを、あるいは目を合わせられないでいるということを、かなり意識していた。
 さて、と修二が声に出した。修二が美咲の遅刻について何も言わなかったことに朗人と和葉は少し驚いた。さらに言えば、その声が少し震えているように、確信はなかったが、朗人はそう感じもした。事実として、さて、と言ったとき、修二はいくらか動揺しており、それは確かにその声音にも影響を与えていた。人の気づく程のふるえではなかったが、朗人はそれを感じ取ったのだった。しかしそのことはすぐに忘れられてしまった。


二 本校舎の捜索(赤井修二の記述)

 俺の「さて」という声に三人が振り向いた。
 心臓が高鳴っていた。それを紛らすために声を出したというところもあったが、三人に視線を向けられ(確かに美咲もこちらに目を向けてはいたが、その目はおおよそ数十センチ俺からずれたところに向けられていた)、後悔し、余計に鼓動は速まった。
 意識してそうするのではないのだが、美咲の目を見ることができなかった。美咲は美咲で、どう考えているのかは知らないが、やはり俺と目の合ってしまうことを避けているように見えた。その奇妙な緊張が、鼓動を速める。顔が赤くなりそうな感じさえあった。
 遅刻してきた彼女に、何か言ってやろうと思っていたが、何も言えなかった。遊びじゃないんだと、そういうようなことを言いたかったのだが、目を合わせることのできないことへの戸惑いに、むしゃくしゃした思いはまったく塗りつぶされてしまった。それに、言葉をかけてしまえば、何かとんでもないことまで話してしまいそうな感じもしたのだった。
「始めるか。揃ったし」と俺はなんとか続けた。
「そうね」と間髪入れずに落合が答えた。落合はその日はどうも機嫌が悪く見えた。落合と朗人は、いわゆる、けんかするほど仲が良い、というような関係で、小学校に入る前からの幼なじみだと聞いているが、確かに、いつも互いに――いや、いつも、基本的には落合が朗人に文句を言い、朗人はへらへらしていて、時々賢しい口答えをしてさらに落合をいらつかせる、そういう関係の二人ではあるのだが、その日はどうも、落合の朗人へのあたりが、いつも以上にきついように見えた。朗人もそう感じているらしく、美咲を待っている間にそういうようなことを当の落合に伝えていたが、落合は受け流していた。案外本当にカルシウム不足か運動不足だったのかもかもしれない。あるいは、美咲の遅刻に、落合は落合で怒りを抱いていたのかもしれない。
 探す――いざ四人揃って、もちろん、捜索をするということだけは決めていたのだが、どういう風に探していくかは考えていなかったことに気づいた。三人はただ俺を見て、厳密には美咲は俺を見ていなかったことは既に書いたが、三人はただ指示を待っていた。これもまたいつもどおりだったと言える。部長だったこともあり、元来リーダーになりたがる人間でもあり、何人かで集まれば自然とこういう形に、つまり、俺が仕切るような形になった。部長というのは、本筋にはあまり関係ないが、四人は高校の三年間――厳密には高三の夏に引退するまで、陸上部に所属していて、俺は部長だった。落合は副部長だった。本筋には関係がないと書いたが、しかし、四人が同じ部活であったというのは、もしかしたら本筋に関わることかもしれない。しかし、後々必要そうだからと言って、今から説明しすぎると、俺の文章だけ説明ばかりだということになってしまう気もする。三人はおそらく、説明、つまり、読者への配慮、をする気がないだろうけど、必要なことはさすがに書くだろう。
 三人に見つめられながら、落ち着け、と心の中で呟いた。その無意味さはよく知っている。たとえば走り出す前、俺は落ち着こうとは決してしなかった。そう後輩にも指導してきた。落ち着こうと思えば落ち着かなくなる。むしろ緊張を意識する、もっと緊張してやろうと思う、そっちの方がうまくいくのだ。しかし、そういうことを考える余裕さえも失って、落ち着こう落ち着こう落ち着かなければ、と頭の中で唱え続けた。
「まあ、やることはシンプルで、探し、見つけ出すことだね」
 朗人がわかりきったことを言った。しかしありがたい。そのとおりだ。やることはシンプルだ。
「あてもなく」と落合が続けた。
「この学校も、あてもなく探すとなると広いよね」
「しらみつぶしにやっていくしかないでしょ。本気で見つけるなら」
「なんだっけ、海から涙を探す、みたいな」
「なにそれ」
「え、なんか、そんなことわざ? 慣用句? なかった?」
「海から涙を探せるわけないじゃん」
「だから、広いとこから小さいものを探すことの難しさを言う言葉よ。比喩よ」
「いや、にしても、海から涙は、不可能でしょ。え、だって、混ざるじゃん。全部海じゃん」
「でもそんな言葉あったよな。砂浜から針?」
「え〜海だよ。海から針かな」
「ふーん。わたし知らないな。聞いたことない」
「じゃ海でいいか」
「でも、この学校はどっちかっていうと砂浜、砂漠?」
 三人のしょうもない話を聞きながら、深い呼吸を静かに繰り返し、美咲を見ないようにしながら、鼓動を抑え、思考を捜索に集中させた。
 三人のしょうもない話のとおりで、探すといっても、あてがない。この学校の、どこかにあるのは間違いないが、しかし、海や砂漠ほどではないにしても、狭くはない。
「……とりあえず、本校舎からだな」
 三人に聞こえるように言って、俺は振り返り本校舎を見上げた。
 そしてその大きさに、圧倒された。俺たちが、三年間の多くを過ごした校舎。この校舎は、これほどまでに大きかっただろうか? その時思い出したのだが、入学したとき、校舎は大きく感じられた。事実として中学の校舎と比べれば高校の本校舎は一回りも二回りも大きかった。しかし、通っていると、この校舎もなんとなく、小さく狭く感じられるようになった。奇妙なことだが、校舎中を歩き、知らぬところがなくなり、慣れてしまうと、空間は縮んで感じられるようだ。しかし、その時は、とにかく大きく、圧倒的だった。事実として、あたりまえだが、校舎が大きくなるはずはなく、それはわかっているのだが、異様に、校舎が、どこか生命を持って自分を威圧しようとしているような、そういった大きさを感じた。慣れた校舎が、どこか、自分を拒絶しているように感じた。
 心理的なものだろう。あてのなさもそうだし、なにより卒業という言葉、卒業の儀式が、それほどまでに、そこに通っていたものをそこから切り離したのだ。今はそう考えることができるが、とにかくその時は、圧倒され、再び言葉を失ってしまった。そしてまた、口を開いたのは朗人だった。
「まずは、とは言うものの、ここだけでも大変そうだね」
「やるしかないでしょ」と間髪入れずに落合が応じる。
「手分けするか」
「そうだな、俺と――」
「じゃあ、俺と和葉で上から、お前らで下から、って感じかな」
 思わず朗人を睨んでしまったが、朗人の方はへらへら笑っている。いや、配慮であることはわかっている。わかっているのだが、もう少しで舌打ちをするところだった。
 言葉だけで説明するのは難しいのだが、他の三人はこういう説明が必要であることに思い至らないように思い、学校の地理を記しておく。校門から入って、右手に体育館があり、右奥に校庭が広がっていて、左手に本校舎が奥に向かって細長く建っていて、体育館と本校舎は一応渡り廊下と呼ばれるものでつながっている。校舎と校庭の間、校門からまっすぐ渡り廊下を横切って進むと教職員の使う駐車場があり、奥に武道場がある(そういえば、二日間、武道場は捜索しなかった)。駐車場と校舎の間には花壇があり、武道場と校舎の間には木々が生い茂っている。左手に校舎と書いたが、本校舎よりも手前にはやはり森の影になった細長い駐輪場があり、その向こう、本校舎の向こうには、やはり本校舎と渡り廊下でつながる本校舎より一回り小さい新校舎と、旧校舎と呼ばれるのっぽの建物があって、この田舎町とその周辺に十代の人口が多かった頃はクラスルームがあったらしいが、今では部室棟として使われていて、教師の目が届かず、荒れ果てている。とりあえずこんなものだろう。
 四人は校舎の裏に回り、金曜日、こっそり鍵を開けておいた窓に向かった。本校舎一階端の家庭科準備室の窓で、鍵を開けても閉めっぱなしにしておけば窓を閉めて回るおばさんもチェックしないだろうと、確信という程ではなかったが、結果として開いていた。廊下へのドアの鍵は閉まっていた(内からも外からも開けるには鍵が必要な扉だ)が、それは想定通りで、なにやら髪留めを加工した道具で朗人が開けることになっており、一分程で開けてしまった。話によれば、よくわからない話なのだが、朗人と落合の通っていた中学では、南京錠やこういう古い鍵を鍵無しで開ける技術は、運動部の男子の必須教養だったらしい。
 窓枠を越え、四人、無言でバッグやビニール袋からそれぞれに汚れた上履きを取り出し、履いた。
 朗人と落合が、じゃあ、と言って廊下に出ていった。二人が部屋を出て、俺たち――俺と和葉は、さっそく、家庭科準備室の捜索を始めた。そんなところにあるはずがないと、第三者はそう考えるだろうが、俺たち四人としては、本当にまったくあてがなく、推測もできなければ、勘を働かせることもできなかったのだ。文字通り片端から、反対の端まで、あらゆる場所を探していく。口にはしなかったが、おそらくは四人皆そのように心を決めていた。
 家庭科準備室には左右に棚があり、一方には巨大な炊飯器や量りが数台、引き出しを開けるとあまり見かけぬ調理器具、一方には裁縫道具や生徒用でない特別なミシンや、やはり用途のわからない道具類、中央にテーブルが一台あり、その上にはなにやら縫いかけのカラフルな布が乱雑に積まれていたりする。それは裁縫同好会の人間のものだ。昨日の夕方、部活動も終わる頃に訪れたときにも彼らは活動していて、場合によっては彼らが去るまでどこかで息を潜めなければならないところであったが、偶然(とはいえ、生徒会や文化再実行委員会や美術部や漫画同好会やその他、あちこちに顔を出していた美咲には知り合いが多く、偶然というには可能性は高いのだが)にもその中に美咲の知り合いがおり、助かったのだった。
「あ、美咲先輩~、どうしたんですか?」
「〇〇(思い出せない)ちゃん~! もう卒業しちゃったけど、学校見学してるの~」
「え~卒業しても来てくださいよ~」と二人が手を握りはしゃいでいる間に、朗人と和葉が他の生徒の作品のようなものを見てなにやら話しかけているうちに、俺は奥の窓の鍵を開けておいた。そして裁縫同好会員たちは気づかず、開けっ放しにしてくれたようだ。そして鍵を閉めてまわるおばさんも気づかなかった。この部屋の鍵は入り口のドアまで含めて裁縫同好会員の責任なのだから、仕方のないことなのだが。
 探す。引き出しを開け、用具を取り出し、奥を覗く。机に乗り、棚の上を見る。
「あるわけないよね」
 ぎくりとして振り向くとテーブルの上の俺を美咲が見上げていた。目が合いかけ、俺が視線をそらす前に、美咲は向こうを向いて捜索に戻る。
 テーブルを飛び降りて、なさそうだな、と呟く。そうだね、と美咲が答えたが、そう答えたとき、彼女の視線がどこにあったかはわからない。視線を合わせないまま、準備室から家庭科室に入る。
 美咲が机の下や引き出しを見て回る。俺は棚を開き、皿の裏をのぞき、離れて棚の上をざっと見る。段ボール箱を見つけ、椅子を一台引っ張ってその上に乗り、案外軽いそれを美咲に手渡し、美咲は「けむっ」と言って顔をそむけながらそれを机にのせる。椅子から降り、開けてみるとカーテンのような広く厚手の黒い布が入っている。押し、裏側に手を入れ、折り目に手を入れる。美咲はじっとそれを見ている。
「ない。次の部屋だな」
 俺が段ボールを上に戻す間、美咲は机の上の埃を払った。家庭科室を出ようとドアに手をかけ、鍵の閉まっていることに気づいて鍵を開き、そこで俺たちは各部屋の鍵を持っていないことに気づいた。
「そういえば鍵持ってないじゃん」
 美咲が声を出して笑った。つられて笑みを浮かべ、なぜか恥ずかしくなって、つい手で口元を隠した。
 職員室に行かなければならない、と思った矢先、遠くで階段を降りる音がした。それにも心臓が鳴ったが、降りてきて廊下に現れたのは朗人だった。
「どうした?」声は廊下に響き渡った。
「鍵、ないだろ」そう言いながら、木板のついた鍵をいくつも持ち上げてこちらに見せた。
「おお~気がきく!」美咲の声が響いた。朗人はいかにも得意げに走ってきた。後ろにいた美咲が俺よりも少し前に出て、両手を差し出したところに朗人が鍵をどさりと置いた。
「ありがと〜。どこの鍵があんの?」
「一、二階分だよ。保険室、職員更衣室、家庭科室、まあ、書いてあるから見て」
「ありがと〜。どう? ありそう?」
「いや、まったく。でも、探すしかないからな」
 そして、じゃ、と言って朗人はまた走って戻った。
 美咲は黙って鍵を俺に差し出した。俺は黙って受け取った。
 それから一階を探して回る間、俺と美咲は一度も会話しなかったし、一度も目を合わせなかった。黙々と机の引き出しを覗き、棚や用具入れの上を仰ぎ見、備品をひっくり返し、正体不明の箱を開けては正体不明の何かに出会い、その間、二人で協力することはあっても、話をしたり、目を合わせたりすることはなかった。
 なぜ目を合わせられないのだろう?
 予感があるからだ。
 美咲がどう考えているのかは知らないが、予感があった。つまり、目を合わせてしまえば、どうしても、彼女のその大きな瞳は、俺に話すことを強いるだろうという、そういう予感だ。話すことを強いる。俺は話し出してしまうだろう。あれから考えたことを、不器用に、いや、案外冷静に話してしまうかもしれない、何度も何度も、何時間もかけて考えきったのだから、ともかく、あれから考えたことを、つい話し出してしまう気がするのだ。あれから考えたことの中には、美咲に向けられた言葉もあった。そうでなくとも、伝えることには意味がある。伝えることによって誤解を解いたり、理解を深めさせたり、共感を抱かせたり、あるいは反対に、もう俺とは完全にわかりあえないのだというような確信を深めさせたり、どのようなものであれ、俺のあれから考えたことを美咲に話してしまうことは、美咲に少なからず影響を与えるはずであって、そういう意味で、伝えることには意味がある。しかし、俺の考えたことを、美咲に伝えることはしまいと、思考の果てに、そう決めたのだ。しかし、彼女のその大きな瞳を直視し、そこにわずかでも憂いや、不満や、期待(ありうべくもないが)、何でもいい、何らかの感情が感じられてしまえば、俺は、きっと、話し出してしまう。ぽつぽつと、あるいは、蕩々と、それは予想できない。彼女の瞳を直視して、今この俺がどういった気持ちになるのか、それは予測できない。けれども、何にせよ、話し出してしまう、伝えようとしてしまう、そういう、予感があるのだ。確信と言ってもいい。
 階段を上り、二階に上がっても同じ調子だった。二階にはクラスの教室もあって、学年が変わるというのに残された私物も多く、捜索は一階以上に骨の折れる作業となった。美咲は俺の指示どおりに動いたけれど、返事も頷くくらいで、会話らしい会話は一度もなかった。
 職員室に差し掛かる頃には、俺はもう頭の中で、美咲に話したいことはほとんど何でも話してしまっていた。それらをここに書くつもりはないが、まとめてしまえば、悪かったのは自分だし、それはわかっているのだけど、悪かったというのは事前に話をしなかったというその一点で、二人の仲がこのような状態になってしまったのは、美咲が事を必要以上に大げさにしているからで、そうすることが美咲にとって必然なのだとすれば、それならば、一度距離をおく必要があると、そういったことを、探しながら俺は考えていた。けれどそんなことを美咲に実際に言うつもりは、繰り返しになるが、まったくなかった。自分が悪者でいい。このままわかれてしまうとしても、それはもう仕方のないことなのだとして、受け入れる準備を俺はもう十分にしていたつもりだった。
 職員室の捜索はさすがに気が引けた。それでも机の下を覗いたり、机の上を見て回ったりはした。職員室は想像していたよりも整っていた。それもやはり異動があったりするからなのだろうが、自分の知っている普段の職員室はもっと雑多として、見た目にもせわしない空間だった。
 ふと見ると美咲はある机の上をじっと見ていた。
 近づいてみるとそれは旧三年C組の担任の席で、机の上には写真が一枚、俺たちの集合写真が一枚、置いてあった。
「わたしたち」
 美咲が俺に言った。
「忘れ物か? 変だな」
 実際、それは奇妙だった。書類も何も置かれてない、ほこりの一つもなく、何もかも整理された机の上に、写真が一枚。まるで誰かが見ることを、いや、俺たちが見ることを待っていたかのように思えて、気色悪くさえあった。
「わたし、機嫌悪そうじゃない?」と写真を見ながら美咲は笑って言った。
 真面目に探してくれよ、と返事をして、机から離れ捜索に戻った。
 そして、次に振り返ったときにはもう美咲はもういなかった。
 一人残された俺は、途方に暮れた後で再び旧三年C組の担任の席に戻り、写真の美咲を見、その瞳を見た。確かに不機嫌そうだと思った。


三 本校舎の捜索(落合和葉の記述)

 私は文章が下手だと思う。自己紹介じみた書き出しになってしまうけど、私はド理系で、それは言い訳にはならないけど、だから、国語は苦手だし、文章を書くのは、嫌いで、だから、上手ではないだろう。読みにくい文章になると思う。考えてみれば、上手い下手を判断する能力もないだろう。とにかく文章を書くことが苦手で、嫌いなのだ。中学生の頃に嫌いになった。言葉は出てこず、白紙の原稿用紙を見つめていると、今はパソコンだけれども、白いままの画面を見つめていると、頭が痛くなるばかりで、言いたいことはあっても、どこからどこまでどう書けばいいかわからない。この文章を書くことになったとき、無理だ、と朗人に相談したら、彼は、まず「書けない」ということについて書いたらいいと言った。正確には、そのようなことを村上春樹が書いていたと朗人は言った。真偽はさておき(何となく、朗人のその手の話は信用できない)、そのとおりにしてみたら、確かに意外と書けている気がする。四一五字? おおよそ原稿用紙一枚だ。なんとか、この勢いのまま、書けないなりに書いてみる。

 捜索の日のことを書く。私は、朗人と捜索を始めたときのことから書き始めればいいらしい。
 私と朗人は四階から探すことになった。私と朗人で探すことになったのも、四階から探すことになったのも、そういえば朗人がそのように言ったからだった。修二と美咲、私と朗人という分け方のワケはだいたい想像できて、本人としては気をきかせたのだろうけど、今思えばやはり大失敗だったのだと思う。今思えば、別に二人組でなくてもよくて、まあ、他の分け方は、四人ばらばらに探すという他になく、別に今更文句があるわけでもないのだけど、しかし、何となく釈然としないところもあって、だからこうしてわざわざ分け方について書いているのだけど、なぜ釈然としないのかは、わからない、というか、自分のことながら、自分のこの釈然としなさの理由を、明確にはわからず、けれどもやはり、想像はしてみることができるのだけど、その中身はあまり書きたくない。後で書くことになるかもしれないけど、今のところはその必要を感じないから書かない。
 赤井と美咲と別れてから、四階まで上って、二年生の教室に入った。森の向こうに町が見えた。遠くて自転車が進むのがやけにゆっくりとして見えたが、実際にもやはりそれはゆっくり漕いでいたのかもしれない。そういう町だ。自転車のおじさんが、ちら、とこちらを見たような気がした。もちろんそれはきっと気のせいで、こちらからもはっきりと見えないものを、向こうから見えるはずもないのだけど、何となくどきどきした。
 学期末に掃除されたままの教室は、案外きれいだった。きれいというかさっぱりとしていて、寂しいとさえ感じられた。私物が持ち帰られ(忘れ物というか置きっぱなしというか、私物は結構残っていたが、基本的には、持ち帰られていた)、クラスの掲示物も外されていて、しかしそれだけが理由ではないと思う。寂しさは、捜索の間、ずっとつきまとっていた。
 捜索というくらいだから、教室の入り口からぱっと見てわかるような場所にあるはずはなかった。やはり、普通には見えない場所を探さなければならなかったから、私は机の中を見て回り、馬鹿な男子が置きっぱなしにしている教科書を出してみたり、メモかと思ったらただの紙切れだったものを探り出したり、オリジナルのキャラクターやオリジナルでないキャラクターや文句や苗字や数式や図形が書き込まれ刻まれているのを発見したりした。小さく小さくまるめられた紙片が気になって、広げてみるとコンビニのレシートだったりした。机をのぞき終えると、教壇だったり、ロッカーだったり、ゴミ箱だったりを探した。
 教室を出ようというところで、急に朗人が立ち止まり、私はもう少しでその背中にぶつかるところだった。鍵がない、と朗人はぼそっと言った。
「鍵?」
「鍵」
「なんの」
「教室――普通の教室は開いてるけど、準備室とか、絶対開いてないぜ。普段も開いてないんだから」
 そこでようやく朗人の言おうとしていることがわかった。
「家庭科室なんかも開いてないんじゃない?」
「うん。いや、準備室からは入れると思うけど、ちょっと取ってくるよ」
 そう言って朗人は階段を駆け下りた。
「待ってよ」
 そう言って続いて階段を駆け下りると、朗人は踊り場で立ち止まり振り返った。私はもう少しでその体にぶつかるところだった。朗人は少し避けた。
 職員室ももちろん施錠されていた。朗人はポケットから細かな工具のようなものを何本か取り出し、ごそごそと鍵穴をいじった。いじりながら「悪いことしてる気分になるな」と言った。私は笑った。
「してるでしょ」
「確かに」
 そして数秒で鍵を開けてしまった。朗人はそっとドアを開け、私はそっと後ろから覗き込んだ。誰もいないことはわかっていたけれど、何となくそうしてしまった。朗人も同じ気持ちだったのだろう、きょろきょろと中をうかがって、そっと入っていくのに、私もそっと続いて行った。
 鍵の場所は知っていた。いつも体育倉庫の鍵を借りていたから。だから職員室に潜入してしまった後は気が楽だった。
「バレたら警察沙汰だな」
「入学取り消しとか」
「どうかなぁ」
「あ、俺、あいつらに渡してくるから」
 そう言って朗人は一階と二階分の鍵を取る。だから私は三階と四階の分の鍵だけ取った。
「結局同学年になっちゃうかもね」
「和葉だけは逃してやるよ」
「逃げられるわけ?」
「たぶん無理。中三のとき中学に入り込んで警察呼ばれたけど、全滅だった」
「あ、知ってる。卒業式のときでしょ」
「そうそう、逃げられないんだよね、精神的に。強いよ警察は」
 職員室は下にいる二人の担当だ。私たちは鍵だけ取って職員室を出、朗人は下に行き、私は、「三階探しててよ、次B組」という朗人の言葉に従って、B組には行った。教室はがらんとしていて寂しい。探すふりもしないで、朗人の階段を上る足音が聞こえたところで教室を出て、何もなかったよ、と私は言った。そっか、と言って朗人はC組に向かった。
「朗人、勉強してるの」
「勉強て」
「なに」
「母親じゃないんだから」
「はぁ?」
 またいらっとしてしまって、なんとかおさえた。この、いらっとしてしまうのを、何とかおさえようとさっきからずっと思っていたのだった。
「いや、大学行くんでしょ」
「はぁ」
「もったいないよ。せっかく」
「勉強して、何になるんかな」
「はぁ?」
 机の中をのぞきこんでいるときにそう言われ、その暗闇に向かって思わず眉をひそめた。顔を上げ、朗人を見るとだらしなく机に座っている。私の視線に気づき、微笑みを浮かべながらこちらを見る。私はため息をつく。
「そりゃ、まあ、何かになるでしょ」そう言って机の中のぞきを再開する。時にはやっぱり紙の切れ端なんかが入っていて、意味がないことはわかっているのだが、やはり目に入るといちいち確認してしまう。ルーズリーフやプリントの切れ端、破られた一部、意味のわからないメモ書き、意味のわかってしまうメモ書き。
「勉強して、大学行ってさ、知らんけど、うまくやれば会社員になれて、それで、終わり」
「なに、そんなこと考えてるわけ」
「そんなものなのかなぁ。いや、それは、立派なことなんだろうけど……わかんないな」
「いいんじゃない、高校生っぽくて。いや、中学生くらいか。……私もそんなことを思うことはあるよ。別に、やりたいことなんてないし」
「……そんなものじゃないんだよ、やっぱり。別に、会社に勤めるのが嫌なわけじゃないけど、受験勉強してるとさ、目標が大学にあるわけだけど、それがすごく嫌で、こう、可能性を狭めるために勉強してるって気分になる」
「落ちるわけだ」
「そうなんだよ。アドバイスをくれ」
 朗人が立ち上がる気配を感じる。一列を終えて顔を上げると、朗人は窓際の列の机を見て回っている。
「でも、大学って、普通、可能性の広がるものじゃない?」
「そうかね。……大学行って、和葉は、その後どうすんの」
「さあ。それこそ適当に、就職でしょうね。それこそ、うまくやって、会社員になる」
「大学なんか行かなくても、就職できるよ」
「大学行かないと難しいでしょ――大学でないにしても、専門とか」
「僕もさ、大学に行けば、可能性ってのは広がるものだと、そう思ってた。大人はみんなそう言ってくれるから」
 「大人は」――子供じみた言い方だ、と思うけれども、でも、やはり、子供だろう、私たちは、まだ。許されないということはないはずだ。ここにもなさそうだな、と言って朗人は伸びをする。私は教卓まで歩いていき、のぞき込んで、何も入っていない。教壇から離れるとき、黒板に服がすれた。反射的にすれた箇所を見てみたけれど、春休みの黒板は真っ黒で、チョークの粉も付かない。
 隣の教室。何も違いがない。また端の机から見て回る。引き出しをのぞき込んで、セックス、という文字とハートマークが黒のペンで書いてあるのを見つける。高校生にもなって、こんなこと書くか? 中学生のうちに……。
「でも、歳をとればとるほど、やっぱり、可能性って、狭まるものだよ」
 まだその話、という言葉を飲み込む。
「一四歳、私の過去は教科書どおり、十六歳、私は過去の無限をこわごわ見つめ、って知ってるか」
「なにそれ」
「詩」
「論語のパクリ? 而立、不惑みたいな」
「違う。いやそうかもしれないけど。谷川俊太郎だよ。十八歳、私は時の何かを知らない。良い詩だ」
「それで」
「時の何かを知らないって、何だろうな。僕は、未来のことだと思うんだ」
「はぁ」
「……考えてみれば、可能性が狭まっていくのなんて当たり前で、というか、可能性ってのは、そういうものなんだよな」
「そうかもね。仕方ない気もするけど」
「仕方ない。そのとおり。いや、春のせいか、センチな気持ちになるね」
「ミニスカートが恋しいわけ」
「谷川俊太郎。あの詩も最高だ」と言って朗人は笑ったが、あれは、何のことやら、よくわからない会話だった。けれどもつられて私も笑った。顔を上げると朗人は向こうから二列目の机の中をしゃがんでのぞきこんでいる。じっと、おそらく何もない闇の奥をのぞきこんでいる。その姿は、十八歳の彼が、彼の言葉を借りれば、狭まっていく未来の可能性に途方に暮れているというよりは、十六歳の少年が、過去の無限をこわごわ見つめている方に近く見えた。
 次の教室。そして四階へ。結果を言ってしまえば、私たちはその日は見つけることができなかった(それは次に書くような事情もあってのことだった)。
 ふぅ、と溜息をつく。ふと顔を上げ、窓の外、校庭に目をやり、その端に何か人影のようなものを見つけどきりとする。窓に寄って見てみるとそれは確かに人間で、その後姿は美咲だった。美咲は背をこちらに向けて、校庭の端で、森の方を見ている。髪の毛が風になびいているのがやけにはっきりと見えた。不思議と目を離せないまま、朗人に声をかける。
「なに?」
「あれ、美咲だよね。何してんだろ」
 向こう側の窓に朗人が近寄っていく。
「伊佐だ。何してんだろ」
「……ねえ、あの二人、うまくいってないのかもね」
「はぁ? なんで」
 ……。それで何となく、美咲のことはもうどうでもよくなってしまった。
「何してんだろうな。物思い?」
「あんたは何してんの。探し終わったの? 何それ?」
「紙飛行機」
 言うが早いが、指先でいじっていた紙飛行機を私の方に向けて、小さな動作でそれを飛ばした。その動きの軽さからは想像できないくらい、すっとまっすぐ紙飛行機は飛んできて、避けようとする暇もなく、私のすぐ手前で落ちた。花弁の落ちるような音だった。白い紙の花。
 落ちた紙飛行機を見届けて、目を上げると視線が合わさっている。
 視線を合わされて、朗人は困った顔をしている――私に怒られる前の顔。
「……好きなんでしょ。まだ」
 思ってもいなかった言葉が、私の口からこぼれる。朗人はもっと困った顔をする。
「諦めてないんでしょ」
「……」
「気持ち悪いよ」
「諦めてるよ——そりゃ、嫌いにはならないけど」
 うるさい、と、もう少しで言ってしまうところだった。出かかった言葉を無理矢理飲み込むのも、朗人はじっと見ていた。朗人はもう、いつもの微笑みを浮かべている。
 聞きたくない言葉を聞いてしまった。言いたくないことを言って、聞きたくないことを聞いてしまった。聞きたくないというのは、それは、わからないままでいたかったという意味で、別に美咲のことを好きなままでいてほしかったとか、そういうことではないのだけど、やっぱりわからないままでいたかったというのは、好きなままなのかもしれないという状態のままであってほしかったということで、やっぱり自分の気持ちは、よくわからない。
 いや、わかっている。書こうと思えば、たぶん、書いてしまうこともできる。私は何かを隠そうとしている。何かを隠そうとして、こんな、右みたいな、変なことを書いてしまう。
 教室を出るとき、朗人は私に向けて飛ばした白い紙飛行機を拾い上げた。私は振り返ったまま何も言わないで彼を見つめていた。彼は一度私の方を見て、今度は思いっきり、大きな動作で、黒板に投げつけるように飛ばした。それは黒板にまっすぐ吸い込まれるように飛んで当たりぼとりと落ちた。

 三階を探し終え、四階にまた戻り、二階まで降りると、修二は校長室のドアを背に座り込んでいた。美咲は、と私が聞くと修二は「帰った」と言った。校庭にいた、とは私も朗人も言わなかった。朗人がどういうつもりでそれを言わなかったのかは私にはわからない。
 痴話喧嘩でもしたのだろうと何となく思う。美咲のあの後ろ姿は、確かに、はっきりと怒りに満ち満ちていた、というのは嘘で、友人たちから、何となく、二人の不仲の話を聞いていたからそう思ったのだった。なんでも修二は東京の大学に行くことを美咲には話していなかったらしい。噂話に過ぎない。修二の性格なら、東京には行かないなら行かないときっぱり決めるか、行くなら行くで行くときっぱり言ってしまうか、どちらかだ。黙って東京に行くことにするというのは、修二にしては変な話だ。それに、修二が東京の大学に行きたがっていることは私も朗人も、それなりに仲がいい人たちもみんな知っていたから、美咲にだけ伝わらないとは考えられない。しかし、美咲も知っていて当然だと思っていたから、そんな話を私は確かに彼女にしなかった。だから、絶対に知っていたはずだ、という確信があるわけでもない。……正直、そこまで興味もなかった噂話だったけれど、あのとき美咲の後ろ姿を見て、今更ながら少し気になり始め、日曜に確かめたのだけれど、それについては、今書くことではあるまい。
 まだ日が落ちるまで時間があったけれど、美咲も帰ったことだし、今日の捜索はここまでにしようということになった。修二が率先してそのようにした。今日一日で本校舎だけではとても間に合わないのではないかという気もしたが、言わなかった。
 たぶん私は、本気で見つけ出そうとはしていなかったのだ。


四 朗人と和葉の帰路、修二の説得

 朗人と和葉は同じ町の同じ学区に育ち、同じ幼稚園を出て、同じ小学校・中学校を卒業した。だから、高校の三年間、行きは大抵別々であったが(それは朗人に遅刻癖があったためでもある)、同じ陸上部に所属していたこともあって、帰りはよくいっしょに帰っていた。 
 その日、捜索の一日目も、二人は自転車を押して並んで歩いて帰った——三年間、多くの場合、自転車を並べてゆっくり漕ぎながら時々言葉を交わし合う程度だったが、時々はこうして歩いて話しながら帰る日もあり、予定よりも帰宅の早くなったその日も二人は歩いて帰った。
「付き合ってるって思われてたの知ってる? わたしたち」
 実際、二人はよくそうした噂の対象になった。特に二年生になってからいっしょに歩いて帰っている姿を見た女子生徒がいて、和葉は散々からかわれた。そして実際にはそうした深い仲ではないことが明らかになってからも、折々冷やかしの対象となった。
「そりゃ知ってるよ」
 それは朗人の方もある程度は同様で、特に女子生徒からそうしたこと——和葉のことをどう思っているのか、付き合っているのか、なぜ付き合わないのか等々と問いただされ、話の種にされた。しかし男子生徒の多くは、そして二人の仲を気にした女子生徒の何人かも、朗人には和葉とは別に、少し冷やかしにくい片思いの相手がいることを察して、だから最後まで和葉ほど冷やかしの対象にはならなかったのだが、それでも、付き合ってると思われてたことがあったことは当然朗人もわかっていた。
 しかし、そのことを二人で話題にするのは初めてだった。
「なんでかね」
「いっしょに帰ってるからだろ」
「そんな変かな」
「別に、同じ方向なんだから、意識する方が変だろ」
 そう答えながら、朗人もなんとなく妙な気持ちになっていた。その日の帰り道の会話には、普段にはないぎごちなさがあった。互いにぶつからないように押していく自転車を押すのにも、普段より緊張して疲れるような感じがあった。
「朗人」
「はい」
「いっしょに帰るの、最後かもね」
「……明日もいっしょに帰るだろ。……美咲みたいなことがなければ」そう言って朗人は笑ったが、それはどこかぎごちないその空気を払拭しようと意識して笑ったのだった。
「じゃ、明日で最後かもね」
「別に、いつもいっしょに帰ってたわけじゃないし」
「幼稚園からいっしょだったけど」
「そうだっけ?」
「そうだよ。幼稚園からも方向いっしょじゃん。いつもどっちかの親が来てさ」
「そうだったか。その頃のことは憶えてないな」
 どんな表情でこんなことを言っているのか、ちらと彼女の表情をうかがった。彼女はまっすぐ前を見て歩いている。
 前から軽トラックが走ってくる。田んぼに挟まれた道は狭く、朗人が自転車を寄せると和葉も黙って自転車を道の端に寄せる。軽トラックが過ぎて、朗人は自転車にまたがってふらふらとゆっくり進んだが、和葉が自転車に乗る素振りを少しも見せないのに気づいて、降りて、和葉が追いつくのを待った。
 どんな言葉を言おうか、朗人は迷っていた。和葉は思いのほか沈んだ表情をしていて、こうしていっしょに帰ることのなくなることが彼女にとってある程度大事であることにようやく気づいたのだった——いや、実際には、彼は薄々、彼女の気持ちがわかっていた。しかし同時に、他人の気持ちなどわかるはずがない、わかってはならないとも思って、その薄々気づいている彼女の気持ちを否定した。しかし、他人の気持ちをわからないままで、生きていくことができるのか、生きていっていいのか、わからない。経験がないから? そんなことを考えながら歩き、普段から二人でいればずっと話しているというわけでもないのだが、普段よりも長い沈黙が二人の間に落ちた。
 どんな言葉を言おうか。
「和葉」
「ん」
「なんで目が前についてるか知ってるか」
 結局、まず朗人の口をついたのは、そんな話だった。
「なにそれ。なぞなぞ?」
「いや、哲学的問題だ」
「はぁ。哲学っていうか、生物学的問題じゃない」
「和葉、何学部だっけ」
「理学部」
「なにするの」
「生物学、かなぁ」
「なるほど、専門家なのか」
「哲学的問題なんじゃないの」
「どうだろ。どう思う?」
 和葉は一応天を仰ぎ——どこまでも水色だった——、髪の毛をいじり考えた。
「前にないと困るでしょ」
 そして、とりあえずそう答えた。
「なんで」
「なんでって、前についてないと、ぶつかるじゃん」と言いながら和葉は電柱をわざとおおげさに避け、朗人の自転車に体当たりした。思いのほか痛かった。
「そうでもないんだな、それが。目が後ろにあるなら、後ろ向きに歩けばいい」
「はぁ?」和葉が眉をひそめる。
「ウサギ飼ってるだろ?」和葉が眉をひそめるのを見て、朗人は慌てて付け足す。
「うん。大きくなったよ」
「ウサギの目は横についてるけど、ぶつからんだろ」
「んん? 今何考えてるんだっけ?」
 あれ、と朗人も首をひねった。
「目、前についてるとも限らないんだな」
「なに、答えのない問いだったわけ」
「問題を絞ろう。なんで、人間の目は前についてるんだと思う?」
「あれ、霊長類って肉食動物?」
「生物学じゃないんだよ。俺が言いたいのはね、目が前についてるんじゃなくて、目がついてる方が前なんだ、ってことなの」
 和葉は眉をひそめ朗人の顔を見つめ、見つめながらはぁぁと深く溜息をついた。朗人は吐き出された息を避ける素振りを見せた。
「つまんなかったか」
「つまんないっていうか、つまんないし、馬鹿らしいし、なに、そんなこと考えて生きてるわけ?」
「いや、そんなに哲学的な人間ではないよ、俺は」
「哲学博士に失礼だよ」
「けど、哲学者の本で読んだような気がするんだよな……」
 田んぼの中の道を抜け、いくらか家の建ち並ぶ通りを歩き始めた。二人の住む町だ。途中で、和葉がコンビニ寄っていい、と聞いた。朗人も自転車を止め、和葉がいろいろと物色している間にアイスを一本買って出た。
「お、いいな」
 出てきた和葉は食べ尽くされようとしているアイスを見て言った。
「今日はもう暖かいね。わたしも買えば良かった」
「……来年行くよ」
 それは、一番安いアイスを舐めかじりながら考えて、やっと出てきた言葉だった。
「どこに」
「大学」
「——東京に行くんでしょ」
「いや、東京にはもう行かない。和葉と同じでいいよ」
「なにそれ。なんで?」
「受験で、東京行ったらさ、行きたくなくなった」
「……なんで」
「来年、後輩になるよ」
「……美咲のことがあったから?」
 それは図星だった。朗人はアイスの棒を捨てにゴミ箱のところへとゆっくり歩いたが、それが図星であった故の反射的な逃避であることが和葉にはわかり、彼女は小さく溜息をついた。
 美咲がいるから?
 わたしがいるから?
 どうにか冗談めかして、笑ってそう聞いてみようと思ったけれど、そのための笑顔を作ることが和葉にはできなかった。戻ってきた朗人はいつもの笑顔で、寒くなった、と言った。
「朗人」
「……ん」
「東京に行きなよ」
「……」
 二人はまた自転車を押して歩き、やがてわかれ道で和葉が先に自転車にまたがった。
「じゃ、また、明日」 

 一方で、用事があるからと先に二人と別れ自転車をとばした修二は駅に自転車を停め、電車に乗った。乗客はほとんどいなかったが、修二は座らなかった。目当ての駅で降りると、走った。
 美咲の部屋は二階だ。見上げると、その窓は思いのほか遠く、中は暗く、一瞬躊躇した。けれど、決めてきたことだった。
「美咲!」
 修二は叫んだ。
 まわりには、というよりも修二の視界には誰もいなかったが、それでも人の目や耳は気になった。けれど、叫ばないわけにはいかなかった。今日は土曜日だ。母親が出てくるかもしれないとも思った。
「美咲ー!」
 けれども、もう一度彼女の名を呼んだ。
 美咲は既に部屋に戻っていて、もう寝てしまおうと思っていたところだった。修二の声はもちろん聞こえたが、はじめは誰の声かも、何と言っているのかもわからなかった。そして二度目の叫び声で、それが自分に向けられていることに気づいた。それから、そんなことをするのは修二しかいない、修二に違いないと気づいた。
「美咲」
 今度の声は、大きな声には違いないが、少し小さめだった。けれども、姿の見えないよう窓に忍び寄って座り込んだ美咲にはきちんと届いていた。『耳をすませば』みたいだと思って密かに笑ったが、窓を開けるつもりはなかった。けれども、彼の言うことはきちんと、彼が話し続ける限りは、聞く義務があると、何となくそう思ったのだった。
「いっしょに東京に来てくれ」
 またか、と美咲は思った。それはメールや電話で散々言われたことだった。
「俺は、美咲のことを、やっぱり、ちゃんと考えられてなかったかもしれない」
 それがわかって、なぜこんなことができるのだろう? 近所づきあいのある方でもないが、それでも噂になるのは間違いなく、今日は土曜日で、たまたま母親はいなかったのだが、母親の耳に入ることもあるかもしれなくて、そんな面倒なことはない。彼氏の話はしたことがあったが、彼がこの家を知っているということにはなっていなかった。知らないし、まして来たことなどもないことになっているのだ。
「でも、考えても考えても……あれからずっと考えてたんだ」
 それは本当だった。東京に行こうと言い、断られ、それから、何時間も何十時間も彼女のことを考えて、こうして再び、修二はこの話をしているのだった。
「俺は、美咲と別れたくない」
「いっしょに生きていきたい」
 なんてことを大声で言えるのだろうと思い、美咲は笑った。彼はそういう人なのだ。少し嬉しくもあったけれど、けれど、やめてほしい、という気持ちももちろんあった。
「でも俺は、東京に行きたいし、美咲」
「美咲がここに残るのは、もったいないと思うんだ」
 もったいない。
 そうなのかもしれないとは美咲も何度も思った。それは、自分にこの田舎はふさわしくないとか、そういうことじゃない。修二といっしょに、東京に出て行って、そこで生きていくという可能性を閉ざしてしまうことは、やっぱりもったいないことかもしれないと、そう、何度も思った。
 けれども、この結論なのだ。
「美咲が」
 大声を出し続けるのは、結構つらかった。息が途切れてきた。けれど、それくらいの声を出していないと、美咲には届かないように修二は思った。
「もし、つらいことがまたあったら」
「俺が、なんだってする」
 それでも、だめなの。
 もう、あってしまった後で、修二には、何もできなかった。
「何かあったら」
「また、死にたいことがあっても」
 そうだった。わたしはあのとき、それなりに死にたがっていた——美咲は思った。しかし、あの死にたさは、単なる甘えでもあったのだと、美咲は今ではそう思っていた。死にたいと言うことで、彼に甘えていたのだ。そしてそれは本当に単なる甘えにすぎなくて、修二を困らせるだけで、何の解決にもならなかったのだ。
「俺もいっしょに死ぬ」
 俺もいっしょに死ぬ? ふざけるな、と美咲は思った。
 手を伸ばして窓を開ける。開けるつもりはなかったのに、開けてしまう。顔は出さないまま、叫ぶ。
「勝手に死ね!」
 涼しい風が入ってきた。修二は声を出すのをやめた。ちゃんと聞こえただろうか。もう行ってしまったのだろうか? たぶん違う、と美咲は思った。彼はきっとまだそこにいる。実際、修二はまだそこにいた。彼女から返ってきたことばを噛みしめていた。
「美咲」
 修二の声はつらそうだった。美咲は「まあ、いいよ」と呟いて、窓から顔をのぞかせた。
「まあ、いいよ。今生の別れだもんね」
「は? 会えるだろ、いくらでも。明日だって」
「は? は、ってなに。わたし、絶対行かないよ、東京なんか」
「……頼む。必要なんだ、美咲が」
「絶対いや。もう、会えないよ」
「……帰ってくる」
「卒業したら?」
「いや、年末年始とか。……お盆も」
「無理。わたし、ぜったい彼氏作るから」
 修二はしばらく美咲を見上げていた。美咲もしばらく修二を見下ろしていた。
 やがて、ふっと修二は笑い、帰っていった。彼のその表情が笑いだったのかどうか、美咲には自信がない。
 美咲はその背中を追い、彼の背中が見えなくなると、しばらく通りを見下ろした。誰もいなかった。何も通らなかった。

 


五 二日目の集合

 二日目、日曜の空は薄い雲がかかって白かった。
 一番に学校に着いたのは美咲だった。
 美咲は学校に着くと、校門を入ったところでしばらく残りの三人を待ったが、腕時計を見、まだまだ来ないだろうと考えると、校庭に向かった。ここ数日の春の風で校庭の白線は相当に薄くなっていた。それでも美咲は、引かれているはずの白線をはっきりイメージすることができた。何度も引いて、何度もなぞって走った白線だったからだ。校庭の端、あるはずの直線のスタートラインに立ってみる。砂にかすかに白い粉が混じって残っている。そこに立ち、ぼーっと、まっすぐあるはずの白線の先、向こうの暗い森を見つめる。わたしは、あの向こうの暗闇からここまで来たのだ……いつのまにかほとんど夢の中で、そのようなことを思っている。
 二番目に学校に着いたのは和葉だった。今日は独りだった。昨日と同様朗人の家に寄ったのだが、なんということか、朗人は彼女の呼び鈴で眼を覚ましたのだった。怒りをとおりこして、どこか唖然とした気持ちで美咲は自転車を漕いできた。
 自転車を置き、まだ誰も来ていないと思った刹那、校庭に人影を見つけぎょっとして、それからそれが美咲であることに気づいた。風に髪をなびかせて、どこか遠くの何かを見つめているようにも、あるいは立ったまま眠っているようにも見えた。まるで昨日からずっとそこに立っていたみたいだ、と和葉は思った。歩いて近づいていくと美咲は振り返り、柔らかに微笑んだ。その笑顔は和葉に、高校に入学した頃、まだ会ったばかりの頃の美咲を思わせた。その柔らかな笑顔は、でもすぐにいつもの眩しい笑顔になった。
「おはよ」
「おはよー。早く着いちゃったよ、逆に」
「反省したわけだ」
「いやー反省はしなかったな」
「はぁ?」
「えー怒んないでよ」
 和葉は怒ったふりをして、それから笑い合った。それからもそんなちょっとした話をして笑い合った。
 春の光の中で、風に髪をなびかせながら二人が笑い合っているのを、朗人は校門を入ったところから見ていた。何となく、自分はそこへ行かなくてもいいというか、行くべきではないというか、そういうことを朗人は思った。実際には、行きたくなかった、というのが正しい。朗人は、そんな二人を、ただ見ていたかったのだった。もう、この先、二度と見ることのできないだろう光景——本当はあらゆる瞬間が、瞬間毎に過ぎ去って、二度と戻ることはない——やがて二人は朗人に気づき、校門の方へ歩いてきた。
「遠藤、早くない?」
「さっきはごめん」
「あれで起きたんでしょ? よくこの時間に来れるね」
「起きて十分で家出たからな」
「はぁ? どうしたらそんな早く出れんの」
「男の子ってそんなもんだよね」
「いや、俺は男の子の中でも特別速い気がする」
「男の子ってか、ダメなやつってだけでしょ」
「なんかわたしたちはーちゃんに怒られてばっかり」
「なに、伊佐も怒られたの」
「うん」
「いや怒ってないし」
 修二は十時の丁度あたりに学校に着き、すまん、と言って額の汗を拭いた。
「いや、遅刻じゃないよ」
「さっそく行くか。時間もない」と呼吸を整えながら修二が言う。
「今日が最後だ」
 朗人はちらと修二を見る。昨日の帰り際は気の抜けた様子だったが、今朝は、昨日の朝と何ら変わりなく、本気に見えた。加えて焦りも感じた。
「そうね。あと探すのは、新校舎と旧校舎くらい?」今日はあまり気乗りしていなかった和葉も、修二の気負いに応じざるをえないように感じた。
「体育館、武道場」
「体育倉庫」
「……校舎のまわり」
「校舎のまわり?」修二の言葉を美咲が繰り返す。
「花壇のとことか、裏の、ゴミ捨て場の方とか、あの草の生えてるとことか、怪しくないか」
「なるほど。そんなとこにあったら見つけにくそー」
 美咲の話し方の妙に穏やかなのに修二は少し驚いて、ちらと見ると、昨日はあれほど合わなかった視線が合って、それから吸い込まれるようにその瞳に映る光を見てしまい、慌てて視線を逸らした。
 まず女子二人が校舎のまわりを探し、一方男子二人で体育館と体育倉庫を見てまわることになった。朗人が独り例の窓から潜入し、鍵を持って戻ってきた。
「先に戻った方が、旧校舎の鍵持っていくってことで」
 そう言って朗人は鍵を机に置き、窓枠を乗り越えた。
 そして四人は二手に分かれた。 
六 夜明け前、校舎周りの捜索(伊佐美咲の記述)

 書かなくていいことなのかもしれない。土曜日、一人で家に帰ってから、修二が家に来て、それから日曜日の朝、三人に会うまでの間のこと。書かなくていいことなのかもしれないけれど、私はこの時間のことから書き始めたい。

 土曜日。一人で帰って、シャワーを浴びて、一眠りしようというときに修二が来た。
 彼が帰ってすぐに、やっぱり私は寝た。
 卒業してから、眠れない夜が続いていた。昼間に眠っていた。昼間に眠っても特に不都合のない生活を送っていた。お母さんは嫌がっていたけれど、やがて何も言わなくなった。お母さん。思えばお母さんに話さないことが増えた。
 金曜の夜も、私は眠れなかった。明日の昼過ぎに約束があることはもちろん意識していて、眠ろうとは思ったのだけれど、明かりを消しても、携帯を部屋の外に置いてみても、眠れなかった。結局眠ったのは七時頃だ。いつも、日が昇って、空が青く、やがて白く、そして街の音が聞こえ始めると、不思議と心が落ち着くのだった。それから母親が起き出して洗濯機を回し洗い物をする音を聞き、そうすると眠りにつく。それから、いつもなら、目覚めるのは日の暮れ始める頃だ。土曜日は、だから、本当にきつかった。寝不足と、それに精神的にも。何も言えなかったけれど、朗人が私と修二で探すように言ったときには本当に恨んだ。
 土曜日はだから、帰ってきて、眠ることしかできなかった。
 土曜の深夜に目が覚めた。母はもう寝ようというところだったようで、起き出してきた私に、さすがにあきれてもう何も言えないようだった。私はカップ麺を自分の部屋で食べた。シャワーを浴びて、歯を磨いて、もう一睡してみようかと思い、目覚ましをかけてベッドに入った。そうすれば、普通の人並みの生活リズムに戻れるかもしれない。
 カーテンも締め切って、明かりの少しもない真っ暗な部屋で、何度も目を開き、気づいたら閉じ、気づいたらまた目を開けていて、じっと暗闇を見つめていた。実際にはどこかから部屋には光が入り込み、じっと見つめていれば少しずつ、天井、布団、壁、棚、机、机の上に空き缶、写真、本棚の漫画、ドアに掛けられた制服、部屋の隅の大きなぬいぐるみ、開きっぱなしのクローゼットに収まる洋服。静かに休息するシーリングライト。私自身。
 身体を起こし、暗闇の中で大きく息を吐いた。
 机に座り、明かりをつけ、眩しさに片手で目を覆った。机に反射する明かりで目を慣らしながら、もう眠れそうにない、と思った。
 それでも携帯は良くないという理性が働いた。本棚から適当に文庫本を一冊抜き出す。最近は本を読み終えられない。手に取り、開けば数分で飽きてしまう。本棚に戻し、次は別の本を手に取る。本棚には読んでいない本がたくさんある。本が読めなくなって、でも時々は古本屋で買ってしまうから、読んでいない本がいつの間にか本棚の多くを占めている。
 そのとき適当に手に取った一冊も、数分で、もうどうしても読み進められなくなった。『いちご同盟』という小説で、確か、高校受験の勉強をしているときに国語の問題文になっていて、おもしろそうだと思ったのを、高校生になってから古本屋で見つけて買ったのだ。結局読まないまま高校の三年間を終えてしまうのか、と思うと少しおかしくて、にやにやと笑った。そういえば最近何となく知ったのだけれど、『いちご同盟』の「いちご」は十五歳のことらしい。十五歳。遠い昔?
 こういう時間、深夜、ぼーっとしている時間、キャンドルに火をつけ炎を見つめることが最近は好きだ。その夜もそうした。キャンドルに火をつけ、電灯は消す。そのキャンドルは、火をつけると、何か花のようなベタな匂いを出すもので、その匂いには人をリラックスさせたり、快眠に誘ったり、そういう効果があるはずなのだが、私はそういう効果を感じたことがない。むしろ匂いさえ邪魔だった。本当はプレーンな蝋燭が欲しかったのだが、どうにも買いにくかったのだった。匂いが嫌で紙に火をつけたこともあった(予想外に早く燃えて煙が出て恐かったし、臭かった)。それでも炎を見つめていると、何か、落ち着くとか、安らぐとか、そういったありがちな効果も、あるにはあるのだろうけれど、それ以上に、自分が何か高尚な、あるいは神聖な、そういう物事に関わっているような、そういう気分になった。こうして言葉にしてみると、実はそういう気分でもないという気がしてくる。単純に、私は炎が好きで、好きなものを見つめるのが好き。それだけかもしれない。
 お母さんには話さないことの一つ。お母さんどころか誰にも話していないのだけど、机の上から二段目の引き出しを開けると煙草の箱が入っている。開けると三本減っている。その夜、四本目を取り出した。
 これはお母さんの煙草だ。卒業式の後、コンビニの袋から一箱盗み出した。気づかれていない、と思っている。さすがに、煙草を盗ったことがわかれば、怒るはずだからだ。けれども、お母さんは、何となく、何でも知っているような感じがする。もちろんある程度は本当に、ばれてないはずだと思っていることもばれていたりするのだろうけれど、それ以上に、私のあらゆることを、例えば、私自身まだ知らない私自身のことさえ、知っていそうな気がする。
 これは願望かもしれない。
 私は煙草の吸い方を知らない。どっちが咥える方かも定かでない。十八歳の私に教えてくれる人もいない。咥えるとほのかにバニラの香りがする。咥えたまま、キャンドルの炎に先端を近づける。火はつく。煙が鼻に入り痛む。吸い込んでみるけれども何も入ってこない。匂いでも嗅ごうと吸い込めば痛い。諦めて空き缶につっこむ。底でジュ……と音がする。
 無音。ただ小さな炎が揺れている。
 私はお母さんに知っていてほしいのだと思う。私に起こったこと。それも、私から話さずとも、知っていてほしいのだ。でも、話したいとは思わない。甘えているのだと思う。
 そんなことを考えていたからだろう。知っているくせに、と、今頃東京にいる同級生たちを思い出して苛々した。缶を持ってこつこつと机を叩いた。クラスメートたち。女子だけでなく、何人か男の子も、昨日から東京にいる。甘え、これも甘えだろう。私のためにグループの予定を変える必要はない。そうしてほしいとも思っていない。私は行かないということを隠していた。話に加わって、行きたい場所を言いさえした。彼女たちは私に起こったことを知っていた。彼女たちは彼女たちでどこか気まずさを感じていた。私はそれさえ嫌で、少しも思い出していないような感じで話に加わっていたけど、彼女たちは彼女たちでそれを感じて、余計に気まずさを感じていた。
 缶を机に叩きつける。もう少しで投げつけるところだったけれど、さすがに理性が働いたのだった。暑さを感じて窓を開けた。静まりかえった世界。見上げると空が見える。真っ暗だと思っていた空は微かに青みを帯びている。涼しい、冷たい風。ふと、一年生の頃、部活の終わった後、不意に、朗人が缶を足でぺしゃんこに潰したことを思い出した。そんなに難しいことではなくて、コツを教わって、何度か、学校のゴミ箱から缶を取ってまでやって、私もできたのだけれど、あれはすごく気持ちよかった。
 楽しかったとき。
 こうして、古いことを思い出して、古いことに楽しくなったり悲しくなったり、そういう思いでずっと生きていくのだろうか。こういう時間、きちんとした時間から外れてしまった時間に私はいつも、そういうことばかり考えている。過去のこと。良いことや悪いこと。思い出してばかりいる。そして先に、未来に、私の思い出に匹敵する良いことや悪いことがあると思えない。そういうことばかり考えている。悲しいというわけではない。涙が出るようなこともない。ただ楽しく、きれいな思い出がいくつかはあって、悲しい、思い出したくないきつい思い出もいくつかはあって、先にはそういうものはない。絶望でもなく、この頃、この外れてしまった時間に、私はよくそういうことを考えている。草原を越え、荒野を越え、砂浜を越え、波打ち際に立って視界を埋め尽くす水平線まで広がる海、そういうイメージを抱いている。
 空は微かに青みを帯びているが暗い。
 思い出す。外れてしまった時間に思い出すのは楽しいこと、きれいなことだけじゃない。そういったことを思い出すことはむしろまれだ。例えば、東京での出来事。窓を開けて、三月の未明の冷たい空気に触れて、私はまた、東京での出来事を思い出してしまった。思い出したからといって、落ち着きを失ったり、涙が出たり、そういうことはもうほとんどない。窓を閉め、ベッドに戻り毛布をかぶった。
 東京。修二。怒り、悲しみ、失望、負の感情に押しつぶされ、毛布の中で丸くなった。
 修二と、また会うことになるとは、思っていなかった。いや、会ってしまったりすることはこれからもあるだろうと思っていたし、ただ積極的にそうしようとしないだけで、特に避けようと思っているわけでもないのだけれど、こんなに早く、つまり卒業してすぐ、会うことになるとは思ってなかった。
 彼からメールが来たのは数日前だ。彼は三人に向けて、つまり、私と、和葉と、朗人に向けてメールを送った。そうして四人でメールを共有して、たわいのないことを話したり、ときにはまじめなことを話したりして、私たちは三年間を過ごしてきた。けれど受験が近づくと自然とメールは減って、冬には途切れていた。受験の終わった頃にメールがあって、久々にご飯を食べようという話になっていたが、それには私は返事を返さなかった。その、私以外の三人で行ったらしいご飯の日の夜に、修二が三人にメールを送った。学校の捜索をすべきだ、というようなメールだった。
 少しだけ驚いた。もうあのことはなかったことになっていると思っていたのだった。みんなもう忘れてしまったのだと、あるいは、覚えているにしても、もう忘れてしまったことにしようとしていると、そう思っていた。私もそうだ。忘れてしまったことにしようとしていたし、あるいは、実際に忘れているようなものだった。どういう流れなのかはよくわからないのだけれど、三人でご飯を食べているときに、その話が出たのだろうと思う。やはりそこでも修二が話題を振ったのかもしれない。そしてメールとして送られてきた。数日前。そのメールを見て一度、私は携帯を壁に投げつけた。修二の名前を見るのが嫌だったのだ。かといって、受信を拒否したりするのも、もちろん違った。それから個人的に、肯定的なメールを返した。それが、その捜索の日が、私たちの最後になると思ったからだった。
 修二は東京に行く。なんでそうまでして、私にこんな思いをさせて、本人だって、わざわざ家まで来てあんな大声で叫んで、なぜそこまでして、東京に行きたがるのだろう——確かに、あの都会には何かがあるのかもしれない。けれども、絶対に、良いことばかりじゃない——悪いことの方が多いかもしれない。少なくとも私はそう思う。けれども、だからといって、修二を説得するほど確信があるわけでもない。彼は、きっと独りで、東京に行くべき人間なのだ。仮に何か悪いことに出会っても、彼は東京にいるべきなのだろう。
 そういえば受験前日、修二は朗人と二人同じ部屋に泊まったらしい。朗人は知ってたのだろう。そういえば何か隠している感じがあったが、このことだったのか。
 なぜ修二は、東京に行くことを黙っていたのだろう? 後ろめたさ?
 毛布を跳ね飛ばす。
 上着を着て、こっそり階段を降り、外に出た。
 自販機で温かい缶コーヒーを買う。空は薄く青い。遠くで朝焼けが燃えている。
 コーヒーは思ったよりもぬるい。一気に飲み干し、道路のアスファルトに置いてみる。
 真上から、全力で、体重をこめて。
 空き缶は静かな街で大きな音を立てて転がっていった。
 こっちの方がいい。
 もう一度、空き缶を拾ってアスファルトに置き、私の家の塀に蹴りつけた。
 
・・・

 日曜日。修二と朗人が体育館等々を、私と和葉で校舎のまわりを探すことになった。普通逆だろうと思ったが何も言わなかった。こんなほこりっぽい日に、女子二人が外?
 そんなところにあるわけないじゃん、と口に出しそうになったけど、それも言わなかった。もう、修二に口答えしたくなかった。終わりなんだろう、と思う。さみしくない、と言えば嘘になる。さみしい。つらい。かと言って、では終わらせたくないかと言えば、そんなことはない。修二はもう私と目が合うことも気にならないみたいだ。昨日のあの最後の笑顔は、何だったのだろう。どういうつもりだったのだろう。本当に笑顔だったのだろうか。わからない。けれども、私たちの間にあった緊張が、切れてしまったということはわかる。
 修二と朗人が体育館等々を探す、というのは朗人の提案だった。昨日もそうだった。何か彼なりに考えてそうしているのだろうか? しかし、外を探すのを私たちにまかせるという、考えというか、デリカシーというか、そういうものの足りなさは、朗人らしくておもしろい。わかった、と和葉は素直に答え、行こう、と私に目配せする。私は笑って頷くが、和葉には、何か思うことないのかなぁ、と内心思う。校舎のまわりなんかを歩いてみたって、見つかるはずがない。
 体育館に向かう男子を見送る。校舎のまわりなんかにあるはずがない。和葉は花壇の隙間や木の影をみたり、木を見上げたりしながら、歩いて行く。どうやら真面目に見つけ出すつもりらしい。私も和葉の動きだけ真似てついていく。一応、気になるところはじっと見てみるけれど、それらしいものは、何もない。
「昨日、赤井に怒られたでしょ」
 私の方を見ることなく、和葉が言う。
「え? なんで?」
「なんでって。遅刻よ。赤井、いらいらしてたよ」
「うそ、ごめん。最近眠くてさー。ほんと、いつまでも寝てられるし、寝てたいし、いや起きたら、はやく起きればよかったーって思うんだけど、起きるまで、ほんと、無限に眠れるのよ。眠り姫」
「起こしてもらえばいいのに」
「え、ほー、ロマンチック」
「ロマンチック?」
「キスでってことでしょ? やばいじゃん」
「はぁ?」
 美咲は知らないのだろうか、私たちの仲のこと。知らないかもしれない。だめな女子たちは受験直前になってもそんな話ばかりしてたけど、和葉はその頃には常にかなり熱心に勉強していた。もちろん勉強する子たちだって大勢いる学校だけれど、和葉は群を抜いて熱心だった。地元の国立じゃなくたって、それこそ東京の大学だって——東京の大学。嫌なことばを思い浮かべてしまい、顔をしかめる。
「……修二、怒ってるとうざいよね。ごめんね」
「いや、いらいらはしてたけど、わたしたちには何も。え、何も言われなかったの?」
「別に」
「ふーん……」
 やっぱり、知っているのだろうか、私たちの仲のこと。それとなく、探られている感じがする。
「珍しいよね。赤井、怒るじゃん、そういうの」
「でも、丸くなったよね」
「ああ、確かに」
 丸くなった。昔と比べれば——昔の修二なら、もっと強引に、私を東京に連れ出そうとしただろうか? したかもしれない。志望校についてだってあれこれ言ってきたかもしれないし、昔の修二なら、進路が決まった後でも無理を言ってきたかもしれない。いや、確かに実際に結構しつこかったけど、でも、昨日のあれで、どうも、引き下がった、らしい。わからないけど。
「ねえ」
「うん」
「はーちゃんはなんで東京行かないの」
「みんな行かないでしょ」
「修二は行くじゃん」
「赤井は、頭良いからね」
「はーちゃんだって頭良いじゃん」
「どうなんだろ。でも、東京行きたいなんて、思ったことないな」
「お金?」
「うーん、出してくれたと思うけど、でも、お金が自由でも、地元でいいや」
「そんなものか」
「ねえ、あそことかどうかな」
 和葉が指さしたのはゴミ袋を集める小屋だった。
「え。冗談でしょ」
 春休み中は掃除がないから、ゴミ袋は今はない。でも、あの嫌なにおいが想像された。知らないけれど、きっと、ゴミがなくたって染みついているはずのあのにおい。
 いいよ、と言って和葉がのぞきに行く。悪く思って近づいてみると、やっぱり臭い。
「ないね」
「でしょ。あるわけないよ」
「でも、今日中に見つけないとじゃん」
 和葉はどれくらい本気なんだろう。また校舎のまわりを歩きはじめる。本校舎のまわりは、校舎まわりというランニングトレーニングがあるくらいには歩きやすい。しかし花壇や木の影くらいしか、万が一あるとしてありそうな場所はない。すぐに一周してしまって、今度は新校舎のまわりを歩きはじめる。新校舎のまわりは、本校舎に面した側はきれいだけれど、裏にまわるとすぐに背のいくらか高い雑草に阻まれた。スカートなんですけど、と内心思いながらついていく。雑草は足に触れたが、でも思ったほど不快ではなかった。それでも、雑草の長く伸びたところには和葉だけが入っていって、足や拾った木の枝で草をかきわけ探した。
 私はその背中を見つめながら話しかけた。
「はーちゃん」
「ん?」
「はーちゃんは、どうして大学行くの」
「……美咲は、どうして大学行かないの」
「……行く理由がないから」
「いっしょ」
「なにが?」
「行かない理由がないから、大学に行く。別に大学にやりたいことがあるわけじゃない。みんな行くから行く。親が行けっていうから行く」
 少し驚いた。もっと、しっかりした答えが返ってくると思っていたからだ。それに、もっとしっかりした答えが返ってくることを期待してもいたと思う。嘘かもしれない、とも思った。
「美咲は偉いよ」
「なにが?」
「自分で道を選べて」
「……」
「修二にも惑わされず」
「それはほんとそうだよね」
「絶対美咲に切ってもらう」
「ほんと? 練習でも?」
「んーそれはどうだろ」
「金取るよ、練習以外」
 はは、と和葉は笑った。笑いながら戻ってきて、あるわけないよなぁ、と呟いた。呟きながら和葉は髪の毛に触れて、かきあげて、え、と思わず声を出してしまった。意外なものを見つけてしまった……触れていいのか迷うくらい、意外なもの。停止した私に、なに、と和葉は言った。
「……イヤリング?」
「……ピアス。そんな変?」
「開けたの?」
「勝手に穴が開くわけないでしょ」
「そりゃそうよ。え、ピアス? なんで?」
「……いいじゃん」
 和葉やはやはり触れられることを嫌がっているようだ。髪に手ぐしを通し、生い茂る雑草の観察を再会してしまった。でもすぐにやめた。
「てかさ、こんなとこにあるわけなくない?」
「え、うん、そうかも」
「探さなくていいよね、旧校舎のまわり、もう」
「そうだね」
「赤井ってさ、勉強できるけどさ、馬鹿だよね、やっぱり。時間ないんだから、もっと、効率よく探せばいいのに」
 うん、と相槌は打ったが、よくわからない。混乱している。校舎に戻る和葉についていく。和葉が手で口をおおい、大きなあくびをする。私は後ろを歩きながら、髪の毛で隠れた彼女の耳のある場所を見つめてしまう。
「……はーちゃんも眠いんじゃん」
「年頃の女の子は眠いよね」
「え、そうなの?」
 和葉は窓を開け、靴を脱ぎ、窓枠を乗り越える。向こうで上履きを履く美咲に話しかける。
「修二さ」
「ん?」
「やっぱり馬鹿だよね」
「ん? いや、頭はいいんじゃない。性格の問題?」
「馬鹿だよ。性格も良くないよね」
「……良いとこもあると思うけど」
「いや、まあ、何でもいいんだけど、でも、学校中全部探したいって気持ちは、わたしはわかる」
「ほう」
「うん。……本当は一人で全部見てまわりたいくらいの気持ちだと思う。それは、わたしも、そう、かも」
「そう……まあね。わたしもそう、かも」
「今ここで見つかっても」と言って窓枠から首をつっこみきょろきょろしてみせる。和葉は笑って、そうだね、と呟く。
「今ここにあったとしても、全部見てまわりたいって気持ちは、まあ、わたしもわかる」
 机の上には旧校舎の鍵が残っている。やはり男子たちはまだらしい。行っちゃうか、という和葉に私は頷き、窓枠を越えながら、スカートはやめておくべきだった、と後悔する。和葉が、なんでこんなきれいなの着てくるの、と言って私のおしりを叩いた。私はおかしくて笑う。
「はーちゃん、お姉ちゃんみたい」
「よく言われる。実際、妹も弟もいるし」
「うちにも欲しかったわ、しっかりした、長女」
「欲しかったのはお姉ちゃんでしょ。美咲も長女でしょ」
「そうだけど」
「美咲もけっこう、しっかり? してると思うけど」
「え、マジ?」
 ははは、と和葉は笑った。
「ね」廊下を歩きながら、その背中に話しかける。
「ん」
「ピアス開けると、運命が変わるんだって」
 はは、と和葉は笑った。

   ・・・

 原稿用紙に書いたのは四人の中で私だけかもしれない。私は白い紙の上に書きたかったのだ。真っ白な紙――厳密には、そこには既にます目があるわけだけれども、その白の上に、黒く文字を刻む。そのようにして、この文章を書きたかった。理由は、秘密だ。もしかしたら私自身、よくわかっていないのかもしれない。いつかこの文章を読む誰かの方が、もっと正確にわかってくれるかもしれないし、その誰かはもしかしたら、すごくとんちんかんなわかりかたをするかもしれないけど、私がとんちんかんだと思うだけで、それこそが実は真の理由かもしれないし。
 これが私の記憶。あの日。思い出。過去。


七 体育館、体育倉庫の捜索(遠藤朗人の記述)

 初めに書いておくと、僕には、この度の捜索について文章を残すつもりがまったくなかった。この捜索があのような形で終わることを、どこかでわかっていたからだ。そういう結果に終わる以上、わざわざ書き残す必要などない。そう思っていた。しかし、どういうわけか、書くことになってしまった。
 おそらく他の三人は、つまり、赤井修二、伊佐美咲、落合和葉の三人の中には、おそらく最初から、発見の記録として文章を書こうと決めていたか、あるいは、文章であれ口述であれ、何らかの形で捜索と発見の顛末を言語化することになると、朧気ながらも考えていた者もいるのではないだろうか。つまり、あのような結果に終わることを、あるいは薄々感じ取っていたかもしれないが、信じたくなかった——三人の中には、そういう者もいたのではないだろうか。
 僕はといえば、間違いなくあのような結末になると、初めからわかっていた。初め、修二が回したメールを読んだときからだ。そういえば他の三人は誰も、この発端のメールに触れていないのではないだろうか?
 
 差出人:赤井 修二
 件名:さっきの話
 内容:
さっきはどうも。久々だったな。ちょっと長くなるけど読んでくれ。そして引かないでくれ笑
さっき、飯食ってたとき、学校を捜索すべきなんじゃないかという話が出たけど、俺は、本気でそう思ってる。確かに難しいし、見つけたところで何になるのかわからないってのも、わかる。もしかしたら、見つけたことでむしろ余計にひどいことになるんじゃないかと、そういう話も出たが、それもわかる。いい頃合いなのだから、諦めて忘れてしまうべきだと、朗人が言ってたと思うけど、本当にそうだと思う。それができるなら、それが一番いい。けど、俺は朗人がそう言ったとき黙ってたけど、みんな、本当に、諦めて忘れるなんてことができるのか? 俺はできない。特に、このまま何もせずに、諦めて忘れるというのは無理だ。
みんながどうなのか知りたい。全員に返信でもいいし、俺に個別ででもいいけど、できたら返信くれ。以上。

 正直に言って、無視してしまおうと、この時点では思っていた。修二のいつもの勢いだけの提案だと思った。次に修二に会うとすれば、彼が東京に行く日、わざわざ見送りに行くとしてそのときだが、修二はそんなときにメールを無視したことをぐちぐち言うような男ではない。
 反応があったのは一時間半ほどしてからだった。和葉の、短いメールが四人に送られた。もしかしたらその間に美咲は修二に個人的に返信をしたかもしれない、とそのときは思ったが、今となっては、つまりあの二日間を経た今となっては、それもなかった気がする。

 差出人:落合 和葉
 件名:Re:さっきの話
 内容:
 さっきはどうも
 別に、探してもいいんだけど、けど、積極的に探したいという気もしないなぁ

 差出人:赤井 修二
 件名:Re:さっきの話
 内容:その心は

 差出人:落合 和葉
 件名:Re:さっきの話
 内容:
赤井の言ってるとおり。難しい、見つけたところで何になるのかわからない。むしろ余計にひどいことになる、かもしれない(´ω`)

 差出人:赤井 修二
 件名:Re:さっきの話
 内容:
  朗人は?

 どう答えたものかと、名指しされて初めて考えた。和葉がメールを送ってからは、修二と和葉のメールのやりとりの結果に従おうと、そう思っていたのだ。それはこれまでの、高校の三年間のパターンであった。修二の提案を、和葉がいくらか和らげた結論に、残りが従う。修二は部長で、和葉は副部長で、だからというのもあったけれど、逆もしかりで、修二と和葉がそういう関係だから、彼らが部長と副部長になったというのもあった。しかし今回は、まず和葉の返答が、珍しく曖昧だった。これまでのパターンであれば、それは僕の答え方だった。
 僕はというと、従来のパターンでメールを返した。一文で「どちらでもいい」と書くこともできたが、そういう要旨のことをいくつかの文に分けて書いて送った。

差出人:伊佐 美咲
 件名:Re:さっきの話
 内容:
良いじゃん! 最後だし、やろうよヾ(≧∀≦*)ノ〃

 そんなメールのやりとりで、四人は集まることになったのだった。
 土曜の捜索のことは既に書かれたらしい。誰が書いたかは知らない。それは知ろうとしないからだが、知ったところで何かが変わるわけでもない。読むこともないだろうが、しかし土曜の捜索のことは既に十分に書かれたようだから、日曜の捜索について、その日起きたことや考えたことについて、僕は書く。土曜日には、少なくとも僕にとっては、他の誰かが書いた以上のことは何も起こらなかった。しかし日曜については、少なくとも僕にとっては、書かなければならないことがある。書かなければならない——しかし、たいしたことが起きたわけではないし、たいしたことを考えたわけでもない。結局、捜索は失敗だった。あまりおもしろい文章にはならないだろう。
 
 僕と修二で体育館や体育倉庫を回ることになった。修二と美咲をいっしょにしてはまずいと気づいたのだった(実際には土曜の帰りの時点で反省していた)。何があったかは知らないが——いた、何があったかは知っている。ただ、それに加えて何か決定的なことが二人の間にあったのではないかという気が、その日の朝、一人佇む美咲を見ながら——彼女はすごく朗らかに見えたのだが——不思議とそういう気が、したのだ。
 体育館の扉には「立入禁止」と書かれた紙が貼られている。東北の地震のあった後からずっと貼られている。聞いた話によると、特別に危険な状況だというのではなく、しかし耐震性のチェックというか、そういうことが必要で、立ち入り禁止になっているらしい。しかし何にせよ二人ともそんなものは無視する心構えだった。そもそもこの土日は登校が禁止されていて、そもそもそこから無視しているのだ。さらに言えば、法律には明るくないが、不法侵入ではなかろうか。そもそもそんなところから無視しているのだ。立ち入り禁止の張り紙など守るはずがない。
 鍵を開けると、埃くさかった。埃と汗と雑菌の混じり合ったようなにおいが染みついている。いくらか懐かしさを感じさせるにおいでもあった。がらんどうの体育館を見渡す。
 とりあえず目に見える範囲から捜索を始めた。足下の窓の枠の裏や、階段を上って体育館を一周する通路、そこの窓のカーテンの裏、ステージのカーテンの裏。どこにもありそうになかったし、実際になかったのだが、それでもそこらじゅうを二人で探した。そして合流してからはステージの下の収納を引き出し、そこには式典等で使うパイプ椅子がしまわれているのだが、その隙間を見て回った。
「なあ、俺たち四人さ、いいグループだったと思わないか」
 その最中に修二がそう話し出した。日曜日、僕と修二の間で交わされた会話らしい会話はそれがはじめだった。
「まあ」と僕は答えた。よくわからない、というのが正直な感想だった。
「仲は良かった」
「そういうことじゃない。言ってしまえば、ほんとに仲は良かったか? 俺とお前は」
 答えにくい質問だった。友達だったか? と聞かれれば僕はそうだろうと答えただろう。しかし、ほんとに仲が良かったのかと聞かれると、確かに、困る。
「いや、良い友人だよ、修二は」
「微妙な答え方だな」そう言って修二は笑った。たぶん苦笑いだった。確かに僕の答え方は、微妙だった。
「しかし、そういう、好き嫌いでもなく、奇跡的な四人だったと、俺は思ってるんだよ」
 言いながら修二は、収納された椅子の一列を見終え曲げていた背を伸ばした。
「……そりゃ、ほかの四人は考えられない」
「そういうことじゃない。いや、そういうことなのかもしれんけど、ただの四人じゃなくてさ、奇跡的なグループだったと思ってるんだよ」
「熱いね」
「すごく、うまくいってた」
 マットから降り、ズボンの尻を払う。
「それこそ、ほんとに? って感じがするけどな、俺は」
「そうか」
 修二はそうか、としか言わなかった。それに僕はいくらか苛立ちを覚えた。
 すべての椅子の列を見終え、ステージの下に収め、ステージの下で一息つき、目があった。
「うまくいってなかったか?」
 修二が言った。
「……うまくいってるのか? 修二は、伊佐と」
 修二はふっと笑った。それは本当に心の底から出てきた笑いに見え、やはり僕を苛立たせた。僕はそのときにはもう笑みを浮かべてはいなかったはずだ。
「過去に縛られるべきじゃないと思ったんだよ、俺は」
 それを聞いて僕は、ほとんど反射的に、修二を殴っていた。
 人を殴ったのは、初めてではないにしろ、少なくとも数年ぶりのことだったし、殴ろうと思って殴ったわけでもなく、自分が人を殴るフォームを知っていたこと、全力で人を殴ることができたのだということ、そして何より人を殴ることの痛さに、殴ってしまって、修二は一歩下がり殴られた胸を押さえながら驚いた表情をしただけだったが、僕も驚いていた。驚いた表情は無表情に変わり、修二が拳を握りしめ震わせるのを僕はじっと見ていた。しかし修二は、その握りしめた手を開き、僕の視線に視線を合わせた。
「……傷つけてるよ、お前は、伊佐を」と僕は言った。
「……」
「俺は、お前のこと、好きにはなれない」
「朗人……」
「……」
 長い沈黙の後で、互いに呼吸も落ち着いた頃。
 お前も選ぶんだぞ。
 そう修二が言った。
 ずるいことをした、と僕は思った。そして、修二は僕のずるさをきちんと見抜いているのだと、そのとき初めてわかった。

 大学受験の前々日に東京に行き、前日、本来は勉強でもしているべきところを、僕と修二はホテルの近くの神社に出かけた。ホテルの広くもない一室で互いに背を向けながら(あるいは向き合いながら)勉強をしようという気にはなれなかったのだ。結局、東京では特に頭に入れようというのでもなく単語帳をぱらぱらめくっただけだった。ここまで来たらそう大きく変わりないだろうという気持ちもあった。
 おそろしく寒い日だった。風が強く吹いていて、地元では吹きようもないビル風というものなのだと思うのだが、そのせいで地元の何倍も寒く感じられた。僕は僕の合格を祈願し、修二は修二で自身の合格を祈願しただろう。その後で喫茶店に行った。修二はもしかしたら勉強するつもりだったのかもしれないが、二人は結局少しも勉強しなかった。ただ、相変わらず東京には人が多いという話をし、それから、美咲の話をした。
 東京に来て欲しいんだ、と修二は言った。あいつだって、頭も悪くないし、勉強すれば来年来れる。たった一つのことにこだわって東京を避けるなんて、もったいないだろう。
 たった一つのこと。僕たちにはそう言うことしかできない。それが女性にとって、美咲にとって、どういうことだったのか、今ではどういうものになっているのか、うまく想像することができない。それでも、修二の言い方は違う、と僕は思った。
 僕のずるいことの一つ。僕はただ違うと言うだけで、確かに、修二の捉え方が違っている、少なくとも美咲のそれとは大きく違っているというのはおそらく正しいのだけど、しかし僕の方は、美咲の出来事について、何も言わなかった。自分もまた正しく美咲の思いに寄り添って同じ気持ちで語ることなどできないことを知っていながら、何も言わないことで、ただ、修二は誤っているということだけを指摘した。あれはずるだった。言い訳めいたことを言えば、しかし、そのときはずるだとさえ思っていなかった。僕は本当に、美咲の出来事について何も言わなかった自分が正しく、彼は間違っていると思っていた。
 たった一つのこと、という言い方をしたことを修二はいたく反省した様子だった。受験の前日にする話じゃないな、と彼は言い、もう美咲の話はしなかった。とりとめのない話をして小一時間を過ごした。
 受験当日、修二は先に出た。僕にはまだもう少し余裕があったが、それでもそのホテルの一室に一人でいるのは何となく落ち着かなくて、早く出てゆっくり歩くことにした。
 たまたま線路沿いの道を歩いた(といっても線路は高いところにあったが)。歩きながら僕は、修二よりも僕の方が、今は、彼女の心に寄り添っていると、そう思っていた。修二には彼女の苦しみがわからない。修二は彼女のことを顧みず自分の望むまま東京へ行こうとしている。しかし、僕はどうだ? 僕はこんなに苦しんでいる。電車が通り過ぎる。電車はひっきりなしに僕の頭上を走り去った。電車。電車が通り過ぎる度に僕の胸は締め付けられる。彼女の痛みを思うからだ。
 あの日、僕はそんなことを思っていた。

 気持ち悪い、と土曜日の捜索のときに和葉が言った。僕のために言ってくれたのだ、と僕は思っている。僕は、気持ち悪かった。

 僕は実際には、彼女の心に、痛みに、本当に寄り添ってなどいなかった。だから、修二が「たった一つのこと」と言ったとき、僕は、ただ違うと言うだけで、それ以上何も言えなかったのだ。
 受験会場に着き、番号に従って席につき、解答用紙に名前を書き、けれど僕は一つも解答しなかった。最初の問題は無心に解いた。けれど、それを解答用紙に書き写そうとしたとき、僕の手は止まった。地元に残って寝取ってやろう、とかそういうようなことを考えたわけではない。そういう度胸というか、行動力というか、自分がそういうものを持ち合わせていないのは、自分が一番よくわかっている。けれども、おそらくはほとんどそれに似たような気持ちで、僕の手は止まったのだった。試験監督の目が気になって、解き続けた。けれども、解答用紙は白紙のまま、提出された。

 僕はそれによって、何かを選んだ気になっていた。つまり、地元を、美咲や和葉のいる地元を、選んだのだと。
 お前も選ぶんだぞ。そう言われるまで、僕は選んだ気になっていた。修二とは違う道を選んだつもりになっていた。
 ずるいことをしていた。

 そして、修二を殴ったこと。積み重ねたずるさの果てに、僕は修二を殴った。
 おそらく僕はずっと修二を殴りたかったのだ。それこそ、部活で初めて出会い、気づいたら美咲と付き合っていた、あの頃からずっと、僕は、修二を、殴りたいと思っていたのだ。それを、美咲をダシにして、成し遂げた。僕はおそらく、そういう男だ。

 僕は選ばなければならない。

 日曜の話に戻る。僕らは黙って体育館を出て、砂埃の舞う校庭を渡り、体育倉庫の鍵を開けた。体育館のにおいをさらに濃密にしたようなにおいがした。体育倉庫は小さい建物だが、物が雑多に詰まっているだけ捜索をする甲斐だけはあった。かごからボールをいくつも取り出し、マットを下ろし、石灰を引く器具を動かし、棒高跳びの棒を動かし、探した。
 ケースを開けると陸上用のピストルと火薬が入っていた。
「……修二、お前さっき、奇跡って言ったよな」
「言ったか?」修二は修二で、何かのケースを開いていた。
「奇跡の四人」
「……俺はそう思うってことだ」
「俺もそう思ってるんだ。修二、さっき俺は、修二のことを好きになれないと言ったけど、それは、なんというか、そんな単純な話じゃないんだ、つまり、俺は修二のことは好きだし、尊敬してるし、ほんとにいいやつだと思ってる」
 ピストルの上に水滴が落ちた。最初は本当に汗だと思った。しかし、それは涙だった。
 何かのケースを閉めて修二は、「わかってるよ」と言った。
 体育倉庫を出て鍵を閉め、外に出ると眩しかった。太陽は丁度一番高いところにあった。飯だな、と修二が言った。

   ・・・

 修二が東京に行く日、僕は駅まで見送りに行った。和葉が来ていて驚いた。美咲が来ないことは、当然といえば当然なのだが、それでも、ぎりぎりまで、来るんじゃないかという気がしてそわそわした。
 陸上部の後輩の女子が一人、見送りに現れた。修二がスーツケース一つだけ持って到着して、少し話をしたあと、「美咲先輩来ないんですね。残念」とその子は言ったが、どこから聞いたのか何か知っているような様子であったし、残念だなどとは少しも思っていなかったはずだ。僕と和葉がちょっと話している隙にさりげなく住所を聞いていたが、修二は「忘れた」と笑うだけだった。
 トイレに行く修二に僕は「長いお別れだから」と言ってついていった。
 そこで僕は殴ってくれと言った。
「理由がない」
「俺がお前を殴ったのは、間違いだった」
「忘れた」そう言って修二はやはり笑っているだけだった。
 厳しい男だ、と僕は思った。


八 昼

 修二と朗人が旧校舎に来たのは十二時頃だった。おーい、と修二がその階に聞こえる程度の声を出しながら階段を上っていき、最上階、生徒たちの(特に男子たちの)秘密の部屋で合流した。
「悪い、遅くなった」
「ごめん、さぼってた。あ、でもこの部屋にはないよ」
「変わらんなぁこの部屋は」
「PS3じゃん、誰が持ってきたんだ?」朗人は部屋の真ん中に置かれたゲーム機のコントローラーを手に取り、ばしばしとボタンを叩いた。
「よく持ってくるよね。盗られないの?」
「ね。簡単に侵入できちゃうじゃん」そう言ってから、自分たちがまさしくその侵入者であることに気づいて、美咲は苦笑いを浮かべた。
「いろいろなくなったこともあるけどな。俺もバイオハザードをここで失った」どっかねえかな、と朗人はゲームソフトのケースの重なった山を探す。
「もう来ることもないだろうな。……そうそう、それで、お前ら、食べ物持ってきた?」
「あ。持ってきてない。持ってきたの?」
 美咲はお菓子だけは持ってきていたが、何も言わなかった。
「いや、持ってきてない。忘れてた。朗人はパンを持ってきたらしいけど」
「朗人、気づいてたんだったらみんなにメールでもすればいいじゃん」
「いや、家出るときに気づいたんだよ。まあいいじゃん。食い行こうぜ」
「ああ、美咲もないだろ?」
 修二の言葉に美咲は頷いた。二人は一瞬視線を合わせ、どちらからというわけでもでもなくそらした。

 自転車がないのは美咲だけで、修二が後ろに乗せると提案したが、彼女は「犯罪だよ」と言って笑ってことわり、結局三人も自転車を学校に残し、歩いて丘を下った。丘を下りて少し歩けばコンビニがあったが、四人は駅の方へ向かった。いくらか歩かなければならないが、それでもコンビニよりは良いものを落ち着いて食べたい気分であった。
「そういえば、バイト、どう?」
 美咲が聞いた。朗人は少し驚いた。
「え、和葉、バイト始めたのか」
「まあ」
「どこで?」
「さあ」と和葉はなんとなく素直に答えなかったが、マックだよ、と美咲があっさりとばらしてしまった。
「マックって、国道沿いのか。たまに使うわ」
 修二はそうコメントしたが、それは話を聞いていることを示すためのコメントで、実際にはずっと別のことを考えており、事実それ以降はしばらく何も言わなかったのだが、三人は誰もそれに気づかなかった。
「でも、始めたばっかだし」
「どう?」
「普通」
「マックって、ポテトとかもらえたりすんの」
「しないよ」
「らしいねー」
「へえ。なんかポテト食べたくなってきた」
「てれて、てれて」
「なにそれ」
「え、マックの、ポテトの音」
「ああ……」
 あの音が耳に残る、いや残らない、なぜ単なる機械的なブザー音ではないのか、実はあれが一番おいしそうな感じの音なのかもしれない、などと二人が話しているのを聞きながら、和葉はなぜか苛々していた。その苛々の理由が彼女自身にもわからず、苛々と同時に、困惑も感じた。
 やがて高校のある丘を下り終えて、水の張られていない殺風景な田んぼの間を通る道を歩いた。
「和葉、時給は?」
 突然話を振られ、少し戸惑いながら答える。
「八百。八百かあ……一時間の労働で八百か……」
「なに、朗人くん、バイト考えてんの?」
「はぁ?」
「いや、考えてないよ。ただ金は欲しい」
「何に使うの」
「何にでも使うだろ」
「集中しなさいよ、勉強に」
「また勉強の話か」
「ねえ、一年、ほんとに勉強できんの? やっぱ滑り止めに行っておくべきだったんじゃない?」
「かあさんかあさん、三月の間くらい、許してくださいよ」
「先生の話覚えてないの?」
「どの話?」
「そうやって怠けると結局現役生に負けるって言ってたじゃん」
「え、どの先生。確かにそういうのは聞いたことあるけど」
「聞いたことあるなら従いなよ」
 でも、でもじゃない、と続く和葉と朗人のやりとりに入れなくなって、美咲はさっきから黙っている修二をちらと見る。修二はまっすぐ前を向いて、駅に向かって歩き続けている。何を考えているのだろう、と美咲は思う。何かを考えているとき、修二はこうやって、横に誰がいようと、まっすぐ前を向いて歩き続けた。話しかければそれなりの返事がくる。しかし、彼の考え事が途切れることはない。彼が前を見続けている限り、彼は自分の考え事をやめていない。
 高校の三年間、ほぼ三年間、付き合い始める前も、同じ部活に入ってからほぼずっと、修二は美咲を駅まで送っていた。自転車の後ろに乗せて漕いでいくこともあったし、自転車を押して、二人並んで歩いていくこともあった。方向は確かに途中までは同じだったのだが、やはり最初から修二にはそういう気持ち、つまり、美咲に対する恋心があったのだろうと、美咲も、和葉も朗人も、クラスメートや事情を知る先輩後輩もそう推測しているが、実際のところは修二にしかわからない。美咲に交際を申し込む前のこと、つまり、いつから意識し始めていたのか、等々のことを修二はこれまで人に話したことがない。美咲にしても、そういうことに特に興味がなかったし、今になって少し気になったけれど、これから先、もう聞くこともない。
 和葉と朗人は、いつもこういう風に二人で帰っていたのだろうか、と美咲は思った。こういう風に、毎日毎日仲良さげに賑やかに帰っていたのなら、羨ましい——いつ朗人は、和葉の耳元で光るピアスに気づくのだろう——。
 この道を歩き続けた三年間、毎日毎日見つめ続けた横顔、漠然とした、広大で真っ白な、あの雲のような未来、そうしたもののイメージが頭を占めて、美咲もまた何も言えないまま歩き続けた。

「上手いじゃん」
 朗人がお好み焼きを返すと、美咲はそうコメントした。
「高さも十分」と美咲は続けた。美咲はフィギュアスケートを観るのが好きだった。
「でもちょっと回転不足だったかな」朗人は美咲に合わせてそう続けた。
「なんだよ回転不足って」
「フィギュアスケートでしょ」
 と修二に教えながら、和葉は焼け具合をじっと見ていた。じっと見ながら、聞いた。
「そういえば修二、東京に行くこと、美咲に言ってなかったの?」
 和葉をのぞいた三人が三人とも、どきりとした。
「言わなかったっけ」
「言わなかったよ」それから美咲はしばらく一言もしゃべらず、お好み焼きを口に運んだり、飲み物を取りに行ったりした。
「隠してたわけじゃないの?」
「いや」と修二は笑顔で否定する。隠してたに決まってるだろう、と朗人は心の中で突っ込みを入れる。
「相談すべきだったんじゃないの」
「ああ」
「もう少し考えてあげてもよかったんじゃない」
 修二は笑顔のまま、無言で黒い鉄板を見つている。
「どうなのよ」
「どうなんだよ」
 その声音に和葉はちらと朗人の表情を伺ったが、朗人は微笑を浮かべたままうつむいていた。しかしその声には、微かだが間違いなく、怒りがにじんでいた。和葉は一瞬恐怖さえ覚えた。朗人のその怒りは、自分自身にも向けられたものだった。
 修二は無言のままだった。その笑顔にはどこか悲しみの色も滲んでいたが、それに気づいたのは美咲だけだった。
 修二と朗人の視線は、黒い鉄板の上にあった。和葉の視線は、美咲の持つ器に向いた。
「……美咲、もんじゃ焼きは鉄板に落としてから混ぜるんじゃない」
「え、そうなの?」
「もういいよ。いれて」
「えーなんかむずい、はーちゃんやってよ」
「それはやだ。あ、修二、先に油」
 言われて鉄板に油をひきながら、過去か、と修二は呟いた。美咲は、未来、と呟いて、もんじゃの具材を鉄板に落とした。それを見て、あー、と和葉が言った。

九 捜索の終わり

 日が暮れ、夕日が差し込まなくなってからも、わずかな明かりを頼りに新旧校舎の捜索を続けた四人であったが、やがて、これまでだな、と修二が呟いた。それを朗人が女子二人に伝えた。朗人が二人のいた教室に入ったとき、二人はそれぞれ机の上に座って、なにかこそこそと話し合い、笑い合っていた。
 見つからなかった。見つからなかったのだが、もう誰もその話はしなかった。今日が最後だと、わざわざ口には出さなかったが、四人ともそうわかっていた。数日後には修二が東京へ行く。それで、この話を再び持ち出す人間もいなくなる。もっと早く探し始めていれば、と悔やんでいる者はいたが、もっと早くに探し始めようなどと発想することができた可能性のないことも、その者はわかっていた。いつだって、遅すぎるのだ。
 あるいは、早すぎるのだ。
「でも、俺たちがこんだけ探して見つけられないんだから、よほどの場所にあるんだろう」と修二が笑って言った。
「そうだな。誰も見つけないだろ」
「でも、何年もしたらさ、誰かが偶然見つけるんじゃない?」美咲は三人を振り返って微笑んだ。
「驚くでしょうね」
「俺たちが残していくのは、朝練廃止だけじゃないわけだ」
 四人は皆笑った。それは陸上部だった四人にだけ通じる笑い話だった。
 四人の足は自然と、校門ではなく、校庭の方に向かった。
 校庭の端に立ち、砂を踏む音を聞いた。それは四人が高校の三年間、校庭を踏む度に鳴り、一度も意識されることのなかった音だったが、その時聞こえたその音をもう聞くことはないのかもしれないと四人は思い、寂しさのようで少し違うような、胸をちくりと突き刺す名付けがたい感情を覚えた。もう一歩、砂を踏む音を聞いて美咲は急に屈みこみ、クラウチングスタートの構えを取った。よーい、どん、と笑いながら朗人が言った。
 美咲は走り出そうとして、しかし滑り、膝をついて、それからしゃがみこんで膝を払った。
「おいおい、大丈夫か?」
「けがしちゃった」
 和葉が駆け寄って、膝をそっと払う。小さな擦り傷ができている。
「絆創膏いる?」
「うーん大丈夫そう」
「怪我のうちに入らないだろ、こんなの」立ったまま修二が言う。
「そういうとこだよ!」と美咲が叫ぶ。
 四人は声を上げて笑い、学校中の隅々にまで笑い声が響き渡るように感じる。笑い終えて、あたりの静けさに息をのむ。

 四人は校庭の中心に向かっていた。その頃には日は沈んでしまっていた。ひとしきり笑ってから、四人は何も言わず、校庭の中心を目指して歩き、そして四人とも、紺色の空に光る星を見つめていた。誰も何も言わなかったが、今、四人が同じものを見つめていることは、四人ともわかっていた。
 校庭の中心に自然と四人並んで立ち、四人はただ夜の闇を、空の闇と森の闇の境目のあたりを見つめた。
 大丈夫だろうか。
 三人は、その呟きが自分の心の中から聞こえてきたように感じた。が、それは修二の声だった。そう思わせないくらい、その声は細く、小さく、不安に満ちて、暗闇に溶けた。
「お前らしくない」とやがて朗人が答えた。彼のときどきする、わざとらしくおちゃらけた言い方だと和葉は思った。二人は何とも思わないようだが、和葉は彼がそういうものの言い方をすることが嫌いだった。しかし、そういう言い方にしても、少し声が震えていると、そういう気がして和葉はそっと朗人の表情をうかがおうとしたが、そっと見るだけで表情を読みとれるほどの明るさは校庭の中心にはなかった。朗人の表情は暗闇に沈んでいた。
「……見つかったら見つかったで、やっぱり、キツかったと思う」美咲の声は低かった。彼女は修二が泣いていることに気づいていた。しかし、もう、彼に優しく声をかけたり身体に触れたりするような義理も権利ももうないだろうと、そう考えた。だからまっすぐ前に向かって、言葉を続けた。
「わたしは、見つからなくて良かったと思ってる。見つけたくなんかなかった。みんなだってそうだったんでしょ。みんな——」
「見つけなきゃいけなかったんじゃないかって思ってるんだよ」
 美咲の言葉を遮って、彼がそう言うその高く震える声を聞いて、二人も、修二が泣いていることに気づいた。
「俺は本気だった、本気で、探して、でも——」
「うそでしょ」端の修二に聞こえるよう、和葉は声を張った。しかし、それは決して責めるような言い方ではなかった。
「ちゃんと探したら、見つかってたよ。修二は、わたしも、わたしたち、逃げたんだよ」
「四人だったら……なんで……」
 修二がついに言葉を続けられなくなって、すすり泣く声を三人は聞いた。彼の涙がグラウンドに落ちる音を三人は聞いた。彼の隣で、美咲もまた涙ぐんでいたが、修二といっしょに泣いてしまうのは、やはり筋が違うと彼女は思い、地と空の狭間を見つめ、それから涙のこぼれないように、空を見上げた。
「——どこにあるか、みんな、わかってたんじゃないの」
 和葉の言葉に、三人は息をのんだ。
 修二は目を見開き、腕を押し当てて涙を拭いた。朗人は修二がそういう動作をしていることに、星座を目でなぞりながらも気づいた。そしておおげさにため息をついた。
「修二、俺たちは、だけど、やっぱり、もう、間に合わないんだよ。もう引き返せない。ついさっきまで、ちょっとのぞき込めば、見つけることができて、けど、もう、だめなんだ」
 朗人がそう言ったことに和葉は少し驚いたが、しかし、昔からこういうときにこういうことを言える男の子だったと思い直し、つい微笑んだ。
「戻れる。走って、戻ればいい」
「無理なんだよ」
「鍵は開いてる……場所もわかってる。そうだ。俺たちは、どこにあるか知っていた」
「修二」美咲の声は低かった。
「俺は、四人でなら、なんとかなると思ってたんだ。それが、ここまで来てしまった。けど、まだ、なんとか、手を伸ばせば、届く」
「遅いよ……遅かったんだよ」
「わたしたちは遅くて、何もかも、早すぎる」
 四人が振り返れば、そこには四人の三年間を過ごした校舎が暗闇に灰色に浮かび上がっている。人のいない校舎は冷たく静まりかえり、ところどころに青い非常灯を点している。
 しかし四人は振り返らない。
 彼らはもう何も言わなかった。言うべきことはもう何もなかったのだ。もうそれ以上の涙を流す必要もなかった。それは一人になってからでも間に合う。
 四人は振り返らず、森と夜の混ざり合う漆黒を見つめた。やがて視線は白い月をとらえ、そして、やがて一人、また一人と、ゆっくり目を閉じた。


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