杳子は女になれるのか?——古井由吉「杳子」論

学部の卒業論文です(2015年)。ひどいものだ。脚注などを再現するのが非常に面倒なので、目次と序論のみ載せておきます。本文に興味をもたれましたらPDFでお読みください。

目次

・序論
・一章 〈健康〉と〈病気〉
 ・反復としての〈健康〉とその対義語
 ・〈健康〉/〈病気〉の脱構築
 ・「おぞましさ」――異化
 ・「境い目」
・二章 〈女〉と〈少女〉
 ・〈女〉らしさと〈少女〉らしさ
 ・杳子を殺さないために(?)
 ・杳子の「上り下り」
 ・〈女〉と〈少女〉の間で揺り動く/揺さぶられる
 ・食事と生殖
 ・生殖という反復
 ・性交の反復の中で
 ・「境い目」に向かって
・四章 S――「中途半端」な者
 ・主体として、客体として
 ・〈男〉になる
・五章 杳子とS
 ・「谷底」から
 ・「境い目」の反復
 ・海辺
 ・「明るい陽のもと」から「闇」へ
 ・三つの塔
 ・終わらない「上り下り」
・結論

序論

 古井由吉「杳子」は第六十四回芥川賞受賞作となった小説であるが、その選評において瀧井孝作の述べているように、混沌とした、明晰でない印象を読者に与える作品である。古井由吉特有の語彙、文体や作中人物の「病気」と、その反映としての「病的」な語りが、そうした印象を呼び起こすのであろう。
 柄谷行人の述べるように、同一性・連続性といった感覚の喪失を主な「症状」とし、多くの研究者によって様々な「診断」を受けてきた「病気」は、古井由吉の初期の作品群に通底するモチーフである。「杳子」も例外ではなく、古井由吉の繰り返し描いてきた「病気」を担う者として、杳子がいる。「杳子」以前には主に語り手によって担われていた「病気」が、杳子に移し替えられたことを、三浦雅士は「文体にひそむ狂気を、登場人物のなかに封じこめ」ることによって、「主題へと転化」させたのだと読み、渡部直己もまたそれを受けつつ、「杳子」において「彼」と呼ばれ焦点化される人物Sから、杳子へと「病気」の転化される過程を論じている。
 確かに、古井由吉が初期の作品において繰り返し描き、その語りの在り方を規定してきた「病気」は、「杳子」においては杳子のものであり、Sはそこから一定の距離を持って「観察者」として振舞う。しかし、作中でSの自ら語るように、彼自身「健康人としても、中途半端なところがある」ことに留意しなければならない。また杳子の、「病気」と「健康」の「境い目」への志向も、無視できない。彼らは作中において、程度は違えど「中途半端」であり、「病気」と「健康」の間で揺れ動く。
 また、杳子の性に対する態度も、決して一貫したものではない。例えば岩坪一は肉体関係を通して「女」としての描写が増えていくと指摘しているし、後藤聡子は、Sとの性的関係において杳子の発する言語的メッセージと非言語的メッセージが分裂しており、そのことがSに「ダブルバインド的な状況」を強いると論じている。しかし、杳子の性に対する両義性は、単に言葉と身体の乖離ではなく、「女」になることと、それを拒み「少女」になろうとすること、その両者の間での揺れ動きとして捉えられるべきであると私は考える。 
 杳子の「健康」と「病気」、「女」と「少女」の間での揺れ動きが、「杳子」の単純な理解を拒んでいる。そして同時に、S自身もまた揺れ動き、これらの揺れ動きが時には語り自体をも揺り動かし、混沌としたテクストを生み出す。本稿の明らかにしようとするところは、この運動の姿である。
 本稿では、まず「健康」と「病気」の概念を検討する。「杳子」における両者の在り方は、我々が現実に使用する「健康」「病気」といった概念への批判としても読めるだろう。そこから、「境い目」を志向し揺れ動く杳子の姿を見出す。
 次に、「杳子」における性の問題を扱う。杳子の性に対する態度の揺れ動きが示され、更にはそれが描写とどのように関わっているかが明らかにされるだろう。
 そしてその後で、杳子の姉を媒体としつつ、「健康」と「病気」、及び性について論じてきたことを統合したい。これらは従来の「杳子」研究においても中心的に論じられてきたテーマであるが、ここでのまとめは、「杳子」を統合的に理解する足場となるだろう。
 それから、これまでの研究でも示唆されながら、ほとんど無視されてきたと言えるSの、「治療者」あるいは「観察者」の枠に収まり切らない、その「健康」と「病気」の間での揺れ動き、性に対する態度の揺れ動きを見ていく。
 そして最後に、杳子とSの関係性を改めて論じる。両者がどのように影響し合い、すれ違ったか、本稿で論じたことを踏まえた「杳子」の各場面の再読から明らかにし、最終場面の検討へと繋げていくことで、本稿全体をまとめたい。

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