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なぜ神様は願い事を叶えてくれないことがあるのか

それは神様や仏様は「ただ願い事を叶えてくれるだけの存在である」とか人間に対してけっして都合のいい存在ではないからです。

なんだかんだで願い事を叶えるのは行動ありき

祈願して叶うプロセスにはいろいろなものがりますが、結局は自分自身が叶える方向に動かなければ意味がない場合が多いのです。

たとえば「コーヒーが飲みたい」という願望があったとして、それを神社などで祈願して、すぐに本殿から神様が現れてコーヒーを出してくれるなんてことはあるはずもなく、また社務所で神主さんが用意してくれているなんてこともありません。

叶うパターンとしては、その後誰かにお茶に誘われてコーヒーを奢ってもらえたり、スーパーで試供品の缶コーヒーがもらえたりなんて感じの人を使った叶い方はあると思いますがこれも稀なケースだと思います。

しかし、コーヒーくらいなら自分で喫茶店に入って飲めばすぐに叶うものです。そんなしょうもないお願いごとはさすがに叶えてはくれないでしょう。

このようにたとえ話ではありますが、とるにたらない願い事はなるべく自分自身で叶える努力をするように促されると思います。

自分の行動が変わることが最も願望実現の近道であるし、そういう叶い方が多いと感じます。そして叶えにくい願いごとはやっぱり神様にも難しい場合が多いのです。特に物理的な願いごとは神仏に頼むより人に頼んでみたほうが叶いやすいと私は思います。

漠然としたことを祈願していると叶いにくい

よくあるお願いは「就職に関するもの」、「結婚や恋愛に関するもの」であると思います。でもそれらは「いい会社に就職したい」とか「いい人がみつかりますように」くらいでは漠然としすぎて叶いづらいものです。

自分の願い事とは具体的にはどんなものなかのか紙に書き出すくらいはした方がいいと思います。「年収は500万以上」「週休完全2日制」など「ハローワークかここは!」ってくらい具体的に書き出すとなんとなく自分が何を重視しているのかわかってきます。その上でその条件の会社にどういった行動をとると就職しやすいのか考えます。そして「私は条件が〜な会社に就職するために◯◯します。どうぞ後押しお願いします。」と毎日祈願しているとだんだん無意識に刷り込まれていって自分の行動が変わってきます。恋愛や結婚も似たような感じです。

そういった行動がとれるようになるうちにチャンスがめぐってくることがあります。こういったところで縁を授けてくれる、助けてくれるのが神仏の役目なのだと思います。

神様にもそれぞれ都合がある

神仏やもろもろ見えない存在にはさまざまな役目があります。
神社に祀られている神様が全部が全部、人間の欲望を叶えてくれるわけでないばかりか、場合によっては嫌われることだってあります。

基本的には神仏など見えないけど自分を支援してくれる可能性のある存在にもそれぞれ自己利益がありますし、人間を支援する目的でない存在もいるようです。

いきなり何の知らせもなく来て、ずかずかと境内に入って願掛けして帰って行かれても迷惑である場合が多いと思います。作法もままならなければ祈りも通じていない場合があります。またその時は通じても、そのうち忘れてしまうことも多々あります。お役所仕事みたいに融通をきかせてくれることを期待していてはダメなのです。

それでも叶ってしまうパターンも多々あると思います。主にそれらは神社の神様が直接支援してくれたケースよりは、自分自身を守護している存在が側で願い事を聞いていて叶えるように動いたパターン。また自分の無意識に暗示がかかり叶うように行動が変わったパターンの方が多いと考えられます。

神社やお寺で祈願しても必ずしもそこにいた神様仏様が叶えてくれたとは限らないものです。

神社や仏閣にもそれぞれ建てられた目的がある

まず祈願する場所が間違っている可能性があります。

大きく有名な神社やお寺では何か個人的な願掛けをするのに適していないところは多いです。そのような神社仏閣は国家的な守護などの目的で建てられている場合が多く、そこにいらっしゃる神仏も広域社会的な事柄を扱っていますので、個人的な願掛けするよりも感謝の気持ちを伝えるに留めるのがいいと思います。そしてそのような社で何かメッセージをくださる時は「社会的な調和になる行動を心がけよ」みたいなものが多いと思います。通いつめればそういう気持ちになっていくような場所であると思います。

しかし、願いごとはだいたいは個人的な利益のものが多いと思います。そういう願いごとは自分に縁のある神社がいいと思われます。近所でよく通っている好きな神社縁のある神社一箇所に絞る方がいいです。境内や社の周辺いったいに主祭神以外にもいろいろなご存在がおられます。中には願いを叶えてくれることもあるかもしれません。

できれば生まれた土地の神社(産土神社)にお参りに行くのが最もよいと私も考えています。

また、気が滅入っているとか、ネガティブになっている時はあまり神社にいかない方がいい場合もあります。私の場合、露骨に参拝を嫌がられることが過去に多々ありました。また神社の境内とはいえさまざまな存在がいます。よくない霊をつけてきてしまうこともありえます。気が弱っている時はむやみに行かない方がいいでしょう。祈願どころか問題が増えます。

どちらかといえばお寺の方が個人的な悩みや願い事に力になってくれる存在がいらっしゃることがあります。慰めてもらうならお寺の方がいい場合が比較的多いと私は感じます。

人格者だからって神仏が贔屓にするとは限らない

著名な神社仏閣の管理者や身内でもたびたびスキャンダルが発覚したり、内部抗争を行っているケースはよくきくところです。

なぜ神仏の元にこのような人々があつまることがたびたび起こるのでしょうか。
その答えは神仏を扱う人がみんな人格者ばかりであるとは限らないからです。
神仏とはいえ存在を維持するため単純にお世話してくれる人の方が都合がいいのです。

神社やお寺の関係者でなくても、霊能者などや、神仏に遣えている人を見かけることがありますが、非常に変わった人であるケースが多いものです。またそのついている神仏がまともな考えの神仏であるかも怪しいケースもあります。ですので、すごい能力者と出会っても深入りは禁物です。能力と人格は別物なのだと思います。

神仏だってそれぞれに利益があり、たまにしかお参りにこない人よりも、どんな人間であれ常にしっかり定期的にお参りし祀ってくれる人間を信頼し重用するのは仕方のないことだと思います。

そういった意味でも、私は神仏は人間に対してけっして都合のいい存在ではないのだろうなと思ったことがあります。

また、神仏にしろ団体の指導者にしろ単純に馬が合わないのであなたにだけ意地悪なだけかもしれません。そんな時は人間関係と同様に自分と気の合う神仏のところへいけばいいというだけの話です。

人は誰しも自分を幸せにするのが仕事

神社仏閣にお参りするだけが自分を幸せにする方法ではありません。

わざわざ遠方の神社仏閣にお参りし、神仏にお願いごとをしている時間、労力、金銭をより周りの人を幸せに寄与することに使った方が幸せになる期待値が高い場合もあると思います。

神社での祈願はいろいろな意味を持っていますが、それにこだわる必要はないと思います。そこをよく考えておいた方がいいと思います。

作法に問題がある場合もある

少なくともどんな人であれ会社に就職するための面接などは服装に気を使い、時間に気を使い、言葉づかいや話し方にも注意と工夫をこらすことだと思います。

真剣な祈願ならばそれは同じことです。先方の重んじる礼儀作法をできるかぎりする努力が必要になります。

人に何か頼みごとをされた時に言い方が気に入らなかったので断ったという体験は誰しもあると思います。神仏にもそれは当てはまります。こちらには祈願する自由があるのなら、向こうにも断る自由があるのです。

天津祝詞や大祓祝詞を唱えろとまではいいませんが、せめてご祭神の名前をはじめ他にその神社やお寺におられる大神さまや仏尊さまのご開運をお祈りしてから、自分の名前、生年月日、干支、住所などを唱えるか念じ、そして日頃の感謝を述べてから本題に入っていくのがいいと思われます。

お賽銭を放り込み、鈴を鳴らし、柏手を打って、名も名乗らず「◯◯が叶いますように〜」ではさすがに寂しすぎると思います。

祈願よりもまずは感謝

日頃の感謝を忘れないことは重要です。どこかでサポートしてくれているという気持ちをもって日々生活をすること。そのうえで感謝を伝えるために参拝していれば、そのうち力になってくれる機会が増えるのを感じられると思います。

神仏に応援してもらえる人間になろう

個人的な願い事をすると無反応だったり、アドバイスや忠告が何かしらのカタチで返っくることが多いのに対して、社会奉仕性の高い活動にはそこそこポジティブな反応が返ってくることがあります。

志し高く生きることで神仏に応援してもらえる人間になると、また参拝の意義も違ったものになっていきます。神前で誇らしく堂々と祈願できるような願い事を言えるような人間になっていけば人生も充実したものになっていくと思います。


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