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辻山良雄×nakabanトーク「絵と文で本を旅する四十景」@Title 第二回

2019年1月24日に、荻窪の本屋Titleで開催された「絵と文で本を旅する四十景 辻山良雄×nakaban」トークイベントの模様を全3回でお送りします。『ことばの生まれる景色』が3冊目の著書となる辻山さんですが、今回の本の執筆を通して、これまでとは少し違った境地に立たれたように思います。今回はそのあたりの「書き手としての意識の変化」についてもお話いただきました。

全部読めなくても、1ページ見れば、
その本のエッセンスは絶対どこかに入っている

辻山 nakabanさんは、普段挿絵やいろんな本の表紙なんかも描かれたりしますが、そういうふうに「この本に関して絵を描いてください」とか、「表紙を描いてください」と依頼された時に、まずどんなことを考えるんですか?

nakaban うーん、そうですね……ちょっとひねくれた視点かもしれませんが、「赤い旗がはためいている」という文章があったとして、赤い旗をそのまま描いてもしょうがないと思っているんですね。窓に赤い色がちょっと映ってるとか、そういうふうにしたほうが楽しいんじゃないかなあとか、そこはすごく考えますね。

辻山 じゃあ、その本の中身を汲み取りつつ、どこか視点をずらしたりとか。

nakaban そうですね。こういうと、さも僕が全文ばっちり読んでいるかのように思われるかもしれないんですが、もう本当に無理で、特に『細雪』なんか全部で三巻もあって、一巻の途中まででもう……。

辻山 はははは。

nakaban 唯一頑張って読んだのがカフカの『城』なんですが。

『城』カフカ 画・nakaban

辻山 カフカの『城』こそ、読むのはけっこうきつくないですか? ずーっとぐちゃぐちゃしているし。

nakaban 以前にお役所の仕事をしていたときと似ているなあと思いながら読みました。全然OKまでたどりつけない感じとかね。

辻山 「これはあっちにいってください」とひたすらたらい回しにされるみたいな……。

nakaban 「誰々さんのハンコをもらうためには、これをしなければならない」っていうような、そういうことばっかりで。それが面白くて『城』を読んでいたんですが、ぶつっと終わってしまって。うわーってなっていたら、それをそのまま辻山さんに文章にされまして(笑)。

辻山 カフカの『城』の章は、nakabanさんの「ひどい小説ですね」という感想のひとことから始まっているんですよね。その感想以上に、もうこの小説について書くことがあんまりないなあと思ったんですが(笑)。でもそれは作品が「ひどい」ということではなくて、「その世界がひどいんだ」というようなことなんですよね。そういうのがいろいろ詰まってのあの一言だから、それ以降に書くものは無理やり付け足したみたいな感もあるんですが。

nakaban そうですか。でもやっぱり名作ですよね。多くの文学に詳しい方が書かれているとおり、カフカの代表作は『城』で決まりだな、ということになるんでしょうかね。

辻山 だって百年前くらいに書かれた小説なのに、今本当に『城』みたいな世界になってきていますから。どこまでいっても核心にたどりつけなかったり、たらい回しにされて途方にくれる、みたいな。

nakaban たしかに。

辻山 カフカはそれを実際に見ていたわけではないのに、なんでわかったんだろうなあと思って。本当に不思議な小説ですよね。

nakaban Titleの二階で展覧会をしていたときに、お客様とお話しする機会が結構あったんですが、「あー、ここに展示されている本、全然読んだことがないよ」という、ぼやきのような、まあ言ってしまえば「こんな基本の本も私は読んでいないのか」みたいな反応がすごく多かったんですね。僕もどちらかというとそっちの立場なんです。辻山さんは、たくさん読んでいらっしゃる側ですよね。

辻山 うん、まあそうですね。最終的に選んだ作品は古典が多くなりましたが、私が大学生くらいの頃に読んだものが多いんです。それは多分、自分との関わり方の違いなんですね。もちろん今も面白い本は日々発売されていますが、なんというか、今読んで面白いなあと思っても、結局頭だけが喜んでいたりする部分が多くて。でも若い頃に読んだ本って、もっと「文章を食う」ような勢いで読んでいたものが多いんです。そういうものこそ、自分が文章を書こうとしたときに映像が浮かぶものが多かった気がします。

nakaban なるほど。この本を作ることになった時に、「読んだことがない」というサイドに僕は立っていたほうがいいなあと、わりと最後まで思っていたんですよね。もちろん読むのが遅いということもあるんですが、どこか1ページを見れば、その本のエッセンスは絶対どこかにあるんだということに、あるとき気づいたんです。
 詳しくは「本を全部読めませんでした」というエクスキューズ的な僕のあとがきをお読みいただきたいと思うんですが、これは今回、僕なりの発見でした。1ページ見れば、その本の何かが書いてある、ということに本の読めない僕も希望を見出したという(笑)。

辻山 でもそうやって描かれたnakabanさんの絵は、本当にその本の雰囲気をうまくつかんだような絵ですよね。

nakaban あ、そう言っていただけるとうれしいです。

辻山 たとえば、この『ことばの生まれる景色』には、写真家の齋藤陽道さんの本が出てくるんですが、nakabanさんのこの絵だけで、「あ、これは齋藤さんについて描かれた絵なんだろうな」というふうにわかる人が多かったりする。それはやっぱり、色合いだったり、それこそ言葉にならないような「何か」をうまくつかんでいらっしゃるんだろうなあと。

『声めぐり』『異なり記念日』齋藤陽道 画・nakaban


nakaban ありがとうございます。齋藤陽道さんの絵に関していうと、描く前に、実は自分のスクラップブックの中のある写真を見たんですね。それは女の子が庭でグライダーを飛ばしていて、すごく綺麗な光が当たっているという写真で。キラキラしていて、ものすごい静けさだったんです。グライダーという動くものがあるのに静かな世界で、唯一無二の写真だなあと思ったんですね。それがヒントになってあの絵を描いたんです。
 その写真は齋藤さんの撮った写真ではないし、グライダーなんて齋藤さんの本には出てこないんですが、僕はそういうふうにひらめいたことに関しては意外と信じることにしていて。だから、まずは失敗してもいいからこの絵を描いてみよう、と思って描き始めたんです。この絵は大きい紙じゃないといけないと思って、それで他の絵とはサイズ違いの絵になりました。


遠慮を外して、思う存分のびのびと書いた

nakaban この本の辻山さんの文章は、展示の時とは別のものなんですよね。

辻山 そうです、後からエッセイとして書き下ろしました。でも、nakabanさんの絵が、文章を書く時には頭の中にどこかしらあったので、やっぱり何もない中で書くのとは全然違いましたね。nakabanさんの絵がなんとなく「土台」のようにあって、そこに足を下ろして踏ん張りどころにして書いたなあという感じがします。
 この本の文章は、実は途中でガラッと書き直しているんです。「もう少し、辻山さん自身のことを書いてください」というふうに編集者に言われまして。初めは書評のような、もうちょっと硬めの文章だったんですね。冒頭に入れた星野道夫についての文章も、初出は『未明』という雑誌なんですが、そのときは書評のような感じで始まっていたんです。でも、本に入れた文章では、私が去年の夏に北海道でヒグマを見たという話から始めました。星野道夫について書くことと、自分がヒグマを見た感動や心の動きというのは少し違うことだと思うんですが、そういうものを入れていくことによって、だいぶ自分の体温が伝わる文章になったなあと思います。

『旅をする木』星野道夫 画・nakaban

辻山 この『ことばの生まれる景色』は、私の書いた3冊目の本なんですが、これまでに出した2冊は、自分が本屋をはじめた話とか、本を紹介する本だったんですね。「逃げ」じゃないですけれども、どこか「書店の店主として書いている」という意識があったんです。でも今回編集者から、「もう少し自分のことを入れてください」と言われたときに、自分のなかで書くことへのスイッチが入りました。まあ、今まで「書くことが本職ではない」という遠慮があったんですよね。その遠慮を外して、一人の書き手として思う存分書いてみよう、と。
 編集者からは、毎回感想を2、3行くらい書いて戻してもらったんですが、アーヴィングについての章を読んでもらったときに、「のびのび書かれていてよかったです」と書いてあって(笑)。それを読んで、「やっぱりのびのび書いているのがいいんだ!」と思ったんですよね。自分らしさが、文章の中に出ていれば出ているほどいいんだなあということに、そのことをきっかけに気がつきまして、それで最終的には、たとえば自分の育った家の話とコルビジュエの『小さな家』の話を結びつけて書いたりとか、そういう話になっていきました。だから自分の中でも、「書く」ということに対して、この本のおかげで変われたなあ、という気がします。

nakaban それはナイスアドバイスですね。本当にそのことが一番大事だと思う。僕も本や音楽が大好きで、アトリエが本やCDで埋まってるといっていいくらいなんですが、ともすればレファレンス主義になってしまって。たとえば中世ヨーロッパのことを描くなら、まずはあの本を開いて並べないと描けない、みたいな。そのレファレンスによっていいものができることもあるんですが、やっぱり個人史というか、自分の当事者意識がどんどんなくなっていくから。

辻山 その中にどれだけ「当事者意識」が入っているか、ということですよね。

nakaban そうなんですよ。レファレンスもありながら、当事者意識がないと。それはどんな小さなイラストレーションの仕事でも、必要なことだと思います。

辻山 うん、そうなんですよね。「間違えちゃいけない」とか、「上手く書こう」とか思い始めると、どんどん自分から離れていって、きれいなものにおさめてしまうというか……。

nakaban みすず書房から出ているマティスの『画家のノート』、僕の大好きな本なんですが、マティス先輩によれば(笑)、物と……例えばこのウィルキンソンのジンジャーエールの絵を描くとして、「これを描く」と思っていてはダメで、自分と対象との間の「何か」を絵にしなさい、って書いてあったんですね。ウィルキンソンのジンジャーエールのことばかり考えるのは片手落ちだと。対象のことだけではなくて、自分との関係のことが作品になるんだ、と言っていて。その文章を読んでからマティスの絵を見ると、あのへなへなーっとした線とか、ああいうのも本当にいいなあと思って、ますます好きになっちゃうんです。これはすごく大事だなあと思います。

辻山 そういう「当事者意識」ということでいうと、実はこの本を書くために結構いろんな場所に行ってるんですよ。一番わかりやすい例でいうと、石牟礼道子さんについて文章を書こうと思った時に、水俣に行ってみたんです。なぜかというと、石牟礼さんについては、いろんな方がもう書かれていますから、今更自分が何かそれに付け足すこともない。もちろんご本人にお会いしたこともないので、結局その文章の素晴らしさについて書くとか、頭で考えたようなものになってしまうだろうなと。それで水俣に行って、これが水俣湾で、ここでチッソが流されたのか、とか、そういうのを見て。まあ見ただけなんですけれども(笑)、ただそれだけで、「当事者意識」のようなものが自分の中にも少し作れたような気がします。nakabanさんと、このジンジャーエールの関係性みたいなものが、やっぱりその場に足を運ぶことで少し、作れたというか。
 あとは庄野潤三さんのご自宅が、小田急線の生田というところにあるんですが、そこにも足を運んでみて、「これが『山の上の家』かあ」と思ったりとか。何もなかった対象と自分との間に、そこに行ってみることで何かが出てきて、そこを足がかりに書けるなあ、というような。だからあちこちに行けて、これは楽しい仕事でしたね。

nakaban その場所に行くって大事ですよね。インターネットで調べるだけだとやっぱり全然わからないし。
辻山 写真もまあ、今だとネットで「これが水俣の海だな」とかそういうのは見られますけどね。でもやっぱり実際に行くから、なんとなく説得力が乗り移るというか、そういうことはあると思います。
                         (第三回につづく)

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