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平等とは、平等じゃないと気づくことから

書こう、と思った、フリーライターのaoikaraです。

最近にしてはとても珍しい。肩書きの「フリーライター」を復活させてみた。仕事を満足にできていなくて、「ライター」なんて名乗っていいのだろうか、と思って外していたのだけれど、そもそも初めて読む人には誰なんだよと思われそうなので、フリーライターですと名乗ることにした。今のところ。また気分が変わるかもしれない。


私は、私として生まれてきて、困っていないことも、困っていることもある。私のさまざまな属性の中で、マジョリティ側で属しているから、困っていないこともたくさんある。気づいていないことも含めて。そうではないマイノリティ側の人が困っていることは、困っている側がなんとかしなきゃいけないのって平等じゃないな、と個人的には思う。


私に置き換えるなら、つり革の話。何度かnoteでも話をしたことがあると思うけど、日本人女性の平均身長より少し足りていない背丈の私にとって、電車のつり革の位置は高い。手の平が真っ赤な跡がついてしまうくらい、位置が高くて腕がつらい。

ヒール靴を履けば、まだ少しマシ。体幹を鍛えて何もつかまらなくてもよろけないくらいになればいいかもしれない。それなら私がヒール靴を履けばいいじゃないか、体幹を鍛えればいいじゃないか、と言われたら、そうなんだけど、困っていない側の人に言われたら、なんというか、もやもやとはする。

だからといって、電車の運転手さんや車掌さん、降りた駅の職員さんに何か言うわけではない。結局、腕が痛いと思いながらつり革につかまる。

つり革が可動式で、ちょうどいい位置でぴたっと止まる(そういうブラインドみたいなのなかったっけ)やつだったらいいのにな、とか想像してみるけど、安全面を考えると厳しそう。背が高い人には不向きだし、とか考える。

本当に変えたいと思ったら、きっと鉄道会社とか、国土交通省とかに意見を伝えるのかもしれない。けど、本当に変えたいわけではない。私の場合は。耐える、だって耐えるしかないから。多くの困っている人も同じじゃないか。ただ耐える。耐えることが良いことというわけではなく、ただそうするしかないから、と思う。


でも、自分が生まれてきたもので、不便だと感じる場面が否応なくあるとしたら、それは平等ではないと感じてしまいそうだよ。自分が努力する側なのかと思ってしまいそうだよ。私の場合は、多少背が低いくらいだけど、そうではない、もっと困っている人はいるわけで。

だって大勢の人は、なんにも考えず、考えたこともなく、あたりまえのようにできてしまうことが、できないのだから。できない側が自分のせいでもないのに努力しなさいって、仕方ないよねって、それは強者とマジョリティ側の意見だなと思ってしまう。

自分が考えたこともない、感じたこともない、ことを考えなければならない、感じなければならない、人の考えや感じたことを聞いたとき、仕方ないよねと言うよりも、一緒に考えたり感じたりしたいと思う。

綺麗事だよね、わかる。わかってるし、私は善きことを言える立場の人間ではないとも自覚してるけど、でも思う。それだけ。

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