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「働けない女」の背中


**「働く女」についてのブックレビュー②

岸政彦『断片的なものの社会学』**


「働く女」をテーマにしたブックレビューです。2019年の暮れも押し詰まって突然アップし出した顛末についてはこちら

 実は、「働く女」といって最初の思い浮かんだのは、母の姿だ。正確には「3人の子どもをもつシングルマザーで、働かなければならないが、どうしたらよいのかわからず働けない女」が、私にとっての最初の「働く女」の姿だった。

昭和30年代生まれの母は高校卒業後、美大を目指すも3浪目で親に「学費は出さん」と半ば勘当され、長野県の山荘に住み込みでアルバイトをする中で父と出会い、知り合って数か月、23歳で婚前妊娠、駆け込みで結婚することになる。結婚前夜、父に「実は離婚歴がある」と告白されるが、乗りかかった舟から降りることもできず、娘(私)を出産。あれよあれよという間に3児の母となるが、31歳で離婚。高卒で就職に有利な資格も社会人経験もなく、3人の子どもを抱えて途方に暮れた母の背中が、私にとって最初の「働く女」の姿だった。シングルマザーの一つの典型のような「働けない女」の背中から学んだことは多かった。二の轍は踏まないと、私は強く心に誓った、はずだった。

 それから約20年。母の“失敗”を教訓に生きてきた私は、やりたいことを仕事にして、好きな人と結婚して、子どもを授かって、自分で仕事をやめて、転居をした。全部自分が選んだ道のはずなのに、残ったのは「こんなはずじゃなかった」という思いだ。母から得た教訓はすべて生かして、母とは正反対の生き方を選んだつもりだったのに、気づいたら私も「働けない女」だった。とかく理想の「働く女」は難しい。

私たちは私たちの人生に縛り付けられている。私たちは自分の人生をイチから選ぶことができない。なにかとても理不尽な経緯によって、ある特定の時代の特定の場所に生まれ、さまざまな「不十分さ」をかかえたこの私というものに閉じ込められて、一生を生きるしかない。私たちが生きるしかないこの人生というものは、しばしばとてもつらいものである。
(「笑いと自由」岸政彦『断片的なものの社会学』、p97-98)

 岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版、2015)は、「何事もない、普通の」物語を生きている人々の語りの断片をぽつぽつと、石を並べるように綴られた一冊だ。「働く女」として生きていくとき、私がイメージしていたのは自己実現している「かけがえのない自分」の輝かしい姿だった。もともとが「本を思うさま読みたい」という自分勝手な理由で「本を作る会社の人」になったのに、それでついでに自己実現しようなんてちょっと虫が良すぎたのだけれど。とにかく、そういう輝かしいあるべき自己イメージと、母や自分の働けないざまを比べて、どうにもままならない自分の人生を呪ったものだ。

母の半生や、自分の来し方を思うとき、もっとも強く感じるのは「仕方なかった」という思いだ。一度しかない人生を「仕方なかった」で済ませるのは、悔しい。悔しいけれど、もうここまで来てしまったという現実に打ちひしがれてしまう。

 そんなとき本書を読んだ。泣きたいのか、笑いたいのか、今ある幸せを噛みしめたらいいのかわからなくなった。ただ後ろからぽん、と肩を叩かれたような読後感は、「ないない尽くし」に見える母の人生や、その人生を遠慮なく吸い取って自由に生きてきたはずの自分の浅はかで凡庸な人生を、少しなら肯定できるような気持ちにさせてくれる。

ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もう一つだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ。(「笑いと自由」岸政彦『断片的なものの社会学』p98) 

不自由さ、凡庸さ、仕方のなさという「現実の果て」で泣き、もがき、苦しんできた母も私も、それでもちゃんと自由なのだと思うと、自分自身がかかっている呪縛から、ふと自由になれる瞬間が訪れる。これは読書をする者への救いだ。


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