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メインプロットを変えない推敲。20230406thu289(GM全記録・有料)

29041文字・300min


  1. 男の性格

  2. 膨らませても物語のメインプロット(筋)は逸脱しない

  3. キャラのせりふの掛け合い

  4. ネコの存在感

 

プロローグ 菜の花畑にて

■湯善納骨堂前の菜の花畑にて

 目を覚ましたとき、男は菜の花畑に倒れていた。

 鼻についた黄色い花粉を手で払い落として、男は顔をもたげた。男が乗っていた自転車はアスファルトの道の端に、スタンドが立てられた状態でちゃんとそこにあった。

 男は上半身を上げて盗まれたりした物はないかと自らのからだの節々を触って、ひとつひとつ検分をしていった。黒いパンツは臀部(でんぶ)でつぶれた菜の花で濡(ぬ)れていた。紺色のシャツはどこも汚れてはいなかった。男は安心して、ため息をひとつつく。それにしても、男の胸元に、なにかひとつ釈然としないなにかがのこった。

 いまなぜ自分は、この菜の花畑に倒れているのだろう。

 男は、思考を始める。思考は、めぐり始めると脳内で浮遊する。思考それ自体が意思をもったウミヘビのようになって脳内で自在に泳ぎまわる。

 男は頭をふった。男は脳内に浮遊する思考がウミヘビになってするすると入りこんできて棲み着かれるのを、拒んだ。

 天気が良かったからだ。

 こんなに青い空が澄み渡った天気のいい日に、だれかに頼まれもしない(そもそも男に依頼主などどこにもいないが)思考実験をみずから始める必然性はどこにもなかった。

 男はそのまま湿った菜の花畑のなかであおむけになった。草の青い匂いが鼻を突いた。春の青空はおぼろ雲がわたあめのように浮かんでいて菜の花畑の額縁に入った油絵のように見える。

「この道、五十メートルさきの十字路を、高崎方面へ右折です」

 女の声が聞こえる。男はもう一度、頭をもたげる。目の前はアスファルトの道路だ。男は頭のうしろで腕を組んで菜の花畑に寝そべった。両足をハの字に広げる。それから目を瞑(つぶ)って耳を澄ませた。

 右の草陰で、シラサギが二羽、ばさりと飛び立った。雨がふった翌日に湧(わ)いた虫柱が頭のまわりでうるさく騒(さわ)ぐ。それから足元にある自転車の向こうを、車が二台、通り過ぎた。

「移動手段を、電車と徒歩に切り替えます。逆方向にむかって、そのまま三キロメートルをあるき、左へ曲がります」

 女の声は、自転車についたホルダーから聞こえる。スマホの地図アプリの女の声だった。男は、地図アプリの女の声が完全に沈黙するまで、そのままじっと春の青い空をながめていた。筋になったひこうき雲が二本、時間をずらして南で交差していった。

「妙だ。記憶の一部をどこかに落っことしてきたみたいだ」

 男は首をかしげて、青空に向かって呟(つぶや)いた。

 記憶をどこかに紛失している。

「やはり妙だ。記憶をどこかに落としている」

 もう一度、男は青空にことばを吐きだした。

 男はほんの先ほど、自分が発したことばに、自信をもつことができなかった。もしかしたら、いまこの春の菜の花畑に横たわる男のほうが、本来あるべき世界に生きている男が落とした記憶なのではないか。菜の花畑に倒れた男には、そうとも思える。そうは思ってはみたものの、実際のところ男には、この事象は自分が生きるこの世界で本当に起こった事象なのかどうか、分からない。湧いた疑念がまた形を持たぬ思考となって巡り始める。しかしながらこの事象は、男自身で自ら証明できる類の事象ではなかった。

 数秒前に、男の口から発せられた、輪郭も意味も保持していたはずのことばは、まるで宇宙の黒い真空を空気で溶かしたような青い空のなかに、溶けて消えていった。

 とつぜん、男に激しい頭痛が襲った。それは男が生まれてから経験したことのないほど激しい頭痛だった。男がかぶる頭がい骨に、ぴったりと収まっているはずの大脳はちぢこまって、そのすき間に、線虫が大量に孵化(ふか)して余地なくうじゃうじゃと這(は)っているような、だ! このままだとおれの脳みそは線虫に食い尽くされてしまう! これ以上をふかく想像するとおれは気が狂ってしまう! 男は恐怖に囚(とら)われた負の思考をみずから強制的に断念させるために、なんでも良いほかのことを思い描こうと試みる。急いで別のことを思い描かなければ。いま男の脳みそを虫食って占領せんとする線虫を追い出さねば。なんでも良い。消化器でもホースの水でも木刀でも揮発性の高い爆発物とライターでも女の裸の大群でもなんでも。なんでも良い。

 男は、ふるえる手を、青い大空にすじ状に浮かぶおぼろ雲に伸ばす。わたあめ状の雲をつよくつかむとそれは、切れ味がするどそうな鉈(なた)に変わった。その鉈はずっしりと重い手ごたえがある。切れ味はするどい。男はそんな鉈の柄を利き手でつよくにぎって、こんどはいきおいよくみずからの盆の窪めがけて一気に振りおろした。

 どさっ。

 スイカほどの重みのある物体が菜の花畑に落ちた。男はそれを踵(かかと)で蹴りあげると、物体は菜の花畑の奥へところがって消えた。

 時間は迫っていた。こんなところで面接に行くまいかどうか迷っている余裕はなかった。男は菜の花畑から立ち上がって、地図アプリの女の声に従って目的地に行くことに決めた。

 向かってきた高速の側道を道なりに自転車のペダルを踏み始める。すると地図アプリの女は案内方向を正しい方角にもどした。このまま走ればあと五分で目的地に到着する距離だった。青い空は、急に黒くなり始めた。


 

一章 三月十七日・金



 男は、駐車場の敷地に入って、高速道路を見わたすことのできる田んぼに面した、背の低いコンクリートブロック塀の上に設置されたさびた金網に、自転車をチェーンロックでくくりつけて、ダイヤルを一コマだけずらした。ヘルメットをはずしてそれをハンドルバーにぶらさげる。ヘルメットの内側、それと背中にも、汗がびっしょりとへばりついている。両方の手のひらは、バーを強く握りすぎた跡で真っ赤だった。

「大丈夫だ、怖くない」

 男は独りごとを呟(つぶや)いた。

 男は、半分ひらいた、電気が止められた店の自動ドアの前に立った。《喜ちゃん飯店ただいま準備中デス》とマジックペンで手書きで書かれたホワイトボードが、ガラスにかたむいてかかっていた。

 店内からは、にぎやかな声が聞こえてくる。

 男はうつむく。男が立つ玄関マットは客足の油で黒色に毛羽だち《喜ちゃん飯店》の笑顔のロゴが汚れていた。

 いま男は異常なほど緊張をしていた。両の太腿は、水が入った田んぼに突きささった杭(くい)のようだ。くるぶしは踊って倒れる寸前のジェンガのようだ。重心をうしなって利き足で踏ん張って顔面は固くこわばった。からだの体勢をどうにか立て直して、しびれた手を、もう一度、グーパーする。それから胸板に右手を押しつけた。心臓は早鐘を打つ。脈動をおさえこもうと試みるが無理だった。「大丈夫だ、怖くない」と男はもう一度、目をつぶって息をおおきくすいこんだ。

 男は自分を呪う呪詛(じゅそ)を唱える。男はふがいない自分を嗜(たしな)め、咎(とが)めたて、囃(はや)し立て、それからまた「大丈夫だ、怖くない」と鼓舞をする。他人を喰(く)ってかかる怪物になればいいのだ。男はもう一度、自分につよく念じる。

「大丈夫だ、怖くない」

 人間なんか怖くはない。男はアカの他人を承服させるように、もうひとりの自分になん度も言って聞かせる。

 男は声を張りあげて店内に向かってはっきりとあいさつをする。

「こんにちは。先ほど電話でご連絡をさせていただいた。オザワです」

 男の口から発せられた、その声量は、男自身でもおどろくほどの大きなボリュームだった。店内の笑い声は止んだ。男の両脚が、店の敷居を跨(また)ぐのを、渋った。

 男はさらなる沈黙が怖かった。沈黙。さらに柔らかな沼に沈みこんでいくような進展の見込みのない事象に関して男は、それ以上に関わることはやめにした。ここは何も考えずにのれんをくぐる。行動第一。案ずるより産むがやすしだ。気を取り直して男は足を店内に踏み入れた。

 男はのれんをあげて、店内に顔を見せる。笑顔を努めたが、男はやはり過度の緊張のために、いま自分の顔が歪んでいるのか把握ができない。

 その中華料理店の店内は、思いのほか、暗かった。夜の喫茶店のようだった。入ってすぐ右手に、屋外に張りだした四席のテラスを隔てる窓辺に伝って細くながい水槽が設置されてあった。なかでグッピーが数匹光っていた。左肩が明るい。ふりむくと小上がりの座敷の南側の窓すべてにロールカーテンが下がっていた。それらが店内に入る太陽光の直射を遮っていた。

 店はランチ営業が終わってホールは後片付けをし終えたあとで、電気を落として夜営業のための仕込みの最中のようだった。天井にはステンドグラスのランプシェードが下がって、店内はオレンジ色の暖色光で包まれている。

 店内にいるスタッフ全員が固唾を呑んで、のれんをあげた図体の大きい男を見つめていた。

 男の眼球はみるみると乾いていった。額の生えぎわと両方の腋(わき)に、じっとりと冷たくいやな汗が噴きはじめる。キッチンには全員顔色が浅黒い男の従業員が四人いて、みな手を止めて、男に笑顔と白い歯を見せていた。

「こんにちは。二十分ほど前に、突然、電話をした、オザワです」

 男は、こんどは冷静になって、さらに一段、低い声で、もう一度はっきりと区切って、言ってみた。

 すこし冷静を取りもどした男は、いまの自分の顔が、いったいどのような種類と質の顔面をしているのか、手に取るように分かった。

 中学から高校にかけて男は、毎朝洗面台にある鏡の前に立って笑顔の練習をした。毎日、毎朝、晴れの日も雨の日も雪の日も大震災の朝も都心の地下鉄の大惨事の朝も、笑顔の朝練習をくりかえした。ほほえみ、にが笑い、ニヤニヤ顔、にっこり顔、ふくみ笑い、ファストフードのスマイル、肩をたたかれふりむきざまのおどろいた破顔、テレビのクイズ番組で優勝を決めるラストの問題で正解した瞬間のあの驚嘆の笑み、男はそれらを六年間一日も休むことなく熱心に微笑み練習をくりかえした。それでもその六年の間の、男の表情はずっとニキビが吹いた仏像かこけし顔のどちらかが関の山だった。その頃から男は目立たない存在だった。運動会でも文化祭でも授業中も男は自分の気配を消せば、いつでも世界から自分の存在を消すことができた。それはパソコンのディスプレイにあるファイルを左端のゴミ箱にドラッグして消すようなくらい容易いことだった。が、いまの男はニキビ面のこけし顔の中高生ではない。男は顔に笑顔を造って見せる。

 男は頭に描いたことばに字義どおりの意味を噛(か)んでふくませ、それから口をひらいてゆっくりと言った。

「いやあ、お店に活気がうかがえます。その活気につられて、ぼくも、大声になっちゃいました」

 男の顔面にスタッフ全員の目が集まった。男は心臓が止まりそうになる。

 女がカウンターに腰をかけて半球状に盛られたチャーハンにレンゲを、カチャカチャとさしていた。男にふりむいて手をあげた。

「さっき電話くれたオザワさん? こっちこっち」

 男は、うながされたまま背の低い女の隣のカウンター席に腰をかけた。厨房はオープンキッチンになっていて老コックと若い衆が三人、立っていた。男の目の前に、坊主頭の慇懃(いんぎん)な笑みがヌッと現れる。水の入ったコップが男の前に置かれた。男は坊主頭に頭を下げた。

「お、兄さんも、ハゲてるねェ! そこのタツとおなじ若ハゲじゃん!」

 老コックの真横に立つ赤髪の男は両腕を伸ばして、タツと呼びすてにされた坊主頭と男にむかって、それぞれのひとさし指をむけた。

 男はにが笑いをした。それから自分の五分刈りの頭を撫(な)でた。

「お兄ちゃん、そういうのまだ早いから。初対面のひとにむかって」

 背の低い女は兄を睨(にら)んだ。

 赤髪の男は、出された片方の指をピストルの形に変えて、引き金をひく真似をした。

「ねえ」

 背の低い女は笑みを男にむけた。

「私は、ナオ。それからあっこの暴言を吐いたアホは、リョーマ」

「チス」

 リョーマは笑った。無邪気な少年のような笑顔だった。それからリョーマはとなりに立つ老コックの肩をたたいた。

「これがオヤジで、喜ちゃん飯店のヨッシーです。みんなからはマスターと呼ばれてまっすたー」

「…」

「痛ってえっ!」

 テラス側のギョウザを焼くまるい鉄板の前に立つ小ぶりな筋肉質の男が盛りあがった腕を揉(も)む。

「オメエがわらう役目だろうがッ!」

「おれトモキ」

 リョーマに殴られた男は小声で笑った。

 男はメモ帳を取りだそうとするとリョーマは二本の指ではさんだ名刺を男の前にさしだした。名刺は銀色のラメで光っていて「沼代喜史」と刻印されている。男は立ち上がってマスターとリョーマに深々とお辞儀をする。マスターの肌の色は浅黒い。料理人というよりもまるで建設現場の棟梁(とうりょう)の印象だ。

「リョーマさんは元騎手なんだ」

 タツが笑った。

「え、ホントなんですか? あそこの高崎競馬の所属だったんですか?」

 男は目をまるくしてリョーマみる。リョーマは笑って話をついだ。

「この坊主のタツは元競輪選手だ」

 タツは全体が日焼けなのか黒く焼けてアゴに無精髭がのびる。そう言われると男はタツの坊主頭とふとい腕が競輪選手の体格に見えてくる。

「で、この、背の小さいのは元ボートレーサー」

 リョーマは小柄なトモキの肩を叩いた。

「え、桐生競艇の? するとみなさん、もとは賞金で飯を食べていた方たちなんですか。それはすごい」

 男は喉を上げた。三人は顔を合わせてニヤニヤと笑う。

 男は肩を落とした。

「なわけ、ないじゃん」

 ナオは笑うと厨房で笑いが起こった。

 男はすこし落ち着いて肩に下げていたデイバッグを膝に下ろした。

「履歴書、持ってきたんですよ」

「え? さっきの電話からもう?」

「いや、これはたまたまカバンに残っていた一部なんです」

 男はナオに差しだした。

「この履歴書の写真はハゲてねえじゃん」

「前の免許証のコピーなんで」

「なるほど。免許証のカラーコピーをココに貼りつけて。カシコイね」

 男はこの三年の間は、事情があって九州に住んでいた。それで先月の免許の更新と同時にここ田舎の群馬に帰省したことを簡単に説明した。

「ってことは三月が誕生日か」

「はい、三月の二十日です」

「そこは聞いてねえから」

 リョーマは笑った。

「おれは二十九日で三十四歳だ。よろしく」

 男はうなずいた。

「ちょっと待っててな」

 とリョーマは男に鍋に入った大量の炒りごまをふってみせる。

「これカタついたら、メニューの略語と伝票の書きかたを教えるわ」

「助かります」

 男は頭を下げる。すると男の肩口のうしろから手がすっと伸びてきて、ナオがもつ履歴書をつまんでもっていった。

「あれが、マスターのオクサン。ウチの、ゴッド・マザー。この店では神よりもエラいんだよ」

 ナオは男にウィンクをした。オクサンはサンダルを履いたまま小上がりにちょこんと腰をかけて、男がもってきた履歴書を吟味しはじめた。オクサンが手をあげると女性スタッフたちは集まってきた。ナオはカウンターでひとしきりチャーハンをほおばったあとレンゲを、オクサンの前で腰をかがめた白いポロシャツにブルージーンズを穿(は)いた細身の女性にむけた。

「あの美人さんがミホ。リョーマの奥さん」

「ということは、若女将ですか」

 男は言った。

 ミホは頭を下げた。

 男はミホに頭を下げる。

「ミホさんでいいわ」とナオは言った。

「あんた、名前は?」

「アキトです」

「じゃあアキちゃんだね」

「え、あハイ」

「あの、ミホさんの横にいる人はどなたですか?」

「マミちゃん」

「え、はあ」

 男は頭が混乱しそうになる。一度に覚えるにはひとが多すぎた。男はカバンからメモ帳とボールペンをとりだした。するとナオは男にメモ帳を閉じさせて、首を横に振った。

「覚えないおぼえない。いきなりは絶対に無理だから。ここにはゴッドマザーのやり方があるの」

 ナオは笑った。

「覚え方なんか、当人の勝手だろうがッ!」

 リョーマはナオに向かって怒鳴りつける。

「うっせえな、てめえはキッチンに引っこんでろよ! ホールはこっちに任せるんじゃなかったのかよッ」

「キッチンひとつまわせねえ、おまえが言うなバカヤロウッ!」

 リョーマとナオの怒号が飛び交って男は肩を窄(すぼ)めた。

 リョーマは顔こそは笑ってはいるが目は座っていた。

 ナオも笑ってせリョーマに突っかかっている。男はナオの目は怯(おび)えているように見えた。厨房の男たちは勝手口から姿を消した。

 兄弟の口のつば競り合いはしばらくつづいた。

 男は店内を見渡した。それからメモ帳を広げて、把握できるところだけを急いでメモに書き足していった。さっき、入り口を入って右手に横長の水槽があって澄んだ水にグッピーが泳ぐ。ナオと男が座るカウンターは六席だ。グッピーの水槽の壁より東はビニールのテントが張りだしてテラスが設えてある。そこには卓が四席あった。男の背は南側で座敷がある。いまは小上がりにゴッド・マザーが腰かけていてそのまわりに女子が中腰でしゃがんでいる。窓の外は目の前に田んぼが広がる。座敷の玄関側には角卓が二つ。柱をはさんだ西の八畳間に六卓ある。トイレへの通路をはさんでふすまが閉まる。個室席なのだろう。ふすまの手前に銀色の大きな魚がうねって見える。シルバーアロワナ?

 なぐり書きで書いているとリョーマがキッチンからまわりこんできて男の隣の席に座った。

「店内の図面ですか? おれが絵で書いてやりますよ」

 リョーマは笑って言った。

「助かります」男は頭を下げる。

「いいよ。頭なんか下げなくって、アキちゃん。頭上げなよ」

 顔をあげた男はリョーマの顔を近くでまじまじと見た。二重の目がきれいな青年だった。

「え、アキちゃん?」

 男はまぶたを瞬(またた)かせた。

「そうさ、アキちゃんさ。アキちゃんはもう店の家族なんだから」

「かぞく」

「そうさ、喜ちゃん飯店ファミリーさ」

 家族。ということばに男は、一瞬ドキッとした。

「で店の地図はどこに書く?」

「できればこっち側の表紙におねがいします。ポケットからだした時すぐに見られるアンチョコにしたいんで」

「オッケー」

 リョーマは笑って、店名とロゴが入ったボールペンでするすると店内の図面を書いていった。○や□で卓や座敷をわけて書いて、数字の番号をつけていった。

「名前はアキちゃんと呼ぶんで、いいやんね」

 リョーマはもう一度、店内のスタッフに確かめるように言った。

「いいんじゃないの、アキちゃんで」

 座敷からオクサンの声が聞こえた。それからまわりは男をアキちゃんと呼ぶようになった。色々な人が声をかけてきた。

「電話からずいぶんと早かったけど、ここまで何できたの?」

「自転車です。ロードバイクで」

「ロードバイク?」

「レース仕様の、スピードがわりと出るやつです」

「そんな太った体格で?」

「それは関係ねえだろ。レーサーじゃねえんだから」

「趣味だよねぇ、アキちゃん」

「雨が降ったら、ここまで出勤はどうするのよ?」

「家には軽トラックがあるんです」

「遅刻なんかしてもらったら困るよ!」

 オクサンはいうと場は静まりかえった。

 ナオは笑って男に舌をだす。

「え、あなた慶應(けいおう)大学なのかい?」

 オクサンは素っ頓狂な声をあげた。

「履歴書に書いてありますけど、通信なんです」

 リョーマとナオに挟まれて男は肩身をせまくしたまま椅子の上で、背骨を捻(ねじ)った格好で答えた。

「中華料理屋のバイトに学歴は関係ないでしょ」

 オクサンが指をさす履歴書をのぞきこんだ若い女が、ひとこと言った。男はメモ帳で確かめる。マミだ。彼女は童顔でふっくらしていた。髪型はおカッパだった。男はマミを高校生と踏んだ。こんどは男は席から立ち上がった。

「学生さんですか。若々しいですね。初めましてこんにちは。よろしくおねがいします」

 男はまた笑顔を作り直して、頭をゆっくりと下げた。

 マミの顔は急に不機嫌になった。窓に向かってそっぽをむいた。

「あの子ね。いま六ヶ月」

 男はナオのことばを頭で処理するのに苦労した。

「え、あ、なにが、ですか?」

 男は混乱を極めた。目玉が東西、別の方角を見ているようだ。

「いまコレね」

 ナオは片手で腹がでっぱるマイムをした。

 それでもまだ男の混乱は収まらなかった。

 マミに悪いことを、失礼なことを男は言ってしまったのではないか。頭のなかで数秒前のことをなん度も反芻(はんすう)する。だが何が原因だったのか、どこにも答えは見つからなかった。こういう事態はできるだけはやく、謝罪を、他者に伝わる形として示さねばいけない。

「あ、すみません。高校生かと思いましたので」

 男は正直に言った。

「二十五の妊婦をつかまえて、高校生だってさ。そういうのは微妙よね。うれしいんだがわかんないわ」

 マミは、小上がりの柱の前に立つミホに向かってボソボソ言った。ミホは男に苦笑いをする。男は頭を掻(か)いてまた椅子に座り直した。まだ男には自分にいったいどのような種類の災難がふって湧いたのか理解ができていなかった。

「アキちゃんは、ボーニッシモで働いてたんかいッ!」

 男の後ろから、オクサンの声が聞こえる。

 男はまた椅子から背を捻った。

「オカミサン、それはもうずっと前のことです。十何年も前のことです」

 男は笑って答える。

「アキちゃん、『オカミサン』じゃない。ウチでは『オクサン』です」

 ナオは男に耳打ちをして、ひじで脇腹をぶった。

「どっちでもいいじゃねえか、好きなように呼ばせろや!」

 リョーマは男の背をまたいで、怒鳴るように言った。

 男は肩を窄(すぼ)めた。

「うるせえよ! てめえこの店まだ継いでねえだろ! 黙ってろや!」

 ナオの声は金切り声になっていた。男はおどろいて息をのむ。

「まぁまぁ、おふたりさん」

 男は顔面蒼白のまま言った

「そのままでいな」

 坊主頭のタツは腰を落として手のひらを床に伏せる格好をする。

「この店で仲裁はタブーだ」

 マスターは前掛けで手をぬぐう。

 勝手口から裏に出ていった。

 男は店内を見渡す。座敷に座って居たオクサンを始め、店内にはだれひとり見かけない。男は目がくらくらする。左右の耳には意気のいい男と女の怒号と雑言が宙を飛びかう。男はトイレに避難しようかと椅子の背に手を掛ける。するとオクサンの声が耳に飛びこんできた。

「いいんだよ! アキちゃんが好きなように呼べば、この店には自然と慣れるよ」

 奥の座敷でオクサンは手をあげる。

「もう一度たずねるけど、この履歴書にあるアキちゃんが働いてたイタリアンリストランテってのは、あの高崎のボーニッシモかい?」

 男は椅子から立ち上がる。酔いがまわったように足元がふらついた。それでも一歩をふみだした。

「そうです」

 男はそう答えた。奥の個室の手前に水槽があって、水のなかでは鈍色のアロワナが不気味な光を発して、たゆたっている。

 厨房のスタッフは持ち場に戻っていた。

 マスターは黙って円柱形のまな板の上に置かれた緑色の野菜に平たい包丁をリズミカルにふり落としている。テラスの方で、ミキサーがまわる音が止まってトモキが入ってきて、ペースト状になった薄茶色のごま油を小ぶりの薬味バットにそそぐ。リョーマはマスターの真横の洗い場のシンクで米が入った一升釜に水をながす。タツの手元の中華鍋から油が爆ぜる音が聞こえる。から揚げの音のようだ。

「で、どこのボーニッシモで働いてたんよ、アキちゃんは」それからすぐにリョーマは継いだ。「あれはトモキね。あれ? さっき言ったっけか。まぁおれもなんも覚えられねんだ。アキちゃん名前なんかもう忘れていいや。まぁ仕事しながら覚えて行こうや」リョーマは笑った。

 男はメモしていた名前にアンダーラインを引いて「トモキ・ギョウザ場」とメモを入れる。

「本店です」

「そりゃあ、あそこはずいぶんと、ひろかんべえに」

 タツは男にたずねた。

 そこら辺からは、男はいったいだれとどのような会話を交わしたのか、記憶にない。男は緊張が過ぎていた。男は上気していた。

「たしか席数は百と十席だったかな」

「ウチは席数二十だ。見てのとおりほら」

「はあ、」

「はあ、ってなんだあ、頼りねえなあ」

「忙しかったかい? やっぱりあっこは」

「土日の忙しさは殺人的でした」

「そりゃあウチもだよ」

「へえ! 繁盛店はどこもおんなじだいね」

「そりゃあ当時は恐ろしかったですよ。裏の洗い場では下げ皿がボンボンと置かれていって。瞬く間に山になって、それらをシンクに沈めてから洗うんですけど、また山になって。だから延々と洗浄機をまわしている状態でした。それくらいしか記憶がないです」

「でもウチも、負けずと忙しいからよ」

 マスターは黙々と手をうごかす。タツは中華鍋に爆ぜるラードから茶色になったネギを網ですくう。ネギ油だ。手間をかけている。男は感心して見ていると、これ本当は朝に仕込むんだけどよ。とタツは白いすきっ歯を見せて笑った。トモキは裏から食材をもってきて幅広のステンレスバットにつめる。

「ボーニッシモはボーニッシモ、ウチはウチだかんね! そこを忘れちゃ困るんだよ!」

 オクサンはどなった。

「はい、すみません!」

 男は恐縮して立ち上がった。頭をふかく下げる。みんなは苦笑いをする。

「それと、大学の学生食堂とか、伊勢崎の東にあるイタリアン・アズーロとか調理場ばっかりやってたみたいだけど、アキちゃんはもともとそういう仕事が好きなのかい? つまりその皿洗いが?」

「皿洗いが好きって、お母さん」とナオは笑う。

「いや、皿洗いが好きとかは、べつに」

「べつになによ?」

「飲食の職は単純に見つかりやすかった。それだけです」

 男は喉まで上がったことばを腹に引っこめた。

「気楽なんです。なんも考えなくてすむんで」

「でも、勤めたとこって、みんな繁盛店じゃないの」

 繁盛店はどこもそうだが、まずは入れる。それから振いが始まる。

「この店ではいきなりレギュラーなんじゃない?」

「いきなりそりゃあ、なかんベえ」

「アキちゃん掃除は、好き?」

「はい、A型なので掃除は大好きです。自分の部屋はいつも掃除をしています」

「そりゃそうだんべえ! 自分の部屋を自分で掃除すんのは、あたりめえだんべえっ」

「ぎゃっはっは」

「じゃあ、時給は九百円からだいね!」

 オクサンのしゃがれ声が、店内にひびいた。沈黙がおりた。

「えっ」

 男は目を二度、瞬(またた)かせ、ナオに目配せをする。

 店内は静まりかえった。

 ナオはゆっくりとうなずく。

 アキちゃんの言わんとしていることは、分かっています。

「ここはこのまま黙って」

 ナオは目で訴えた。

 男はナオの言われるまま黙った。

「じゃあ、あさっての日曜日に、初出勤ということでね。期待をしているよ」

 オクサンは笑った。

 男はみんなにふかぶかとお辞儀をした。

 店を出ると男は腋を汗でぐっしょり濡(ぬ)らしていた。このままだと風邪を引きそうだ。すぐに着替えたかった。

 チェーンロックを外して下ハンドルに掛けたヘルメットを頭にかぶる。プラスチックの留め具をパチンと〆る。

 空を見上げる。春の青い空におぼろ雲が溶けこんでいる。

 男は首をかしげる。

 先ほどの店内では、誰がどこに立っていたとか、誰のどの笑いが作り笑いで、誰のどの笑いが本物の笑みで、自分の笑いは。はて。

 自分はどこでどのような笑みを見せた。笑ったのか。本当に笑っていたのか。

 男はまた首をかしげて、自転車に跨(またが)った。

二章 三月一九日・祝

登場人物


オクサン
リョーマ
ミホ
ヒカル
タツ
トモキ
マスター
シゲ
ヤマ

■自宅にて(出勤するシーン)

 九時十五分だった。

 いまからペダルをゆっくりと踏んでも、出勤時間まで十五分ほどの時間の余裕はあった。

 男は家の、上がり框(かまち)に尻をつけて、スニーカーのヒモを結んでいる。縁側に抜ける西がわに、背の高い観葉の植木鉢がいくつも並んで置いてあってそれらの垂れた葉っぱに隠れるように、小ぶりの木台に載せられたシクラメンの鉢が、赤く咲いていた。毎年父は下仁田の近藤オートからひとダースもらってくる。ウチに置くぶんのひと鉢しかなかった。シクラメンを待ち侘びる親類たちが早いもの勝ちでわれ先にえらんで持っていったのだ。

「言っておいたっけ?」

 背中のほうから母の声が聞こえる。

「なにが?」

 男はふりむくと母は、廊下の突き当たりのトイレの横から入るキッチンから首をだした。

「お父さんの、退院日、今月末なのよ」

「ああ、聞いてた。と思う」

「え、なに?」

「聞、い、て、た。と思うよ」

 男は大きな声ではっきりと言った。

「お母さんさ、耳がぼうぼう言うのよ」

「ぼうぼう?」

「そう。ぼうぼうっていうかぼわんぼわん、っていうのかしら。どこのお医者に診てもらっても、よくわからないんだって」

「統合失調症って診断はされてないよね」

「トーゴーシッチョウショウ?」

「入院していたときに、若い女がいてね、その子の症状が統合失調症だったんだ。その子はひとり暮らしをしていたんだけど、夜の換気扇のブーン、ブーンって音がね、まるで十数人の男どもに一斉に罵倒されている。罵詈雑言でもって難詰してくる。そんな幻聴に襲われるそうなんだ」

「こわいわねェ」

「ぼくはそれ聞いてさ。もし自分がそんな症状に陥ったら、絶対に耐えられない。狂ってしまう。そう思ったね」

 男とその若い女は、別の症状で入院した。若い女は、男の護送措置での強制入院とはちがって、みずから閉鎖病棟にやってきてみずから入院手続きをした、と男に言った。

「慣れるわ」

「慣れる?」

「ひどいと入院する。けど。もう慣れた」

 夏の昼過ぎだった。若い女は、病院の北側一階の壁から移動する短い影にかかる喫煙場所のコンクリに寄りかかって、

「ひどいと自分から入るの。今回で二回目。ほんとにひどかったら自分から入院すればいい。わたしはただそれに気づいただけ」

 すぱすぱと紫煙を吹かして女は男にそう言った。女は顔が隠れるほど大きなひさしがつっぱる夏の帽子をかぶっていた。

 男が食堂をとおりかかるといつも若い女は、椅子に背筋をぴんとのばして座って真剣な目で塗り絵に集中していた。若い女がクレパスの箱からひとさし指をたてて、塗り絵の色をえらびとる真剣なまなざし。それからクレパスをにぎった手指が、まるで精密なロボットアームのように規則的におなじ方向に移動するその隙のない動作をみて、男は女に声をかけるのを憚(はばか)った。若い女が塗り絵をする花の線画は男にはバラか熱帯の花かよくわからなかった。が、大きくひらいた一輪の花の中央に粘土になって盛りあがる、鮮血のような緋いろから、赤いろ、朱いろ、橙いろ、黄いろ、薄緑いろ、緑いろ、深緑いろ、群青いろ、青いろ、濃紺いろ、紫いろ、深紫いろ、それからまた緋いろ、赤いろ、朱いろ、橙いろ、黄いろ、薄緑いろ、緑いろ、深緑いろ、群青いろ、青いろ、紫いろ、深紫いろ、青いろ、濃紺いろ、紫いろ、深紫いろと、いろの濃淡は異常なほど強烈に鮮やかだった。男はその塗り絵を見て、この塗り絵は自分が人生で見た塗り絵のなかでもっとも美しく色鮮やかな塗り絵だと思った。

「ぼわんぼわんって。でも、もうずいぶんと経つのよ。十年よりもっと。ひょっとすると二十年から経つかもしれないわ」と母は言った。

 男は母が幻聴のように感じるそれを聴いて、自分にもひとつ思いあたる節があった。男はスニーカーの紐を絞めながらふと妙なことを思いだした。

 五、六年前だ。

 深夜だった。ラジオを聴いたあと布団に入った。左耳の真後ろで、その奇妙な音の波長は、鳴った。最初は蝿かと思った。その羽音は、近づくにつれて小人たちが編成する鼓笛隊のパレードに形を変えながら男の耳元まで歩いてくる。そんなふうに感じる。ふりむく。なにもない。が少し経つと羽音はまたおなじ奇妙なバグパイプが鳴る鼓笛隊が行進する楽隊になって耳元に向かって歩いてくる。ふりむく。やはりなにもない。はめ殺し窓が見えるだけだ。そんな幻聴に襲われたような夜が、春から秋にかけて数ヶ月つづいたことがあった。京都の女と大きな失恋をした直後だったので男は心労と思って放っておいた。知らないうちに奇妙な鼓笛隊のマーチは男の耳元に姿を現さなくなった。

 男は上半身をかがめてまたスニーカーのヒモを結ぶ。でっぱった腹が太ももに窮屈にあたる。男は後ろから母の視線のような気配を感じて、息を吸いこんで腹をへこませる。すると逆に、へそ上のみぞおちの高さに、重くぶ厚いチャンピオンベルトのようなぜい肉が巻かれているのを感じる。実際はズボンのボタンを留めるだけで腹は締めつけられた。

 九州にいた三年のあいだに男は変に、寝たきりになって急激にふとった。ここで変に、と強調したのは、男は寝たきりになった自分をみずから逐一意識しながら日に日に太ったためだ。

 男は毎日、布団に横になった自分を意識してだらだらと過ごした。ひる過ぎになってリクガメのように涙を溜めたうつろな目をして起きあがる。鏡の前に立つ。太った自分の姿が鏡にうつる。それを見て男は、自分は醜悪だの化け物だのと自覚をする。男は自己嫌悪の底に真っ逆さまに転がりおちる。台所の床の上でうずくまって頭をかかえる。これじゃあブタだ。芋虫だ。これは地獄だ悪夢だ。いまのぼくは一夜にして毒虫に変身したグレゴール・ザムザだ!

 だが、男の絶望は浅い。浅い絶望には迫真さがない。だから男は自分の激太りを、日々ぼんやりと、や、これは変だな。やや、これは奇妙だぞ。と思うだけにとどまる。男の思考のトルクはそれ以上まわらない。頭の回転はにぶく重く片一方の方向だけにうごく。現実を直視すべく男は鏡を見る。そのたびにうつる自分は本当ならばこれは恐ろしく由々しい現実、なのだ。が。と、にぶったかるい絶望をして、また太った。

 引きこもりだった男はそんな太り様をした。なので、自分の太り様が異常なのか通常仕様なのか男みずから分別ができない。だから自分はほかの人間とはまったくちがう種の奇妙な太り様じゃないのか。と、外出する時には恐怖にちかい不安を抱える。

 男のズボンは一張羅だったので実家に帰ってから男と妹の部屋だった二階にあるタンスをひっくり返して、昔の衣類をさがした。いまのウエストに合うものはひとつもなかった。

 額に汗がすぐに噴く。メガネのフレームの角を、二本の指で上へ押しあげる。老眼になったのか結び目がボヤける。メガネの内側に汗が垂れた。

 ネコが近寄ってきて膝にとびのった。少年野球の軟式ボールよりまだ二まわり小さい頭蓋骨を手のひらでゆっくりとつつむ。それから男は自らの手の甲を注視した。

 手は奇妙に見える。三年の間、部屋に引きこもっていたせいで肌荒れひとつなくみずみずしい手だ。それでいてシワの溝はふかく割れて、青色の静脈は裂けた川が流れる連峰のように盛りあがっている。野良をする老婆の手にも見える。男の手は若さと老いが撞着(どうちゃく)している。おや指の根元に真っ赤な血の筋が見える。来月で三歳になるネコに引っ掻かれた。シワが増えた手。若いネコにやられた生傷。奇妙で生々しい。

 男はネコの頭をかるく撫(な)でる。ネコは目をつぶって自らの頭を男にもっと撫でろ。とぶつけてくる。

「ナミダちゃん。わたしにはまだぜんぜんなついてくれないわねえ」

 母は言った。

「ネコは家につくもんだよ」

「そうかねえ」

「そうだよ」

 男は笑ってみせた。

「そのうちなつくよ」

「そうかねえ」

「そうだよ」

「そうだって、ね。ナミダちゃん」

 ネコは、男が九州から帰郷するときにいっしょに新幹線と鈍行列車に乗って連れてきた。

 母は男が九州から家に連れて帰ったネコを、ネコの保険証に登録されている「ナミダ」に、ちゃんづけをして「ナミダちゃん」と呼ぶ。辞書にならんだ字義どおりに、ねこ可愛がりする。男はネコを「ナミダ」と呼んだ試しは一度もない。

 男はゆううつだった。

 翌日は男の誕生日だ。四十六歳になる。

 離婚してすぐにつとめた埼玉にある盆栽屋で知り合った同僚に飲み屋で「おれにそんないっぱしの講釈をぶつんだったら自分で書いたらどうだ。書きもしないでうだうだと抜かすな」と尻をたたかれ、小説を書きはじめて、もう何年にもなる。病魔におかされてからは期間の半分は寝たきりだったが。さりとて男はずいぶんと書いてきた。結果は最終選考にすら箸に棒にもかからない。母は男の誕生日についていまはなにも触れようとはしない。

 母は框(かまち)まできて、おいしょ、としゃがんで膝をつく。

「ナ、ミ、ダ、ちゃ〜んっ」

 母は笑って、赤ん坊をあやすようにネコの頭に触れる。ネコはするりと母の手からすり抜けて仏間へと逃げていった。

「月末にはお父さん、退院するから」

 男は一瞬止まった。

 遠くからオートバイの爆音が聞こえる。

「あ、そうだったっけ」

 父は大腿骨骨折で高崎の駒江病院に入院していた。大腿骨を骨折したのは昨年の晦(つごもり)の日だと母は言った。

 男は現場には居合わせなかったが父の行動は手に取るように分かった。

 定年を過ぎて父は家から出なくなった。若い頃からのビール党が祟って糖尿病をわずらい週四で透析にかよう。元警官とは思えぬほどからだは枝のように細い。足腰は弱りきっている。透析なので家にいる間は小便にはほとんど立たない。が、数少ない尿意を催したのだ。ベッドに木の根っこのように張った重い腰をあげて、居間のふすまを開ける。いま男が座る吹き抜けのある玄関にでて北のトイレへとあるく。その最中の数歩のあいだの廊下の床に、足をすべらせた。全治五ヶ月の骨折だった。

 父は男が九州に行く直前にも一度、おなじ大腿骨骨折をしていた。裏庭にある浄化槽横の風呂場の石油ボイラータンクのフタを外すのに滑ったのだ。それをたまたま二階の窓から顔をだしていた男が発見をして母が一一九番に連絡したのだった。

 男は遠くから聞こえるオートバイの爆音が耳にかかった。

「今日、開催日だっけ」

「なにが?」

「オートだよ。伊勢崎オートレース。今日は地元開催日だっけ?」

「お母さん。オートのことなんかまったく知らないわよ。お父さんなら詳しいかわかんないけど」

 伊勢崎オートレース場はナイター設備がある。夏から秋にかけてはG1やSGレースなどのビッグタイトルもふくめて、連日連夜、伊勢崎オートはナイター開催で盛りあがる。ナイター日はバチバチバチッと路面になにか硬い物質を叩きつける異様に高い爆音とともにドームが煌々と光る。優勝戦が跳ねると、乾いた音を立てて花火があがる。春はほとんど場外のはずだった。

「練習の音かな」

「そうね、場外だとしたら、練習ね」

 母は笑った。

 男は帰郷して初めて父の今回の入院を知った。

「今回は六ヶ月を超える入院生活だったし」

「九州に住んでいる息子にそういうことを言ってもしょうがないから」

 帰ってきた男に母はそう言った。

 突然、男の胸に仕事への緊張がせりあがる。カバンからリョーマがメモ帳に記したアンチョコを取りだす。昨晩、部屋でメニューの略語をなん度もそらんじて読みあげたが、覚えは悪かった。人前で働くのは三年ぶりだ。それだけでからだ全身に緊張が、みなぎる。

「どうしたの、顔色が真っさおよ」

「え、あ、うん。なんでもない」

 母は黙った。

 男も黙った。

 母は両膝をついて立ちあがった。

「ナミダちゃんどこへ行ったのかしら、お祖父ちゃんとおばあちゃんがいる仏間かな?」

 母は、祖父と祖母の位牌がある仏間へ入っていった。

 男はメモ帳を開いて、ひざ頭にむかってぶつぶつとしゃべる。リョーマが言ったよくでるメニューに、ひとさし指の腹をこすっていく。伝票に書き記す略語を復唱する。

「広東麺は、うまにそば。ぎょうざは、ギ。春まきは、春。五目あんかけ焼きそばは、炒面。かた焼きそばは、炸面。五目中華丼は、中か丼。カウンター席はCに卓番。座敷席はザに卓番。テラスはマル外に卓番…」

 後ろのポケットからスマホをだす。家をでる頃合いだ。

 男は両手を膝について腰をあげる。

「緊張しないで、大丈夫」

 母は仏間から顔をだした。

「うん。それと病院の通院のことなんだけど、次回の診察はやっぱりまだ行けないって、葦野先生に」

「アキトの医療センターのほうのね。

「うん」

「葦野先生はアキトがその気ならこちらから往診もできますって」

「往診とかそういうんじゃないんだ」

「あらそう」

「悪いね。まだどうもダメみたいなんだ」

「そう」

 笑ってみた。いま自分の顔はいったいどんな類の顔をしているのか、男は想像ができなかった。

「葦野先生も、ネコ飼ってらっしゃるのよ」

「そうだね。年末の手紙にそう書いてあったね。三毛だろ」

「動物愛護団体から貰い受けたんですって」

「ぼくはそういうのは嫌なんだ」

「芦野先生もおっしゃっていたわ。アキトがお母さんに送って寄越したラインの文面のように、動物愛護団体が飼い主へむけるとげとげしい虐待者をうたがう疑念の目。あのいや〜な感じ。芦野先生も肌でお感じになられたんですって。アキトとおんなじだって」

 母の、ことばではなく、ことばの使いように、ひとに阿(おもね)るなにかが感じられて、なにかを裏切られたそんな気分に陥った。最後につけた「アキトとおんなじだって」は、母が勝手に脚色したに違いなかった。

「ペットショップで購入するのと動物愛護団体から引き受けるのと、別段変わりはない気はするな。殺処分の被害を一匹、減らすだけだ」

「道中、気をつけてね、農道を走りなさい」

「わかった。行ってくるよ」

 男は玄関をはんぶん開けた。たたきに置かれたロードバイクのホルダーにスマホをはめこんだ。

「まだ開けないで」

 母はさけんだ。

「どうしたの。ぼくはでかける時刻だけど」

 母は男の足元を指さした。

 観葉植物の下でネコは丸くなっていた。玄関の外にでるのを狙っていた。

 男は玄関を閉めた。

 昨日、散歩にでると生垣の根元にネコの死骸が寄せてあった。道路の中央ライン寄りに血が破裂した痕があった。

「こっちに来たばっかりだから、いま外に出たら危ないな」

「あの野良。ここ最近ずっとウチの周りで見かけたネコよ」

「ナミダちゃん牡だから。牝ネコかしら?」

「頭が丸ごとつぶれてたよ」

「そうなの」

「家のまわりをうろうろうめくような鳴き声で鳴いたのよ」

 春だ。ここ最近、夜は家の周りはネコの鳴き声ばかりだった。

「ウチのネコもおなじだよ。生垣をでて外の世界へ一歩でていけば、目抜きどおりで車に跳ねられる」

「最近の車はあんな細い道でも容赦しないからねえ」

「ぼくが役所に電話したんだ。母さんがパートから帰ってきて、家の前にはネコの死骸はなくなってたろうに」

「あらそうだっけ?」

「役所に電話すると、ネコ処理センターっていうネコの死骸専門の引き受け業者の番号を教えられたよ」

「去年、上の宮の北にできた高温度焼却施設で焼くのかしら」

「知らないよ」

「焼いた熱で温水プールと健康センターをやってるわよ」

「こんど、行ってみるよ」

「それはそうと、ネコ危ないわね」

 男はスマホの時計を見た。

「あら、またやってる」

 男の鼻にネコのキツい臭いが突いた。一階の縁側につながる通路に並ぶ青いバケツにネコがマーキングをしていた。

「バイトから帰ったら床はぼくが水で洗うよ」

「頼んだわね」

「ペット消臭だけ、シュッシュしておいて」

「わかったわ。行ってらっしゃい」

 男はネコを撫でて、家を出た。

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