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男(ADHD)の内観描写。(GH全記録)

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「コノミチナリニ、ヒャクゴジュウメートルヲチョクシンシマス、モクテキチニツキマス」

 男は、おや指の腹で地図アプリのタスクを切った。

 遠くで大型トラックが豆粒になって連なっている。あれが県道だ。男はスマホの地図をもういちど確認した。顔を上げる。目をほそめる。額から汗が、メガネのレンズの内側に、たれた。県道の手前に広がる、緑一面の田園のなかに、店の赤色の看板がみえる。男が安堵のため息をつくと、手前に流れる水路の脇に生えた、真っ黄色の連翹(れんぎょう)が、風に押されて一斉におじぎをした。

 店は田園のまんなかにあった。

 夜の営業は田んぼのあそこだけが客の車や店の明かりやライトが煌々(こうこう)と光る。室町時代の出島のようだ。男は想像をした。

 男は店にやってきた。

 自転車を降りた。空を見上げる。

 青天だったのにもう雨雲に蚕食され、グレーに染まった空に、赤色で白抜きの看板「喜ちゃん飯店」はそびえる。

 とおりに面した二台ならぶ自動販売機の片方がぶーんと、ふるえて、唸(うな)った。ブロックの下にいる地虫の鳴き声のようにも思える。アルバイトへの緊張が昂(たかぶ)っているのかもしれない。

 店の敷地に入った。

 自転車を、駐車場の南側のフェンスに寄せて、上段を両手でつかんだ。田んぼを見わたして肩で息をすった。湿った土の臭いがした。スマホで時刻を確認する。

 十時十五分だった。

 上着は、汗を吸っていた。

 着替える余裕はなさそうだった。自転車をどこに置くか。

 男はふりかえってフェンスに臀部(でんぶ)を凭(もた)せかける。

 店の背後に、大きな邸宅の影が見える。三階建てのようだ。男は時間を気にしつつ駐車場をまわりこんだ。うなる自販機まででると、邸宅は喜ちゃん飯店と垣根がなかった。

 家族が建てた家か。

 男は何かに気づいて、田んぼ一面のなかにできた出島の内部の土地をぐるりと見まわした。

 店のテラスの屋根は四角にくりぬかれ、その穴に、幹から扇状に枝がひらいた背の高い木の上部が、大空につきでている。楡(にれ)の木だ。

 樹齢のおなじような楡が、喜ちゃん飯店をかこむように建つ三軒の家の庭にも植えてあった。この出島は喜ちゃん飯店一族の土地かもしれない。男は思った。

 駐車場にプレハブが二棟、そのとなりにプラスチックの屋根のついた車庫があった。黒色のトヨタのヴォクシー。白色は日産のエルグランドだ。その二台の間に車高の低い黄色いレーシングタイプのツーシーターが停まる。

 若い男が足をだして降りてきた。

「こんにちは、今日からアルバイトで働きますオザワアキトといいます」

 男は若い男に言った。

「ん、あゅあ」

 若い男はガムを噛(か)んでいた。

 男はもういちど深く頭を下げて、そのまま車をのぞきこんだ。

「いい車ですね」

 ナンバーは札幌だった。

 ぺっ。男は駐車場にガムと唾をいっしょに吐いた。

 男はミツルと言った。

「エスロクっす」

「エスロク? 」男は首をかしげる。

「ホンダの」とミツルは言った。

「マツダロードスターはわかります。このあいだの小説に出てきてカッコよかったです。でもエスロクはちょっと… 」

 男はエスロクを知らない。頭を掻いた。

「知らなきゃ。いいっすよ」

「すみません」

 ミツルは目つきをするどくさせて、男を、睨(ね)めた。男はからだを硬直させた。

「あんた」

「え」

「わりいこと。なにひとつしてねえ」

「はい」

「あやまんなくていい」

「すみません」

「それに」

「はい」

「おれに合わせることねーし」

「すみません」

 男はふかく頭を下げた。ミツルはぶっきらぼうに見えたが、人間は良さそうだった。

「これはロードバイクです。この自転車を置く場所を確保したいのですが、どこかに手ごろなスペースなどはありませんか? 」

 と男はたずねる。あまりの緊張で、口から自動的に出た自分のことばが文章体になっていることに、男は気がつかない。

「んなもん、知らねえよ」

 ミツルは答えた。

 プレハブと車庫の裏に、ハクモクレンとコブシの木が満開に咲く。手入れの行き届いたハナミズキの木が立つ。そこにちょうど自転車一台が収まるスペースを発見した。

「それな、裏、良いんじゃねえか」

 とミツルは言った。

 男は「それな、」の意味を図りかねた。

「ここではなんでも自分でやれ」という意味なのか。「自分の居場所は自分で見つけろ」という意味なのか。

 男はロードバイクをプレハブと車庫の裏に入れる。

「チャリンコ。ブツけんなよ」

 声がしてミツルの姿は店の勝手口に消えた。

 店の裏手に、男はとり残された。

 これからバイトは始まる。男は、緊張は高まる。身体から、指の節節まで、硬くこわばった。

 通路の入り口。ガタガタ。洗濯機は音を立てる。みゃおあ〜。通路でネコが鳴く。

 胸が、動悸する。脈動は激しい。心臓は鼓動する。のどの内側が渇く。唾を舌先に溜めて、舌根で奥へ流しこむ。クッ。どこかが鳴った。

 プレハブと洗濯機とのあいだに、邸宅へぬけるほそい路地がある。影が横切った。男は、見た。人の影だった。

 ここから、声をかける、あいさつを、すべきか。男は、迷う。みゃおああ〜。ネコは鳴く。声はさきよりも一段たかい。行動にでたい。ほそい路地を踏みこんでいって人影に声をかける。まずあいさつをする。こんにちは、今日からアルバイトで入ったオザワアキトです。一所懸命にがんばりますのでどうぞよろしくおねがいします。笑顔を作って。大きい声で。滑舌よく。もっと大きい声で。しっかりと笑顔と熱意を伝える。自分はどういう人間であるか、あらかじめ説明をする。仕事に入る先に、今日の意気ごみ、不安は、ことばでだれかに伝えておく。だれに? いま? なぜ? どうして? もうひとりの男がつよく反発する。

 脳内で、思考は、ちいさな泡沫になって浮かぶ。山の泉にこんこんと湧きあがる水泡のように。それらは頭がい骨のうちがわの、まっくらな空洞で、膨張をはじめる。まるで夜の街灯に群がって集る羽虫のようにブーンブーン、と。思考は方方に飛びかう。やがて闇の空洞は浮遊思考に充たされ、飽和状態になる。脳は飽和状態になると判断は帰結しない。起因が存在しないのだ。判断は宙に浮いたまま思考のみが浮遊する。男は、浮遊思考を無理やりに整理しようと試みる。脳みそいっぱいに湧きだした羽虫を、大脳のあちこちに具わる遠心分離器にかける。スイッチをいれる。大脳は横に高速回転をはじめる。ブーンブーン。息が詰まる。みゃおあ〜。オエエッ。

 ガタンッ。

 洗濯機の音だった。洗濯機が止まった音だった。

 瞬く。眼球は、拡がって瞳孔はちぢむ。それから男はなにを思ったのか、背負っていたバッグを前にまわしてボールペンとメモ帳をとりだした。メモ帳の後ろのページをひらいた。

 男は目にうつる風景の一部始終をメモしていく。メモを書き留めるその行為に、男は夢中だった。男はじぶん以外、まわりは見ていない。じぶんなりに簡素化した図形をつかい、独特な絵を描いた。文字は男にしかわからぬミミズがのたうった字だ。

 罫線が引かれたちいさなメモ紙のなかに、男は自分が目撃した建築物を立体的に組み立てる。

 男はメモをとるのが速かった。「オザワがメモをとるその手の速さって尋常じゃねえな」と、盆栽屋に勤めた時分、男は同僚に言われたことがあった。


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