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緘黙とつきあう

私は5歳 (幼稚園年長の夏頃) から21歳 (大学4年生の夏頃) までの約16年間、家では普通にしゃべれるけれど、学校では話すことができないという場面緘黙でした (医師による診断を受けていないので正確には“場面緘黙であったと考えています”、以下同じ)。現在は他人に話しかけられてもまったくしゃべらない、ということはなくなっています。

しかし、「無駄話」、「世間話」のような雑談は相当に苦手です。必要なことは過不足なくしゃべれるため、仕事上の「ほうれんそう (報告・連絡・相談)」にはほとんど支障はありません。問題はそれ以外の部分です。つまりより良い人間関係を築いたり、新しい人脈を作ったりする場面ではかなりの問題があると感じます。

挨拶くらいはできます。話題を振られたら返答はできます。ですがそれだけです。振られた話題から会話を広げることができません。会話がまったく進まず、空気を気まずいものにしてしまいます。何を話せばいいか、頭の中ではグルグルと思考が回るだけなのです。

会話が弾まないという問題は、場面緘黙であった時期に会話能力を鍛えることができなかったからだと思っています。幼稚園から大学までの16年間、家では普通にしゃべれたので、家族とは会話をしていましたが、外部の人とは会話といえるようなコミュニケーションをとれませんでした。改めて振り返ってみても、これはなかなか異常なことだったと思います。

私は、幼稚園年長の夏頃から場面緘黙になりました。それまでは活発な子供だったらしいと聞いています。理由ははっきりと覚えていませんが、確かお漏らしをしたことで、担任の女性教諭にひどく怒鳴り散らされるように怒られた記憶があります。恥ずかしかったという記憶はまったくなく、「理不尽だな」という気持ちだけが残っています。ただ、自分としては非常にショッキングな出来事で、それまでの自信や自尊心などがすべて粉々になった瞬間でした。それから、クラスメイトのいる状況下でしゃべれなくなりました。

当初は自己表現がまったくできなくなり、幼稚園では一言もしゃべることができませんでした。工作などもうまくできなくなりました。合唱のときなどは、「口パク」をしてごまかしたりしていました。

小学校に入学したあとも、1年生の最初の頃は、国語の音読ができませんでした。先生に当てられて、どう切り抜けたのか、良く覚えていません。一方で、体育は得意でした。マット運動や鉄棒では体が良く動き、陸上ではリレーの選手に選ばれたりもしました。そして、だんだんと自己表現ができるようになってきて、美術で版画をやった際の作品が廊下に展示されたりもしました。これらは、自分の中では大きな自信になったと思っています。また、1年生の遠足のとき、1人ぼっちで、お昼ご飯を食べていたら、担任の先生が一緒に食べてくれたのを覚えています。このようなことが積み重なり、その先生と信頼関係ができたことで、1年生の後半には国語の音読もできるようになりました。

小学2年生になるときに転校し、まったく新しい環境になりました。転校や進学は場面緘黙が一気に改善する契機になる場合がありますが、私の場合はなりませんでした。おそらく自分の中で、まだ変わるための準備、話せるようになるための準備ができていなかったのだと思います。クラスメイトは、しゃべらない自分が珍しかったのか、「しゃべって~」と、追いかけ回されたりしました。2年生のときの担任からは、しゃべらないことを責められたりしました。歌のテストのとき、歌えずにじっとしていると、「廊下に出てなさい」と言われ、廊下に立たされたこともありました。

3年生の途中で再び転校しました。「しゃべってやろう」という気持ちがあったので、最初のうちはがんばって受け答えをしていました。でも2~3日後には元に戻って、しゃべれない状態になってしまいました。授業の進み方も全然違っていて、算数がまったく分からなくてとても困りました。担任の先生にマンツーマンで教えてもらい、次の小テストで満点を取ることができ、クラスメイトに認められたことで、クラスにうまくなじめた気がします。

中学1年生の頃から、自分は、「普通のサラリーマンにはなれないだろうな」と漠然と感じていました。自宅では良くしゃべっていて、学校では、授業中以外、まったくしゃべらない、そのギャップの大きさの社会的異常性を、確信を持って自覚し始めた頃でした。「こんなのは世界で自分ただ1人だけなのではないのか?」とも思ったりしました。家では話せる自分と、学校では話せない自分に違和感を覚えていました。この頃は、もはや場面緘黙状態の方が楽だったのですが、楽だからと言って、このままでは良くはないな、とは感じていました。また、どうしてみんな話せるのだろう、不思議に思っていました。

高校に入学すると、クラスメイトがグループ化して、周囲から完全に孤立しました。入学して新しいクラスになったばかりの頃は、何度か声をかけられたのですが、うまく反応できなくて、そのうち声もかけられなくなりました。高校時代は完全に1人ぼっちで過ごしました。1人でも寂しさなどはありませんでしたが、休み時間は、時間を持て余して困りました。終業のチャイムが鳴ると、机に突っ伏し、昼休みなどは、図書室へいくなどして過ごしました。始業時間のチャイムが待ち遠しかったです。ただ、高校へいかない、という選択肢は頭にはありませんでした。勉強が好きだったからかもしれません。急に高校へいかなくなることで、クラスメイトにどう思われるかが怖かったのかもしれません。成績は良くて、授業中にはしゃべるので、学校で問題視されることはありませんでした。大学受験も特に問題なく、理系の国立大に入ることができました。

このように、私は小学校の頃から授業中の発言はすることができましたが、クラスメイトとの会話がまったくできませんでした。なぜか、と問われても自分でも理由が分かりませんでした。とにかく会話ができなかったのです。しゃべらないという自己像を壊すことで変に思われたくなかったのかもしれません。また、人前では声を出して笑うのを必死にこらえていました。北風と太陽の話のように、みんなが笑わせようとすればするほどかたくなになっていました。笑ったら負けだと思っていました。

こんな状態で成長していくうちに、ある変化が起きました。それは「面倒なので笑いの感情を封じてしまう」ということです。このような変化は「笑い」だけでなく、その他のいろいろな感情でも起きてきました。

人は大人になるにつれて、感情面でいろいろと面倒になってくると思います。これらをうまく管理する方法として、場面緘黙の人は自分の表出する感情を切り落とす傾向にあると感じています。人を刺激しなければ、自分に危害がおよばないからです。だから、どんどん無感情に、どんどん無表情になっていきました。「反応したら負け」という心情です。文化祭や球技大会で孤立しようと、クラスの女子に笑いのネタにされようと、あまり気にしなくなり、その程度では落ち込まなくなっていきました。それまでは受け止めてしまっていたものを、感情を殺すことですべて受け流すようにしたのです。それにともなって、どんどん人とも疎遠になっていきました。

今は、場面緘黙はほぼ治っていますが、感情は封じられたままです。感情を無理やり我慢して封じている、というように書きましたが、それは小中学校時代までの話です。そのまま成長していくと、「我慢している」という感覚がなくなってきます。そもそもの感情の発生源を断つようになるのでしょうか。喜怒哀楽を感じなくなってきます。長い間、場面緘黙が治らないとこのような事態になってしまいます。そしてその状態が固定化、安定化されてしまいます。これが後遺症の1つだと思います。

大学の指導教員から「君は自分の殻に閉じこもっている」と評されたことがあります。自分でもそれは分かっているのですが、自力だけではどうにもなりません。だからずっと場面緘黙であったわけです。

大学入学時、私のことを「しゃべらない人である」と知っている人が1人もいなかったため、大学デビューのチャンスでしたが、それにも失敗しました。しゃべるための準備ができていないのか、それとも、しゃべらない方があまりにも安定した楽な状態だったのでしょうか。今となっては分かりません。

大学では俗に言う工学部だったため、実験の授業がありました。1班5~6人に分かれて、各班でそれぞれ実験をしていきます。実験中、みんなが間違っているところがあると、「それ違う」と、一言、言葉が出るようにはなってきました。

私の場面緘黙が改善したのは結局のところ、単に運が良かったからだと思っています。大学4年生になって配属された、環境の良い研究室、そして理解ある指導教員、たまたま出会ったこの2つの要因が、自分だけではどうにもならなかった場面緘黙を改善してくれました。もし違う研究室で違う指導教員だったとしたら、今でも場面緘黙のままだったかもしれません。

実は、この指導教員との出会いは大学2年生の頃にさかのぼります。当時、必修科目として受けた授業の最初の1コマ目で、「あ、この先生とは相性が良い」と直感的に感じたのです。だから4年生になるときに研究室を選択する際、迷わずその先生の研究室を第1志望にしました。普通は研究室で行われている研究テーマで選ぶのですが、私は「指導教員」で選びました。これが結果的に非常に良い選択になりました。

大学4年生になると、基本的に授業はなくなり、卒業研究だけになります。研究室に自分の机が与えられ、そこで毎日、調べごとや実験データの分析、資料の作成などを行います。また、週1回、輪講というものがあり、4年生が当番で、順番で自分の研究について発表を行います。これは、おおよそ1カ月に1回のペースで自分の番が回ってきます。自分の番のときは、自分の研究テーマについての内容や、関連する英語論文の要約、実験結果などを発表し、みんなで議論します。自分の主観や感情を込めるのではなく、客観的事実を発表する場なので、しゃべることにそれほど抵抗はありませんでした。授業中に国語の音読を当てられて、決まった場所を読むのと同じ感覚です。自分の発表に対して、先生方や大学院の先輩、同期の学生が質問をしてきて、それに答える、というような場でした。この輪講という場で、少しずつコミュニケーションに慣れていったのが大きいと思います。

この「慣れ」は自信にもつながっていきました。また、指導教員との個別ミーティングの際などでも、私があまりしゃべらないことには触れずに、研究の進捗具合や、成果などをしっかり評価し、褒めてくれたことも大きな自信になりました。このように、4年生になり、相性の良い指導教員の下での研究室生活を送る中で、一気に自信を積み上げ、場面緘黙の症状が大きく改善しました。研究室という場では、「研究テーマ」という、暗黙の話題があります。なので、まったくテーマのない雑談とは異なり、自分からも同期の学生に話しかけにいくことができました。

その後、大学院の修士課程に進学し、同じ研究室でさらに2年間過ごしました。この間も後輩の指導など、さらにコミュニケーションの幅が広がったと思います。修士課程修了後は、大手電機メーカーへ機械設計職として学校推薦で入社しますが、半年余りで退職してしまいます。そして再び、大学の同じ研究室の博士課程へ進学しました。退職理由は会社社会との拒絶反応です。心療内科では「ストレス反応性抑うつ状態」と診断されました。「なじめない。相容れないところがある」、常にそう感じていた半年余りでした。退職から博士課程入学までの間、私の失われた16年間は大きいな、と感じながら、少しでも安心して過ごせる研究室でもう少し社会とのつながりに慣れておこう、などと思ったりしていました。

けれども、場面緘黙が改善されてからも、大学の研究室における私の印象は、「何を考えているか分からなくて怖い」、「話しかけにくい」というものなのだと、指導教員の先生から聞かされました。ことばの教室のようなものにいったりして、直す努力をしなければダメだとも言われました。話しかけにくいは当然としても、「怖い」とまで思われているとは考えてもいませんでした。確かに、喜怒哀楽を表現しないと、その人の考えていることや価値観が分からないと思います。そういう意味で、私は周囲の人間に何も情報を与えていないのです。このせいで相手も萎縮してしまうのです。こういった面も人づき合いにおいて大きな影を落としていると思います。これも後遺症の1つだと考えています。

今は初対面の人とは相当に意識して話そうとしています。そのため初対面のとき、相手から見た私は「大人しめ」、「まじめ」な「普通の人」に写るでしょう。けれども何回か会って徐々に慣れてくると、それにともなって会話の頻度が少なくなってきます。話題がなくなってくる感覚です。特に話すことが見あたらなくなってしまいます。そして、徐々に人は私の近くからいなくなっていきます。この辺が会話能力のなさ、感情の表現力のなさなのです。

言葉を編むのに時間がかかりすぎてしまいます。思いが言葉にならないと言うよりも、思考自体が硬直してしまうような感覚です。それで会話が途切れてしまいます。会話の訓練をほとんど積んでいないことの弊害です。ピアニストは楽譜を目で見たら、手の動きを考えなくても、手が動いて弾けるそうです。周りの人全員がピアニストで、私だけ素人みたいな状態です。これは大げさな比喩ではなく、私の失われた16年間について考えたとき、「しゃべる」という技術に関してはまさにこの通りなのです。

場面緘黙だった頃は、ずっと1人でやってきました。学校という社会に所属していたにもかかわらず、ほとんど孤立して生活していたようなものです。特に高校時代などは、学業では1人で黙々とがんばることができていましたが、クラスメイトとのコミュニケーションはまったくといっていいほどありませんでした。学校には授業を受けるためだけに通い、部活もせずに一目散に帰る日々でした。コミュニケーションの方法を知らず16年間育ってきました。この16年という時間が余りにも長すぎたのだと思います。

成長期であり、思春期である重要な時間を場面緘黙として過ごしたことで、普通の人が普通に得られたものが得られていません。そのせいで私の人間的価値は絶対的に低いのです。いくら専門知識があろうと会話能力がなければ社会でやっていけないのだと、今痛感しています。40歳に迫ろうとしている今となっては、その得られなかったものを得ようとしてもとても追いつかないのです。

場面緘黙であった頃、話さない代わりに、良く聞き、1人で考える力がつきました。時間はたくさんあったので、自分のペースでいろいろなことを考えることができました。学生の頃はこの力は非常に役に立ちました。しかし、社会に出ると、この個人主義は足かせにしかならなかったのです。自分で考え、自分で行動し、自分で責任を持つという癖は、上司に従い、指示されたことを上司の責任の下で次々とこなしていく、というサラリーマンとは相容れないものでした。

会社社会にうまく適応できない。自分の価値とはなんなのか、結局考えてはいけない方向に、思考が負のスパイラルを起こしてしまいます。普通の人は新しい会社に入っても少しずつでも慣れていくことができます。でも、私のように社会適応能力が余りにも育っていない状況の人だと、会社に入っても拒絶反応が先にきて心身を崩してしまうことが多いのではないでしょうか。場面緘黙だった期間が長いとそれだけ会社社会との段差も大きくなってしまいます。私にとって、会社に入ることは高い壁を無理してよじ登ったようなもの、もしくは登り切れていない状態だったのかもしれません。

私は現在38歳、無職です。もはや能力のピークも過ぎました。これからの人生、定職に就き、家庭を持ち、生活していく自分の姿をまったく想像できません。昨年末、精神的な不調により入院することになり、会社を退職しました。そこは、とある情報通信会社の研究所で、私は派遣社員として計算機 (パソコンやサーバー) をセットアップしたり、AI (人工知能) のプログラムを実行したりするような仕事を1年ほどしていました。労働環境も人間関係も非常に恵まれていました。ただ1つ、私が会社という組織になじめなかったことが問題でした。私が組織に組み込まれたときに大きな拒絶反応が起きて、そのストレスが積み重なっていき、限界を超えたところで心身に異状が現れたのではないかと思っています。

今回だけではありません。以前にも大学院博士課程を修了後に入社した会社を、うつ病で3ヶ月足らずで休職、そのまま退職しています。そのあとも幾つもの会社を3ヶ月~1年余りで辞めています。仕事ができずに辛い、人間関係が辛いというわけではなく、会社という組織社会にどうしてもなじめないのです。私は今、希望のない毎日を絶望感に苛まれながら悶々と生きています。

私はおそらく場面緘黙の後遺症と呼ばれるものに悩み続けています。場面緘黙が改善したあと、1番問題になるのは社会適応能力のなさです。場面緘黙時代のマイペースさ、個人主義的なところと、会社社会とがまったく相容れないのです。学童期から青春期にかけての成長期に、ずっと緘黙状態で過ごした私の場合、ギャップが非常に大きく、拒絶反応が心身に出てしまうほどです。これは社会的制約だと思います。これから先、私は場面緘黙の後遺症という社会的制約を受け続けながら生きていかなければいけないのです。

私は、いわゆる場面緘黙の後遺症になってから、うつ病、双極性感情障害、心的外傷後ストレス障害 (PTSD)、解離性障害、スキゾイドパーソナリティ障害 (SPD) などと、さまざま診断されてきました。その間、会社も入退職を繰り返しています。履歴書の職歴欄に職歴を書くとしたら、24行にもなってしまいます。

現在、私は後遺症をどうにかしようとしているところです。対人関係療法、マインドフルネス、アサーション (アサーティブネス) などの本を読んで、できそうなところから、実践していっています。

場面緘黙は学童期の早期に対応すれば、より早く、後遺症も残らずに治るものだと言われています。長い間、場面緘黙でいると私のように、その後の社会生活に多大な悪影響をおよぼします。後遺症を残さないようにするには、場面緘黙を早期に発見し、早期に治療することが最も必要であって、そのようなシステムが構築されることを強く望みます。そのためには、教育現場に携わるすべての人が場面緘黙について理解するようになって欲しいと思っています。

また、私は今、「言の葉の会」という、かんもく自助グループに参加してさまざまな活動を行っています。場面緘黙の啓発活動もその1つです。この体験記も啓発活動の一環です。このように少しずつですが、自らの手で、社会に対して場面緘黙の啓発・啓蒙活動などをしていきたいです。

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