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絵本に恥をかかされた日のこと

幼き日の屈辱的な経験として、今でも顔をしかめながら思い出すことがある。今日書くのは私と、虐待にまつわる一冊の絵本の思い出だ。

小学校時代、両親が働いている私は小学校三年生のときまで学童クラブで過ごしていた。
学童クラブというのは放課後、親が家におらず、留守番をさせるには不安な年頃の生徒たちが集まり、遊んだり宿題をしながら親の迎えを待つ場所で、部屋にはたくさんの机と、ちょっとした遊具(といっても小学生なのでけん玉とかお手玉とかである)、ちょっとした行事の際などに先生が弾くためのピアノなどがあった。

そして、部屋の片隅にはささやかながら本が集められた、いわば学級文庫のような棚があった。自由時間、外で遊ぶのが苦手な私はそこから本を引き出し、変わり映えのないラインナップを繰り返し繰り返し、今日はこっち、今日はこっち、と読み続けていたものである。

先生たちがどれくらいの年齢層だったか、今ではおぼろげにしか覚えていないが、わりとおばあさんといっていい年の方が多めだった。子供好きで時間に余裕がある人を、アルバイトとして集めていたのかもしれない。

そのせいだろうか、学級文庫に並ぶ本は少しばかりレベルが低めというか、はっきり言って幼稚なものばかりだった。字だけの本がまず少なく、絵つきの本が半分くらい、残りはすべて絵本だったのである。「ぞうさん」や「きりんさん」などが登場する絵本、あれは明らかに小学生よりももっと幼い子に向けて描かれていたように思う。

しかし、先生方は毎日、帰る前に一度生徒を全員部屋に集め、絵本の読み聞かせをする時間を設けていた。「こんとあき」とか、「ばばばあちゃん」シリーズなどといった名作ばかりではあるものの、おとなしく耳を傾けている生徒はわずかである。

バリエーションが少ないので飽きてしまっていたのである。みな、先生が、「今日はこれを読みます」と本を掲げると、またこれか、という顔をしていたのを思い出す。

小学二年生に上がった頃、それを受けてか先生たちが数冊の本を新たに買ってきた。買い足された本が全て絵本だったのには閉口したが、今度はやや対象年齢が高いものも混じっていた。いじめ、災害、公害などをテーマにした絵本たちである。どれもこれも、読みやすい平仮名がかえっておどろおどろしく見え、怖めの作品群だった。

その中に一冊、児童虐待について扱った絵本があった。
私はそれを興味深く思い、何度も繰り返し読んだ。真面目だった私は、こういう子たちを助けるために自分ができることは何か、などと真剣に考えており、まさかその絵本に苦しめられる日が来るとは、その時は少しも思っていなかったのである。

ある日のことだった。
いつも通り絵本の読み聞かせの時間がやってきて、先生が今日読む本はこれです、とその絵本を掲げた。私はそれが気に入っていたから、朗読を聞けるのが楽しみだ、と思いつつ席についた。

その絵本は色々な子供が、自分が受けた虐待の話を順々に語っていく、という内容である。こう書くとあまりにショッキングだが実際にそうで、何ページめくっても色んな子供が泣いていた。

そして実は、虐待の被害者のうち一人は私と同じ名前だった。

私の本名は非常によくあるもので、苗字まで合わせてもかなりありふれているため、クラス替えをすると、苗字が同じ人は何人、名前が同じ子が何人、と数えられることがあった。だから、本に自分と同じ名前の子が出てくることも慣れていたし、読んだときも特に何とも思っていなかったのである。

しかし、その名前により悲劇がもたらされた。
先生は情感を込めて絵本を読んでいき、私と同じ名の女の子についての記述に差し掛かった。泣きながら自分の経験を語る彼女が受けていたのは、義理の父からの性的虐待だった。
お父さんに風呂場で変な触られ方をすることがあり、恥ずかしくて辛くてたまらない、というような感じの独白文だったと思う。

するとどうだろう。
読み聞かせを聞いている生徒たちが、みなちらちらと私のことを見始めたのである。先生は相変わらず感情たっぷりに、お父さんが私のことを変な風に触るの、などと言っており、それを聞いて皆、くすくす笑ってこちらを眺めた。

こんなことがあるのか、と思った。最悪の気分だった。
まるで私自身が虐待を受け、嫌な思いをしているにも関わらずそれを笑われているような感覚、つい皆から目を逸らしてうつむき、何ともいえず恥ずかしいような、どこかに逃げてしまいたいような気分になった。

添えてある絵がまた辛かった。
半裸の女の子が涙をこぼしながら父親の前に立たされている、リアルな痛ましい絵で、絵本のタッチだからまだ見られるのだが、実際に誰かが経験したと考えると胸が苦しくてならない。

しかし、当時の私が一番最初に考えたのはその女の子の痛ましさではなかった。
あの絵を見て、みんなは今、私の裸を想像しているのではないか、と思い、羞恥の気持ちでいっぱいになったのである。

この部屋で、座って絵本を見たり、私を見たりしている子のうち数名は、私が実際に父親に服を脱がされ、触られるのを想像しているかもしれない。そう思うだけで、まるで自分が今この瞬間、先生の横に服を着せてもらえずに立たされているような気分になった。

私と同じ名前の子の登場部分が終わっても、私は顔を上げられなかった。

それからも時々、先生はその本を私たちに読み聞かせた。
読むのをやめてください、と言ったかどうか覚えていない。極度に内気な子供だったから、おそらく言えなかっただろう。

覚えているのは、その日から、先生がその本を読み聞かせする素振りを見せたらすぐさまトイレに篭るようになったことだ。またみなに注目されるのが嫌だった。褒められたり、叱られたりするのならいいが、あんな注目のされ方はまっぴらだ。

私は今でも人から性的に見られることを避けがちだが、このエピソードはもしかしたら、そうなった理由に当たるものかもしれない。あるいは私は生まれつきそういう性質で、それがあの時、初めて発現したのだろうか。

今となっては、先生たちの配慮のなさを呪いたいくらいの気持ちである。
それとも、物静かで影の薄い私の名前など、パートタイムで来ているだけの先生方は誰も覚えていなかったのだろうか。

昨日書いたもの→パン工場で待ち伏せされた日のこと

#エッセイ #コラム #昔の話

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青木空絵

アオキソラエです。思い出をまとめた2000字くらいのエッセイを半年ほど毎日投稿していましたが、2019年以降は不定期更新に切り替わっています。旅行に行ったら旅行記を書き、生活で辛いことがあったらエッセイを書き、という形でやっていく予定です。よろしくお願いいたします。

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