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ヌン茶ツアーは突然に。

「おいしい問題。」バレンタイン話。
「年末のちょっとした話。」の続きのような続いてないような、本気でひたすら食ってる話です。




 それは年が明け、一月も下旬に入ったある日のことだった。

「よー、おふたりさん。唐突だけど、ピエール・マルコリーニのヌン茶に興味ねえ?」

 カウベルを鳴らして入ってきたかづみさんがカウンターに落ち着くなり、なんか言った。
 コートを脱いだ下はいつものスーツ姿だけど、なんだか妙に疲れているようにも見える。
 なんだかんだ言って、何かあっても飄々としてるのに珍しい。
 お冷を出す私とカウンターの中で眉を寄せるほづみくんを交互に見ながら、「これ」と大画面のスマホを差し出した。
 「ピエール・マルコリーニ アフタヌーンティが再登場!」という見出しのネットニュースらしい。
 一緒に覗き込んだほづみくんが、「自分で行けよ」と素っ気なく突き放す。
 でも、かづみさんは予想できていたのか、「行くわ」とあっさり打ち返した。
「桜子ちゃん、ブレンドと今月のケーキ、あとアップルパイあったらくれるか」
「はーい」
 ほづみくんがポットを火にかけてくれたので、カウンターに入って豆を準備する。
「お前が行くなら、こっちに振るな」
「しゃーないだろ。チケットあぶれたんだから」
「あぶれた? それ、ブランド初のアフタヌーンティとやらで去年は即日十五分で完売だったやつだろうが」
 さすが、情報チェックはしっかりしているらしい。
 かづみさんはお冷を一気飲みして、深く息をつきながら頷いた。
「そ。今年は場所変えて、枠も増やすって話でさ。なんとかふたり分取れたわけ。なのに、その日にどうしても動かせない仕事が……裁判所め……」
 聞いたことがない低音で呻くのを眺めつつ、電動ミルで豆を挽く。
 ケーキの準備をしているほづみくんが、納得したように頷いた。
「そういうことか。甘味大王、痛恨の極みってやつだな」
「ほんっとにな! 結局、いづみのコネで別日取れたんだけど、その日はその日でパティシエ実演付きのデセール予約してるんだよ…!」
「お前なら同じ日でも食えるだろ」
「そういう問題じゃねえ! 俺は数詰め込めば満足するわけじゃないんだ! きっちり一日一メニュー、しっかりじっくり味わいたいわけ!」
 カウンターに飛び乗りそうな剣幕で捲し立てる。
 さすが弁護士、滑舌がいい。
「まあ、どう頑張っても行けなくなるよりはマシなんだけど! でも、このチケットキャンセルできないんだよ」
「それで、私たちにですか」
「そ。ひとり七千七百円だけど、カードで先払いしてるし、行ってくれるなら別に料金いらんし」
 一瞬絶句したのは、純粋に値段にぶっ飛んだのと、その価格ふたり分を奢ると言われたも同然だからだ。
 ほづみくんをチラッと見ると、微妙な渋面だ。
 これ、めんどいとか思ってる感じだな。
 案の定。
「だからって、ヌン茶のために東京くんだりまで行ってられるか。甘味大王じゃあるまいし」
「え、東京なの!?」
 つい口を挟んでしまったが、かづみさんもほづみくんもなんでもないように頷いた。
「あんなもん、そうそう地方でなんてやってくれんて」
「去年は新宿だったけど、今年は日本橋だったかな」
「はー…かづみさん、そのために東京行くんですか」
「ついでに三越伊勢丹のサロンデュショコラに行くから。特別招待日に乗り込むためにカード会員になってるし」
「命かけてますねえ…」
 感心なんだか呆れなんだか、我ながらよくわからないため息をついてしまう。
 今月限定の橙と蜂蜜のパウンドケーキを切り分けながら、ほづみくんも息をつく。
「金持ちの道楽だよ」
「道楽は否定せんが、俺のは副業取材も入ってるぞ」
「道楽がたまたま収入源になっただけだろうが」
 筆名でスイーツエッセイストのようなことをやっている義兄は、「それも否定はしない」と頷いた。
「だから、代わりに行ってくれ。新幹線代も出すし」
「あの…なんでそこまで?」
 キャンセルできないのはわかったけど、どうしても無理なら連絡した上で行かなければいいことだし、私たちがダメでもかづみさんなら知り合いも多いだろうから他を当たればいいのに。
「桜子ちゃん」
「はい」
 初めて法律相談に行ったときぶりかもしれない真面目な顔で名前を呼ばれ、ペーパーフィルターを持ったままなんとなく背が伸びる。
「スイーツオタクとして、社会人として、貴重なイベント枠を確保したのに穴を開けるなんて真似、したくないんだよ」
「…なるほど」
「それに、俺が取った分、行きたくても行けないひとがいたかもしれんわけで、なのに食わずに穴開けるなんて申し訳ない」
「…確かに」
「ついでに、貴重なヌン茶をそこらの味もろくにわからない、ミーハー精神だけでバエ写真撮るのが目的みたいなのには譲りたくない」
「…ほう」
「だから、食に拘りがあって、感想聞いたらまともに返ってくるふたりに穴埋め頼みたいわけ」
「よくわかりました」
 なんかだいぶ偏ってるけど、一応ちゃんと理由はあった。
 豆をサーバーにセットし、沸騰していた湯を移したポットでコーヒーを淹れる。
「それに、たまにはよそのもんを食べるのも勉強になるだろ」
 これはほづみくんに向けたらしい言葉に、当人は眉を寄せた。
「俺はパティシエじゃねえっつーの」
「でも、店で出すもんは作ってるだろうが。まあ、どうせ桜子ちゃんに食べたいって言われてせっせと練習してんだろうけど」
「うるせえ」
「お前の菓子も美味いけど、世の中にはいろんなもんがあるんだぞ。御厨的性格のせいで、桜子ちゃんがそういうもんを口にする機会奪うのも可哀想じゃないか」
 私?
「ほづみくんが作ってくれるので十分ですよ?」
「でも、チョコの扱いひとつとっても、桜子ちゃんのほうが上手いだろ」
 それは……まあ。ほづみくん、自分でもチョコの扱いは苦手って言ってるけども。
「道永さんに基礎から叩き込まれた人間と、完全独学の人間を比べるのは酷だけどさ。どうせなら世界トップクラスって言われるもん食べて、引き出し増やせよ」
「余計な世話だ」
 仏頂面で突っぱねたものの、なんとなく口調にいつもの勢いがない。
 が、トースターで温めたアップルパイと切り分けたパウンドケーキを皿に盛りつけ、ドン! とかづみさんの前に置いた。
 私も落ち切ったコーヒーをカップに注いで提供する。
 いそいそと手を合わせたかづみさんは、フォークでざっくりケーキを抉り取った。
「ん、ん、ほろ苦な橙と蜂蜜がいい塩梅。…そういうわけなんで、来週の水曜空けといてくれ。新幹線のチケットはこれな」
 スーツの内ポケットから紙のチケットケースを出して、カウンターに置く。
 呆気に取られる私の横で、ほづみくんが頭を抱えた。
「決定事項じゃねえか。桜子さんの予定も聞かずに…」
「年始に会ったときに、今は月曜しか学校勤務入れてないって聞いたから、なんとかなるだろうって見込みだ」
 なるけどさ。
 ハーッと深いため息をついたほづみくんの背中を慰めるつもりで撫でると、腰に腕が回る。
「ごめん、桜子さん…」
「大丈夫だよ。あんな高級メゾンならお茶もいいものだろうし、私も勉強するつもりで行くから」
 店のコーヒーと紅茶は、すっかり私の担当になっている。
 定番のものはいいとして、バレンタインやクリスマスみたいなイベントスイーツには、ちょっと特別なものを合わせたいとは思っていたのだ。
「桜子ちゃんのコーヒー、ほづみのより美味いもんな」
 パウンドケーキを高速で平らげつつあるかづみさんが言えば、ほづみくんが物騒な目で睨みつける。
「今度から水道水しか出さねえからな」
「お前、プロなら己の力量は客観視して認めろよ」
「おめえに桜子さんのコーヒー飲ませるなんて豚に真珠だっつってんだよ」
 いつもよりキレがある…というか、キレている。
 ほづみくんもお兄さんには遠慮しないし、男兄弟の口喧嘩って激しいんだなあ。自分の兄弟のことは記憶にないから、比較対象ゼロだけど。
 しかし、アフタヌーンティのために東京かあ。
 まあ、前にも東京に日帰りで鰻食べに行ったことあるし、無茶な話じゃないんだろうけど。
 …などと呑気に考えていたわけですが。
 「どうせなら一泊しようよ。他にも行ってみたいとこがあるんだ」という旦那の鶴の一声で一泊旅行になりました。



 翌週の火曜日、午前中の新幹線で東京に向かった。
 かづみさんがくれたチケットは水曜のものだったけど、それを一日ずらして変更したのだ。
 東京駅につき、まずは荷物をホテルに預ける。
「八重洲側、あんまいいとこなくてさー。ラグジュアリーでも日程に余裕がなくていい部屋空いてなくて」
「私、ビジホでも十分だけど…ほづみくんは窮屈だよねえ」
「下手したら寝返り打っただけでベッドから落ちる」
 グリーン車ですら狭そうにしている長い脚の持ち主は、深々と肩を落として私の手を引く。
 いつ来てもひとが多い駅構内を突っ切り、赤煉瓦の入り口側に出た。
 商業ビルの中に組み込まれているホテルで荷物を手放して身軽になり、車寄せに出ると強いビル風が吹きつける。
 風上に立ったほづみくんが解けかけていた私のマフラーを捕まえて、しっかりと巻き直してくれた。
「さて、これからなんですが」
「はい」
「ランチ代わりにアフタヌーンティに行こうと思います」
 一瞬、頭の中が混乱した。
 なにしろ、ここに至るまで具体的な予定は聞いていなかったのだ。
 毎回このパターンだけど、私にこの手の経験が異様にないせいで好奇心すら動かないってのと、それを熟知しているほづみくんが当日までお楽しみで待ってて、という体でサプライズしてくれる。
「ピエール・マルコリーニのは明日…だよね?」
「うん。バカ兄に言われてってのは業腹なんだけど、確かによそのものを食べるのも勉強かなーって思ってさ。で、前に桜子さんが言ってたこと思い出した」
「私…なんか言った?」
「地元ホテルのヌン茶行ったときに、『アフタヌーンティって名前のわりに、紅茶がそこまで美味しくないね』って」
「…そんなことを?」
「言ったんですよ、奥さん」
 さっぱり記憶にない。
「なんか偉そうでごめん」
「え、なんで謝るのさ。僕も全く同じこと思ってたもん」
 目を見張って、軽く笑う。
「でさ、どうせ東京まで出てくるんだったら、紅茶が美味しいヌン茶体験してみたいなーって思って、探してみたんだよ」
「なるほど」
 さすが首都、探せばなんなとあるもんだな。
 我ながらよくわからないところで感心しつつ、ほづみくんに促されるまま待機していたタクシーに乗り込む。
 慣れないシートベルトに苦戦している間に出発し、キョロキョロ車窓を眺めているうちに、立派な高層ビルの前で停まった。
 ワンメーターちょっとといった料金を支払って降り、クラシカルな雰囲気の入口から入ると、天井の高いレセプションに出る。
 暖色の照明と上階まで吹き抜けになった開放感のある設計で、ヨーロッパの高級ホテルにも似た雰囲気を感じた。
 ほづみくんにエスコートされるまま、正面のカフェに向かう。
 受付で名前を言うと、すぐに入口正面の一段高くなった場所に設置された席に通された。
 壁一面の巨大なルネサンス調の絵が存在感を見せる店内は、左右にカーテンで仕切ったシャンデリアのある席もあり、少し緊張する。
 コートを脱いで重厚さのある布張りの椅子に落ち着き、既にセットされていたメニューカードを手に取ってみた。
 新年がテーマらしく、モダンジャパニーズを感じるデザインのメニューには料理とケーキ類の説明に加え、ドリンクリストが並ぶ。
 案内してくれたスタッフが水のグラスを置いた。
「今、お料理をお持ちいたしますので、ドリンクをお選びください」
 ざっと見ただけでも十種類以上あって、目が泳ぐ。
 でも、とある一点に視線が止まり、うっかり出そうになった声を押し込めた。
「え…と、じゃあアップルティで」
「僕も同じもので」
「かしこまりました」
 ベストにパンツスタイルの制服を着た女性スタッフが綺麗に一礼して去っていくのを確認して、思わず斜め横に座るほづみくんの腕を掴んだ。
「ここ、フィーユ・ブルー飲み放題なんだけどっ」
「あ、うん。だから、ここにしたんだよ。桜子さんも好きだし、どうせなら日本人の口に合う紅茶のほうがいいと思って」
 あっさり言うが、そんなにあっさり言わないでほしい。
 日本人ブレンダーが日本の水や気候に合わせてブレンドした茶葉を販売している会社で、商品はオールティバッグ。
 個人的にブレンドティはティバッグが一番美味しく淹れられる派だから、前からちょっと気になっていた。
 当然お値段もお高め…とは言い難いけど、店として扱うならどうかなーと考えてしまう価格帯でもあり、でも味は抜群に私好み。
 なんで知ってるかって、スイーツオタクな義兄が頂き物をお裾分けしてくれたからです。
「なんてこと…確かにお茶が美味しいアフタヌーンティだわ…」
「ちなみに、ここの制限時間、四時間だから」
「…四?」
 つい腕時計を確認した。
 まだランチタイムだから、ティタイムまでいられると…?
 もしかしなくても、全種類制覇できてしまうのでは。
 感動に打ち震えている間にプレートに載ったセイボリーと七つの仕切りがある吊るし棚に並んだスイーツがやってきた。
 紅茶は当然の如くポットサービスだ。
「紅茶はこちらの砂時計が落ち切ってから召し上がってください」
 スタッフが去ったあと、ほづみくんにこそっと囁く。
「ちゃんと砂時計が出てきたアフタヌーンティって初めてかも」
「確かに」
 大抵は二、三分蒸らしてからと大雑把な指示だったり、あらかじめ茶葉を抜いたものだったりなのだ。
 紅茶を待つ間、料理を眺め、メニューの解説を読む。
「お料理、凝ってるねえ」
「基本、フレンチっぽいよね」
 牛蒡のフランやパテ・ド・ヴォライユといったフレンチメニューに加え、こちらもフランスではオーソドックスなクスクスがミントとサーモン仕立てのサラダになっている。
 他にもミニサイズのローストポークサンドやブルーチーズとりんごのコンポートを載せたバゲットと、ワインにも合いそうなラインナップ。
「あ、桜子さん」
 同じくメニューを見ていたほづみくんが声を上げた。
「あのグラスに入ってるやつ、アイスだよ。早めに食べないと溶ける」
 確かに棚の二段目に小さな丸いグラスが置いてあって、それがイチゴとチョコレートのアイスらしい。
「先に食べちゃう?」
「そうしよっか」
 グラスの底にはピンク色のクランブルが敷き詰めてあり、ひと口で食べられそうなサイズのアイスが可愛く並んでいた。
「おー、サイズはミニでも味は本格的」
 フレッシュなだけではなく、まったりしたミルク感もしっかりめなアイスは、暖房が効いた屋内で食べるととっても贅沢。
「美味しい〜」
「素朴で美味い」
 いつもの難しい顔で頷いたほづみくんが、「そろそろいけるっぽい」と紅茶をカップに注いでくれた。
 一気に爽やかなりんごの香りが広がる。
 綺麗なゴールデンリングが浮き上がるカップを顔に近づけると、紅茶自体の渋みを感じる香りもする。
 ひと口啜るとりんごの芳香に続いて紅茶の香りが鼻に抜け、さっぱりした渋みが残った。
「うわー、美味しい」
「うん……匂いきついと思ったのに、飲むと全然くどさとかないね」
「ね。ちゃんと紅茶の旨みがわかるもん」
 イチゴとチョコのアイスとの相性どうかなと思ったんだけど、問題ない。
 冷えた口の中を紅茶で温めつつアイスを完食し、「さて」と顔を見合わせた。
 セイボリー、どれからいこう。
「私、フランから」
「じゃあ…バゲットサンドにしようかな」
 フランは塩味のプリンとも説明される料理で、洋風茶碗蒸しのようなものだけど、これはクリーム一歩手前くらいにやわらかく仕上げてある。
 ベージュのメインの上に白いクリームの層が重なったそれを一緒に掬って口に入れると、間違いなく牛蒡の香りが広がった。
 でも、口当たりは軽くまろやかで、舌全体を旨みがサーッと包み込む。
 「お茶」で味わえるものとは思えないお味…。
 またもや感動に震える私の横で、ほづみくんは「ブルーチーズ、あんま主張しないな」と呟いている。
 真剣な表情で手に残った半分を見つめるのを眺めていると、甲高い囁き声が聞こえた。
「すっっっっっっごいイケメン…!」
「モデル…かな? それともホスト?」
 私が背を向けたほう…カーテンで周りと仕切られたソファ席のお客らしく、ヒソヒソ声なのに音域が高すぎてバッチリ通る。
 モデルとホストって二択になるのかあと微妙なところに感心しつつ、湯気が収まってきた紅茶を啜る。
 ん、りんごの香りって結構塩気のあるものにも合う。
 バゲットの屑を皿の上で払いながら、ほづみくんがスイーツが並ぶ棚を眺めた。
「セイボリー全部食べると、あとが辛くなるかな」
「あと?」
「甘いの続いたら、しょっぱいの欲しくなるだろ」
「確かに」
 ここのスイーツ、プチケーキが多めで、しかもサイズがわりとしっかりめ。
「いくつか保険で置いとこうかな」
「だね。…フラン、どうだった?」
「すっごい美味しかった! うちで出てきた記憶、あんまないんだけど作って欲しいくらい」
「なら、しっかり覚えて帰る」
 真面目な顔で頷いて、小さいグラスを手に取った。
 「トッピングはフライドオニオンか…」とか呟き、ひと口食べ、クリームだけ舐めと、純粋に楽しんでいるわけではないのが丸わかりだ。
 私が余計なことを言ったからなんだけど、真面目で損してることあるんじゃないかなあ。
 私は私で気になっていたクスクスに狙いを定める。
 ひと口サイズで、平置きできるスプーンに盛りつけられているから、このまま食べられるのだ。
 ん、クスクスって何が美味しいのかよくわからん食材だと思ってるんだけど、これは歯応えが気持ちいいクスクス。
「結構複雑な味だなあ」
 感心しきりにほづみくんが唸った。
 半分ほど食べ進めたフランをまじまじと眺め、口直しするように紅茶に口をつける。
「アフタヌーンティのセイボリーだから、もうちょいシンプル寄りかと思ってた」
「なんか普通にコースの前菜に出てきそうだよね」
「うん。このセイボリー全体、シャンパンと合わせてもいけるんだと思う」
 話すときは顔を寄せて、声量を落とし気味にするのがいつものことなんだけども、後ろから「やっぱりホストじゃない?」という声がして、つい妙な感じに眉が寄った。
 ほづみくんも当然気づいているようで、薄く苦笑いだ。
「ホストか」
「服、地味なのにね」
 今日は白のオックスフォードシャツの上から襟ぐり広めのケーブルニットを合わせ、ボトムは黒のテーパードパンツ。
 ホスト要素はゼロだ。
「御厨一族、顔が派手だから…」
「遺伝子レベルのもん、どうしろっての」
 ごもっともなんだけども、造形が人並み外れているせいで標準的な職業に収まるとは想像しづらいんだろうとも思う。
 要は、これだけの容姿でそれを活かさない職業なはずがない、と思われがち。一種の偏見だ。
「ホストがこんなとこで何してると思われてるのかな」
「…お客さんと営業デート?」
「桜子さん、ホスト通いしてるって思われてるってこと?」
 後ろからそういう話が聞こえてきたわけでもないのに、軽く眉を寄せる。
 が。
「同伴じゃない? お金持ちのお嬢だからヌン茶なんだよ」
 ヒソヒソ声のわりにやたら明瞭な声が届いた。
 ほづみくんの眉間に深い皺が寄るが、私は「お金持ちのお嬢」ってところが気になる。
「お嬢…?」
「桜子さんの格好、キャバ嬢とかには見えないからじゃないの」
 今日の服、新幹線に乗ることを考えて、ハイネックトップスの上に楽な黒のジャンパースカート、カシミアのオーバーサイズカーディガンを羽織っているだけだ。
 地味だけど、昼間っからホスト同伴してホテルのティルームで茶ぁしてるから「お嬢」かあ。なるほど。
「おもしろいね。自分じゃ想像もしないもん」
「普通の生活してれば、ホストなんてもんと関わりないんですよ、奥さん」
 勃然と呟いてカップを取り、「あ」と声を上げた。
「飲みきってた。桜子さん、次頼む?」
「うん。私、シャンパンローズにする」
 スタッフの注意を引いてオーダーし、ふと思いついたように「それと…」とだいぶひそめた声で何か数言続けた。
 一瞬考えるような顔をしたスタッフが、「かしこまりました」と頷いて去っていく。
 でも、すぐに大きめのトレイを持って戻ってきた。
「あちらのお席はいかがでしょうか」
 スタッフが指し示したのは、今いる一段高いスペースを挟んで反対側のカーテンで仕切られたスペースだ。
 ほづみくんは「大丈夫です」と頷いて、私の分もコートを持って立ち上がった。
「桜子さん、悪いけど移動しよ」
「うん?」
 バッグを掴んで促されるまま、カーテンの向こうの席に移った。
 スイーツの棚やセイボリーの皿、カトラリーなんかを移動させてくれたスタッフが、申し訳なさそうに頭を下げる。
「気づかず、ご不快な思いをさせてしまって申し訳ありません」
「いえ、事前にわかるものではありませんから。こちらこそ、勝手を言ってすみません。助かりました」
 あ、席の移動をお願いしたのか。
 無事に新しいティポットもやってきて、ほづみくんが深々と息をついた。
「制限時間長いのに、延々とアレを聞かされるの堪ったもんじゃないなって思って」
「なるほど」
「桜子さん、気になんない?」
「んー…あからさまに腹立つことや悪意いっぱいで不愉快なことを言われたら嫌だけど、所詮通りすがりの他人だしねえ」
 相手が誰であれ、自分の言葉の無神経さや失礼さに注意を払えず、所構わず口にしてしまうのはその人間の品性の問題だと思う。
 そのまま生きていけばいいし、それで痛い目を見ることがあっても自業自得だし、私の人生には関係のない人間だ。
「雑音聞かされるの遠慮したいとは思うけど」
 皿とカトラリーの位置を直しつつ言えば、軽く目を見張る。
「大人っていうか、そこまでいくといっそカッコよくて惚れ直すよ」
「なんでさ。でも、ほづみくんが辛抱ならんって思ったんなら私も腹立つから、席移動は全然構わないよ」
「勝手なこと言ってるなあってイラッとしたし…そのうち盗撮されそうだなって」
「あー」
 確かに、その可能性はあっただろう。
 この席なら周りに遮蔽物が多いし、さっきの席とは結構距離があるし、心配はなさそうだ。
「桜子さんと出会う前はねー、あの手のもそんな気にしなかったんだけど」
「そうなの?」
「てか、シャットアウトしてた? ほら、日本って男がひとりでヌン茶とかスイーツ食べてるとまだまだ悪目立ちするだろ」
 ため息をついて、棚から抹茶クリームのタルトを取って取り皿に載せた。
 ソフトクリームのようにうず高く巻かれた緑のクリームは分厚いタルトが土台で、見るからに食べ応えがありそう。
「店は閑古鳥だし、勉強と息抜き兼ねて食べに行っても、女性客が多数派の店だと周りの視線がうるさいんだよ」
 それならかづみさんと行けばよかったのに…と思ったが、そのころは実質絶縁中だったから思いつきもしなかったんだろう。
 それに、あの義兄と一緒だと、さらに悪目立ちしていたことは間違いない。
「そういうことかあ。ほづみくん、甘いもの好きなのにね」
「フランスだと男がひとりでココアとモンブラン食べてても誰も気にしないから、日本に戻って、そういえばこういう国だったって思い出した。だから、今は桜子さんのおかげですんごい楽」
「嫁の存在がそんなとこで役に立ってるとは」
 私も気になっていたまんまるツヤツヤのフランボワーズムースを取って、フォークを突き立てた。
 甘酸っぱいフランボワーズと中のホワイトチョコレートのムースのバランスがなかなかに絶妙。冬のメニューだからか、結構乳脂肪分多そうなお味だ。
 ほんのり薔薇の香りがするさっぱりめの紅茶とも相性がいい。
「それならあの手の野次馬みたいなの、気に障るよね」
 言いがかり的なホスト呼ばわりだったもんな。
 でも、ほづみくんは「んー…」とちょっと物言いたげな顔で私を見つめ、軽く息をついた。
「ま、昔から顔だけで水商売っぽいってのは言われてたから、今更だけど」
「水商売、ねえ」
 なんとなく違和感があって首を捻り、目の前の顔を見つめた。
 今どきならAI合成で作ったと言われて納得する綺麗な造形だし、体格も日本人離れというか一般的な人類離れしてるとは思うんだけど。
 私のホスト情報なんて、たまにテレビやネットニュースで見かけるくらいのもので実情なんてわからないが、確実に言えることはある。
「外見で言うなら、そういう世俗的なものとはかけ離れてると思うよ」
「世俗的?」
「あんまいい言い方が思い浮かばないけど、媚び売ったり、仕事だからって本心にもないこと言って他人を気持ちよくしたり…容姿売りにして他人をちやほやしたり? そういうのとは一番縁遠い感じ」
 金に執着なさそうってのもあるけど、それは完全に生まれついた環境のせいだと思うから別問題だとして。
「憶測だけど、自分の周りで見かけないくらいの美形だから、そのひとの中で一番見た目を売りにした仕事してるって思っちゃうのかもね。それがホストとかモデル…芸能人?」
「…なるほど?」
「まあ、だからって旦那さんとデートしてるのをホストの同伴って言われるのは心外だけども」
「だよねー」
 「口、ついてる」と指を伸ばす。
 私の口元を拭って、息をつくように笑った。
「地元だとそうでもないけど、やっぱ東京ってひと多いからか、遮断してても視線感じるし」
「前に来たとき、言ってたやつね」
「そうそう。ま、わかって来てるんだし、来ちゃったんだから楽しむけどさ。…桜子さん、今は特に興味そそられる美術展とかないって言ってただろ」
 急に話題が変わって、目を瞬く。
 ほづみくんはにまっと笑って、「たまにはジャンル違いのもので目の保養しようよ」と続けた。
「ジャンル違い?」
「ん。僕がちょっと興味そそられたってだけなんだけど」
「ふうん?」
 なんだろうと思ったものの、ほづみくんが楽しそうだからまあいいか。
「あ、このスコーン、美味しい。ピスタチオだって」
「ほんとだ。ジャムとかなくても十分だね」
 気を取り直して、改めて目の前の美味しいものに集中する。
 次はあの正統派っぽいチョコレートケーキにしようかなー。


 数時間後。
 私たちは丸の内に戻っていた。
 混み合うカフェの壁際の席で、遅めのティタイム中。
 アフタヌーンティで散々紅茶を飲み、スイーツを堪能したのになぜかと言えば、乾燥した美術館でたっぷり芸術鑑賞したからです。
「お待たせいたしました。スペシャルデセールのミルフィーユとガレットコンプレでございます」
 パリのカフェのような制服姿のスタッフが大きな皿を二枚、テーブルに置いた。
 大きなほうにはいっぱいにガレットが、小さいほうには不可思議な形のデセールが。
「おお…ミルフィーユ?」
「なんかそうめんを丸めて揚げたみたいだね」
 身も蓋もないほづみくんの言葉を否定することができない。
 真面目な話、ミルフィーユの生地の部分が細い麺状のものをぐるぐるに丸めて固めたものなのだ。
 手のひらサイズのそれが三段重ねになり、間にイチゴとクリームが挟まっている。
 正直な感想としては、ミルフィーユというよりも鳥の巣三段重ねという感じ。
「これ、どうやって食べるんだろ」
「んー…ちょっと待って」
 ガレットの半熟目玉焼きの黄身を崩してから真っ二つに切り、ぐるぐるっと丸めてガレットロールをふたつ作る。
 その皿と私の前にあったミルフィーユの皿を交換し、ほづみくんはフォークでグッと全体を抑え込むように一番上の鳥の巣を押さえた。
 パリパリと気持ちのいい音がするのに動じず、ザクッとナイフを入れる。
 多少崩れはしたものの、あっという間に見事に真っ二つにしてしまった。
「おお〜さすがプロ」
「この手のものって、思い切りが大事なんだよ」
 なんでもないように笑って、「熱いうちにガレット食べちゃおう」と私にカトラリーを差し出した。
 こんがり焼けたガレットを一口大に切って頬張る。
 とろけたチーズが熱いけど、薄いからはふはふしながら食べられてしまう。
 ちょっと苦味のある蕎麦粉生地にチーズとハムの塩気が対立するように際立ち、それを卵が和らげて丸っといい感じ。語彙がない。
「素直に美味し〜。コンプレって失敗ないよね」
「completって言うくらいだから。卵とハムとチーズでどうやって不味く作るって話だよ」
「なんか荒んでるね…?」
 なんとなく、いつものほづみくんには感じないやさぐれっぽさをキャッチして首を捻った。
 ほづみくんはほづみくんで、カトラリーを両手に持ったままピッと固まる。
「え、や、ごめん。ミルフィーユを期待してたところにそうめんかって思いと、僕じゃどう頑張ってもこれは思いつかないなって悔しさでつい」
 ミルフィーユについてはメニューに写真が載っていたんだけども、目に入ってなかったのかもしれない。
 まー、見てたとしても負けず嫌いの虫が騒いでたなら意識に留まらなかった可能性もあるし。
 私は見てたけど、深く考えてなかった。おなか空いてたから。
 ほづみくんは気まずげに頬を掻き、丸めたガレットを口に押し込む。
「…美味い。腹立つけど」
「前からちょいちょい気になってたんだけど」
「うん?」
「悔しいじゃなくて、腹立つってなんでかなって」
「…なんで?」
 知らない言葉を聞いたと言わんばかりに目を丸くするのを横目に、紙コップからコーヒーを啜る。
 この店、ドリンクはほぼ全部紙コップなのだ。価格帯的にアリなのかと驚いた。
「悔しい、ならわかるの。同じ料理人としていろいろ考えるんだろうし」
「うん」
「でも、腹が立つってget angryでしょ。怒るって日本語とは微妙にニュアンス違うけど、いまいちピンとこなくて」
「ああ、そういうこと」
 軽く頷いて、考えるように視線を天井に彷徨わせる。
 私はその間にガレットを平らげ、そうめんが擬態したミルフィーユに挑みかかった。
 ほづみくんが切ってくれてもなお食べづらい。
 諦めて一段ずつ剥がして食うか、と考えたときだった。
「上手く言えるかわかんないけど……僕がこういうときに使う『腹立つ』って、irritantが一番近い、のかなって思う」
「irritant?」
 私の語彙だと、「イライラする」のフランス語だが、セミネイティブの感覚はもう少し微妙なところを捉えているらしい。
「mot irritantって言うと、なんかカチンとくる言葉、みたいな意味になるんだけどさ、もうちょい広い意味で……神経に障るというか、チクチク刺激されるというか」
「んー…美味しいけど悔しいなー、こういうやり方あるのかーくそーみたいな?」
「近いかも。あと、僕が腹を立ててる相手って僕自身なんだよ」
「あ、なるほど」
 これはストンと理解できた。
「こんな美味しいもの作りおってやりよるって気持ちと、こういうの自分だと思いつかないとか、ほづみくんのことだから避けてたのに実際は美味しかったとか自分を責める気持ちが混ざる感じ?」
「まさに。桜子さん、やっぱ言語化上手いね」
 スッキリしたと笑って、ガレットの残りを豪快に切り分ける。
 綺麗な顔を惜しげもなく変形させてモッモと咀嚼し、何か思いついたように目を瞬かせる。
「さっき見た茶碗…曜変天目」
「うん?」
「あれもさ、なんとか復元しようって頑張ってるらしいけど、現代科学の力でもまだできてないっていうじゃん」
 アフタヌーンティを楽しんだあと、ほづみくんの希望で丸の内にある静嘉堂文庫で辰年に因んだ特別展と国宝の曜変天目茶碗を観に行ったのだ。
 実物を見るのは初めてで、テレビで見たときよりずっと妖しく輝く茶碗に見入ってしまった。
「目の前にすんごくいいものがあって、同じ形のものを作る力があるんなら、やっぱり自分もって思うし、できないと悔しいし自分に腹が立つんじゃないかなって」
「ふむ?」
「過去の先人に敬意とか尊敬とか大きいと、そこまでじゃないかもだけど。僕はリアルタイムだからさ」
「第一線からは引いたとか木崎さんにゆってたくせにー」
「それとこれとは別です。だって、桜子さんに美味しいって言わせてるのが僕じゃないってとこが重要なんだから」
「そこ?」
「そこだけだよ」
 今までのちょっと真面目な話はなんだったんだって感じだけど、ほづみくんも冗談を言っている様子ではない。
「ヌン茶のときだって、ホスト呼ばわりより桜子さんの彼氏とか旦那に見えんのかってとこがイライラポイントだったし」
「そうなの?」
「うん。慣れるのも嫌だけど、ホスト呼ばわりなんて今更だしね。盗撮はお断りだけど」
「なるほど」
 食感が完全に揚げそうめんなミルフィーユを苦労して口に入れて、咀嚼する。
 パリパリバリバリ噛み砕きながら、ほづみくんの思考回路を捉えようと考え……口に広がるあれこれに邪魔された。
「少なくともさ」
「うん?」
「このミルフィーユについては、そんな心配ってゆーか嫉妬ってゆーか、いらないと思う」
「どゆこと?」
「そうめんがクリームとかイチゴとかの味わい、完全に邪魔しとる」
「え、ほんと?」
 目を丸くして、バリッとフォークで削ったそうめんを口に突っ込んだ。
 だんだんと眉間に皺が寄り、なんとも微妙な感じに首がかしいでいく。
「これは……素材、なんだろうね」
「そうめんでは」
「いやー…あそこまで小麦粉の匂いしないから、たぶん違うと……違う、ことない、かな。いやでも、パイ生地使った菓子に期待する濃厚さとかがない上に、クリームはしっかりめだからアンバランスさがすごい…すごいな、これ」
 最後は真顔で呟いて、検分するように砕いたそうめんを皿に広げた。
 カリカリパリパリな味がついているのかどうかも曖昧な生地で、まったりしたクリームやフレッシュイチゴと一緒になると違和感がきついのだ。
「有名パティシエのカフェだから期待してたんだけど…」
「うーむ…それでも繁盛してるんだから、ウケてるってことだよなあ」
 難しい顔にあからさまな好奇心を露わにして、そうめんの塊を口に突っ込む。
「フランス的には美味しいとか?」
「いやー……どうだろ。兄弟子が食ったら、『愉快だね!』って爆笑する気はする」
 爆笑するのか。
「かづみさんならどうかな」
「あの甘味大王、甘けりゃいいんじゃないの」
 兄への解像度は雑だ。
 ぐだぐだ言いながらも、ガレットもミルフィーユも完食した。
 夕暮れのビルの街をぶらぶら歩いてホテルに戻ることにして、見上げるほどのビルが乱立する中をのんびりと進む。

「あ、このビルにあれが入ってるんだよ。千疋屋総本店」
「前にかづみさんがお土産ってくれたマンゴープリンの店?」
「そうそう。東京駅にも入ってたはずだから、明日買って帰ろうか」

「おお〜夕暮れの東京駅! 田舎もんだから、赤煉瓦側見るとなんかテンション上がる」
「僕さあ、人生で初めて見た東京駅が八重洲口側で、ずっと赤煉瓦のとふたつ東京駅があるって思ってたんだよ」
「まじか」
「兄弟子と東京駅で待ち合わせることになったときに、『普通の駅のほう? 赤煉瓦駅のほう?』って聞いて発覚した」
「…兄弟子さん、フランス人なのに?」
「『残念な話なんだけど、同じ駅なんだ』って言われて、なんのことかと思った」

 どうでもいい話をして笑い転げたり、お上りさん丸出しで写真を撮ったりしながら丸の内を散歩して、途中、地元にはない雑貨屋や無印の店舗を冷やかし、たっぷり二時間以上かけてホテルに戻った。
 フロントでチェックインすると、預けた荷物は部屋に運び入れてくれたというので、そのまま部屋に向かう。
「わー、結構広い!」
 ドアの向こうに予想外に長めの通路があり、クローゼットとバス・トイレのドアも余裕がありそうだ。
 室内はふたりで寝ても余裕がありすぎるくらいのダブルベッドにソファセットがあって、なおスペースがある。
 一人がけのソファがふたつ、オットマンまで揃っていて、テレビは当然の如く大画面。
「東京駅まん前の丸の内でこんな部屋って、高かったんじゃない?」
 旅行関係、基本ほづみくんに丸投げなので文句を言う気はサラサラないが、やっぱり気になる。
 でも、コーヒーセットを確認していた旦那は首を振った。
「それがですね、近くのアパホテルよりちょい高めくらいなんですよ、奥さん」
「…マジで? なんか出るの、このホテル」
 事故物件とかじゃないと、その値段は無理じゃないかと眉が寄る。
「なんも出ないよ、たぶん」
 笑って、フロントでもらった紙をピラッと広げた。
「このホテル、今順次改装中で、この辺りの部屋は日中騒音が聞こえるんだって。だから、この値段」
「騒音って…夜は関係ないんでしょ」
「うん。明日の午前十時から五時間くらいらしいけど」
「私ら関係ないね…」
 何も実害がないのにお安く泊まってしまって申し訳ない感じ。
 しかしソファに座り、どっと重だるくなった身体を背もたれに預けると、どうでもよくなってしまう。
 一気にタレた私に笑いながら、ほづみくんが「熱いお茶で水分補給する?」と言った。
「ほうじ茶あるよ」
「いただきます」
 寒いから積極的に水を飲まない分、意識が向くと喉が乾く。
 散々紅茶飲んだけど、あれ、カフェインだし。
 戻ってきたほづみくんから湯気の立つカップを受け取って、香ばしい匂いにホッと息をついた。
 ほづみくんも斜め向かいのソファに落ち着いて、同じくカップから啜る。
「今日の夕飯、遅めでいい?」
「うん。おやつしっかり食べたから」
「ならさ、本屋行かない?」
「この近く…八重洲の本屋って閉店したんじゃなかったっけ?」
「そうなんだけど、そっちじゃなくて、この隣に結構大きい丸善が入ってるんだよ」
「へー」
 ほづみくんが立てた指を上下させる。
「一階から四階まで本屋…まあ、世の習いで文房具とかも扱ってるんだけどね。地元にも大きいとこがあるけど、東京だと流通の桁が違うのか、普段見かけない本も多くて」
「えー、楽しそう」
 俄然興味が湧いてきた。
「ちょっと休憩して、本屋ぶらぶらして、同じビルのレストラン街で夕飯食べてって感じでどう?」
「賛成!」
 東京駅の周りって観光客が見る場所がないって思ってるんだけど、楽しみ方いろいろなんだなあ。
 その後、本好きがお宝の山に各々フィーバーした結果、段箱で家に郵送してもらうしかない事態に陥ったのだった。





 翌日の午前中、私たちは日本橋にいた。
 かづみさんに譲ってもらったアフタヌーンティをやるデパートも日本橋だが、そこから徒歩圏内の美術館が目的地。
 朝食を済ませ、段箱に入り切らなかった本を詰めたせいでずっしり重いスーツケースの配送手続きをホテルのフロントでして、タクシーに乗り込んだ。
 昨日、曜変天目茶碗を見たのが呼水になった…わけではないけど、どうせなら見られる国宝を見ておくかということになったのだ。
 旧三井財閥が作っただけあって、クラシカルな外見の割に中はペッカペカのビル上階にある美術館で、三井家所蔵の能面と能装束、国宝の円山応挙雪松図を堪能する。
 明治天皇献茶会でも使用されたという六曲一双の屏風を眺め、能面を裏側から見て、その視野の狭さにビビりと、日本の美術品に疎いふたりだが、それなりに楽しんで美術館をあとにした。
 二月のビル街は、陽射しがあっても風が強く、ダウンコートを着ていても身が竦む。ほづみくんの腕をしっかりつかまえて、向かい風の中を歩いた。
 商業ビルが立ち並ぶ大通りを歩いていくと、名前は聞いたことがある、なデパートや銀行が次々に現れる。
「さすが、三井グループばっか」
「お膝元みたいなもんだもんね」
 ほづみくんが、通り過ぎてきたほうを振り返る。
「三越もあるし、新しめの商業ビルも多いし、なんだかんだ言って首都強い」
「まあ、海外ブランドにしても、日本進出するならまずは東京ってとこが多そうだしね。銀座とか六本木、赤坂辺りって海外だと完全にブランド化してる地名だっていうし」
「でもさ、地名って固有名詞のはずだけど、東京って大阪と似た地名多くない?」
 言われると、そういえばと思い当たるものがいくつかある。多いかは別として。
「読み方が違うけど、日本橋とか京橋とか…淡路ってのもあるね」
「僕さ、東京駅と同じような感じでやらかしたことがあって」
「東京駅…って、昨日話してたやつ? ふたつあると思ってたって」
「それ。同じっていうか、逆パターンなんだけどね。昔、祖母が『京橋の老舗で死ぬほど美味しいモツ鍋食べた』って言っててさ。初めてひとりで東京来たときに、行ってみるかって探したわけ。でも、チェーン店はあっても、祖母が話してたみたいな個人経営の老舗なんて見つからなくて」
「…もしかして、大阪の京橋の話だった?」
「うん」
 真顔でこっくり頷いて、ちょっと視線を遠くする。
「祖父母が健在だったころだから、電話して正確な場所覚えてるかって聞いたら、『京阪の京橋駅で降りてから』って言うから、東京のど真ん中で立ち尽くしたよね」
「お疲れ様です…」
「あれ以来、真面目に都道府県確認するようになったもん。この日本橋も、大阪人と東京人が会話すると意味不明になるとこ第一位っていうし」
「それ、どこ調べ?」
「祖母の独断と偏見」
 阿呆にも程があるお喋りを楽しみつつ、まさに日本「橋」を渡り、麒麟の像を見上げて「きり、ん…? ハリポタにご出演なさっていたのでは…?」と首を捻り、無事に会場の高島屋に着いた。
 今はだいぶ見かけなくなったエレベーターガールならぬエレベーター係のおじ様の案内で屋上へ上がり、植木で公園っぽくなっているフロアの一角へ向かった。
 上等なプレハブ二階建てといった感じのカフェがアフタヌーンティの会場なのだ。
 一階で受付を済ませて、階段で二階に上がると、低めの天井とテーブルがいっぱいな空間で、パッと見た感じ、開放感があるとは言い難い。
 でも、スタッフさんに丁寧に案内され、壁際のソファ席に横並びで落ち着いた。スタンドが高くて、話をするのに不自由だと言うお客がいたらしい。
 テーブルには、ブランドの名入りの取り分け皿とカトラリーが整然と並び、アフタヌーンティの詳しい解説とドリンクメニューのリーフレットが皿の上に置いてある。
 オーダーを取られることはなく、案内のスタッフと入れ替わりでトレイを持った女性がやってきて、不思議なものを私たちの前に置いた。
「はじめに、カカオの実を絞ったピューレとカカオ豆をお楽しみください」
 直径十センチ強の木を薄い輪切りにしたようなプレートの上に、丸みを帯びたショットグラスと丸ごとのカカオ豆がひと粒。
 スコーン用だというジャムとクロテッドクリームの皿も置かれたけど、珍しさと驚きでそれでそれどころじゃない。
 スタッフが去り、ほづみくんと顔を見合わせた。
「カカオの実のピューレ…」
「豆…」
 恐る恐るグラスからひと口飲む。
 黄色味を帯びた乳白色の液体はドロッとして、繊維のようなものも感じる。飲み込むと、濃厚な甘味と、それにも負けない酸味が口中に広がった。
 まったりしているのにグレープフルーツ…いやマンゴスチンっぽい、と思った端から確かにチョコレートのほのかな風味が追いかけてくる。
「わー…」
「未知の味だ、これ」
 ほづみくんも半分空けたグラスをまじまじと見つめ、口元を押さえる。
「チョコレートって、カカオの実の種なんだよね。で、これはその種の周りの果肉ってことなんだろうけど、こんなにトロピカル系の味なのにカカオの味もするんだ」
「…僕、カカオの果肉の味については聞いたことがあるんだけど、全然カカオの風味しないはずなんだよ」
「え? でも、ちゃんと感じるよ?」
「うん、僕も。…何か香料的なものを入れてるのかな」
 不可解げに眉を寄せ、グラスをかたむけてチミッと舐める。
 私も残りをじっくり味わうつもりで、口に含んだ。
 めちゃくちゃトロピカル…だけど、絶対カカオの匂いするよなあ。
 ふたり揃って首を捻りつつ、あっという間に空になってしまったグラスを名残惜しく置いた。
 しかし、続いて齧ったカカオ豆には苦味に悶絶する。
「にっがい!」
「久しぶりに豆食ったけど、これは結構強烈…」
 しかも硬い。
 当然カカオの風味が贅沢なくらいなんだけど、とりあえず楽しめる感じじゃない。砂糖って偉大。
 ゴリゴリガリガリ噛み砕き、もしやこれが苦虫を噛むってやつでは…と阿呆なことを考える。
 ほづみくんも虚無と苦いが絶妙に混ざった顔でボリボリやっている。
 水が欲しいな、と思ったときだった。
「こちら、スペシャルカカオティでございます」
 ティカップがテーブルに置かれ、意識が一気にそちらに引っ張られた。
 なぜならば。
 湯気の立つカップから、なんだか凄くいい匂いがする。
 スタッフが立ち去るのも待ち切れない心地でカップを取り、鼻を突っ込むようにして匂いを嗅いだ。
「すんごい、いい匂い! お高いチョコレートの匂いがする」
 見た目は濃いめの水色の紅茶なのに、ショコラショーだと言われても納得するくらいチョコレートの香りだ。
 ベージュのリーフレットを見ていたほづみくんが、ひらひらと振った。
「それ、カカオのお茶なんだよ。フレーバーをつけてるんじゃなくて、カカオの外皮を乾燥させて、紅茶みたいに淹れたやつ」
「へー!」
 そういや、全然リーフレット見てないなと思ったが、口に残るカカオ豆の苦味を流したいこともあって、まずはとひと口啜った。
 香ばしいカカオの香りが鼻に抜け、目の前がチョコレート一色に染まった。
 …と錯覚するくらい、鮮烈な匂いだ。
「う、わ……これも、すご…」
 カカオ豆のかけらを完全に流し、もう一度慎重に口に流し入れる。
 やっぱりマイルドなビターチョコレートのような香りで、つい口がもぐもぐ動く。
 こちらも慎重にひと口啜ったほづみくんが、目を丸くした。
「おお…さすがオリジナル」
「オリジナル?」
「確か、カカオティってこのブランド独自に開発してるやつなんだよ。他でも同じようなもの売ってるかもだけど」
「へー」
 これ、うちの店で使えるかなあ? やっぱライセンス的なものや契約って難しいんだろうか。
 とりあえず、売り物なら買って帰りたいなー。お茶として純粋に美味しい。
 ストレートティなのに甘味があると錯覚する匂いを楽しんでいると、スタッフが三段スタンドを運んできた。
 二人分をひとつにまとめるのではなく、ひとりにつきスタンドひとつで、確かにテーブルに並べて置くと壁みたいだ。
 向かい合って座ったんじゃ、本気で会話に不自由する。
「お待たせいたしました。ピエール・マルコリーニスペシャルアフタヌーンティでございます。一番下のお皿は温かいものもありますので、お早めにどうぞ。一番上のお皿のものは、食べ切れないときはお持ち帰りも可能です」
 おお、至れり尽くせり。
 ドリンクのオーダーもして、いざ挑みかかった。
 一番下の皿にグラタンとブルスケッタ、スコーン二種。
 中段にケーキが三つ。
 一番上にはマカロン二種とチョコレートが四粒。
「ガイドに従って、セイボリーからいくべき?」
「グラタンあるしね」
 イラスト付きの解説によると、アンディーブのグラタンらしい。
 小さなココット入りのグラタンは、綺麗に焼き目がつき、ホワイトソースがたっぷりで贅沢感いっぱい。
「ここの料理、初めて食べたけどいける…」
「美味しいねえ」
 突出したものがある味ではなく、基本をきっちり押さえたオーソドックスな美味しさだ。火を通したアンディーブのとろっとした食感がソースによく絡んでいる。
 三口程度で空になってしまったココットを名残惜しく手放して、さて次はと狙いを定める。
 チョコチップが生地からこぼれそうなくらいのチョコチップスコーンを堪能し、プレーンのスコーンはセオリー通り横ふたつに割る。
 クロテッドクリームとジャムを載せて齧りつくと、素朴な味わい。スコーンって高級ブランドのでも、結局は素朴だと思うのが一番美味しい気がする。
「…やっぱモサモサするな」
 ほづみくんが手の中の歯型のついたスコーンを見つめて呟いた。
「チョコのは、ほろほろでもモスモスじゃなかったのにね」
「やっぱレシピからして違うんだろうなあ。あんまみっしりめでもないのに、ここまでモスモスモサモサさせてるってことは意図してるんだろうし」
 確かに、コッテリクロテッドクリームで美味しく味わおうと思ったら、モサモサのほうが美味しいんだろうな。
 ベルガモットの香りが爽やかなアールグレイとも、相性抜群。
 スコーンふたつとは言っても、三口くらいサイズなのであっという間に食べ終わり、二段目の皿に取りかかる。
 見た目はツヤツヤ真っ赤なハートのホワイトチョコレートムースに、半月型のオレンジコンフィが載ったショコラタルト、小さなカップ入りのミルクチョコレートとピスタチオのヴェリーヌはトップのベリーソースと綺麗な三層になっている。
「ここのケーキ類食べたの初めてだけど、さすが美味しいねえ」
「完成度高いよね。ここまでになると、自分に腹立てる気も失せる」
 オレンジ香るガナッシュがみっしり詰まったタルトにヤケクソのように食らいつき、もっもと口を動かす。
「ほづみくん、パティシエじゃないのに難儀だね」
「本当にそれ。自分のことなんだけど、ときどき本気で鬱陶しくなるよ」
 鼻からため息をついて、チラッと空になったココットを見る。
「グラタンはね、大体のレシピもわかるし、同じもの作ったら桜子さんに絶対僕のが美味しいって言ってもらえる自信あるんだけど」
「え、ほんと? 作って」
「うん、でっかいココットで作る。でもさ、スイーツになると、レシピの知識はあるからなんとなく察せるけど、絶対同じようにすら作れない」
 あのグラタンをうちのでっかいココットいっぱい…と一瞬うっとりしながら、真ん中で真っ二つにしたハートの片割れを口に押し込んだ。
 外側のフランボワーズと、それより酸味が強めの中に隠れたピュレ、口当たりは軽いのにホワイトチョコレートのまったり感とのバランスが絶妙。昨日もそっくり同じ構成のムースがあったけど、店が変われば全く別物だ。こっちのほうが、ホワイトチョコレートを食べている実感が強い。
 絶品ムースにさらにうっとりしつつ、ほづみくんの横顔を眺めた。
「私も学生してるし、ほづみくんもパティシエ修行してみる?」
「へ?」
 口をぽかんと開ける。
 そんな想定外な話かなー。
「ほづみくんの悔しいとか、自分に腹立つのって、料理のプロとしてのプライドと知識の偏りのギャップかなーって思ってね」
「ギャップ…」
「例えばさ、昨日の曜変天目茶碗。あれに何か料理を盛り付けるとしたら、何選ぶ?」
「ホワイトアスパラのグリエを一口大に切ったのに、コンソメジュレとポワブルローゼ添えたのか、舌平目のマリネと緑黄色野菜のロール。彩りシンプルなのがいいね」
「じゃあ、スイーツなら?」
「……かき氷、とかブラマンジェ」
 一気に難しい顔になるのが、予想通りだ。
 なら、言ってみる価値はある、と思う。
「ほら、盛り付けひとつとっても、そもそもの引き出しの数が違うんだよ。ほづみくんって料理人としての引き出しは、きっと世界規模でもトップクラスって言っていいと思うんだけど、それに比べたら、スイーツの引き出しはそうでもないんじゃない」
「それは…確かに」
「だから、独学で習得したものの整理と、引き出し増やすの目的で、専門家に師事してみるのもいいんじゃないかって思ったの」
 私の目から見て、ほづみくんのスイーツの味も作り方も、プロと言っていいものだけど、本人が無意識にでもその状態に納得していないのだ。
 昨日、美術館から出たあと、カフェでした会話。
 「irritant」の根源は、引き出しの数が本人が自分に求める水準を満たせるほどにない、というところではないのかと思った。
「なるほど…」
「ほづみくんの場合、一から製菓学校行っても無駄が多いかもだから、まずはリカレントプログラムやってるとこを探してみるのがいいかもね」
 リカレント教育は、いわゆる「生涯学習」「学び続ける」「学び直し」というやつだ。
 社会人対象の講座を開いている大学や専門学校が少しずつ増えているから、自動車通学も視野に入れれば見つかるんじゃないかな。
「パティシエ修行か…」
 タルトの残りを口に入れ、何やら考える様子で口を動かす。
 こういう話、男性は特にプライドを傷つけられやすいってのは、実家のスタッフや父を見ていたから経験として知っていた。
 でも、ほづみくんは、私の話はちゃんと聞いてくれるってわかってたし。
 プライドを傷つけられたとしても、仕事に関わることなら一度深呼吸して考えると思った。
 タルトとムースを平らげ、ヴェリーヌに手をつけて、ポツリと呟いた。
「やってみようかな」
「うん」
「桜子さんの言う通り、引き出し少ないって薄々自覚してたんだよ。料理のアイディア出すみたいに、スイーツはできないなって」
「うん」
「それに、あれ作ってみるかって思ったときに、自分の技量でできるものかなって足踏みするレシピもあったりさ」
「そうなんだ?」
 製菓のプロ…私のはおじいちゃんの受け売りだけど…曰く、売り物になるクッキーとパウンドケーキ、シフォンケーキが作れたら、まずプロとしての第一段階は合格だそうだ。
 ほづみくんが作るパウンドケーキも、クッキーも、おじいちゃんが「なかなかのもの」って言ったくらいだから、偏りはあっても十分プロレベルだろうし、季節もの含め、結構いろんなものを果敢に作ってると思うんだけど。
 でも、本人はヴェリーヌを見る目を眇め、ため息をつく。
「ムース作ると、死ぬほど失敗するんだよ…」
「……そうなの?」
「あと、チョコの扱いも苦手意識強いね。理屈はわかってるんだけど、手技が追いつかない」
 …このひと、パティシエでも失敗しやすいマカロンや、生地の扱いが難しいアップルパイやミルフィーユ、なんなら作ろうと思ったことないって言うプロもいるカヌレ、日常的に作ってんだけど。
 それに、バレンタインシーズンになると、なんだかんだチョコ菓子量産してる。
 よくわからない、と首を捻ったが、あとになって瀬良さんに言われた。

『ムースはね、卵を加熱せずに作るから衛生管理がすんごいめんどいんだよ。そこを徹底しつつ、それなりのものを作るのって結構大変。イタリアンメレンゲ使うやつは、加工過程で高温のシロップ加えるからね。余計に難しい』

 とまあ、ほづみくんが苦手にする理由はきちんとあったわけだが、それはともかく。
「結構ピンポイントなんだね、苦手なもの」
「んーまあ…製菓の基本自体は勤め人時代からぼちぼち勉強してたんだけどね。閑古鳥時代に知識を実践に移してみたら、その辺が難しかった感じで」
「そんな前から勉強してたの?」
 今までの話で、てっきり閑古鳥の二年間で身につけたんだと思っていた。
 でも、ほづみくんは難しいのと苦々しいのと諦めてるのとが混ざったような複雑で奇妙な顔で頷いた。
「いつか独立する気だったし、レストランなんてやる気なかったから、スイーツは外注するか自作するかの二択でさ。でも、まーじでお客来なかったから外注してる場合じゃなくなって」
「なるほど…」
「それに、今の時代、プロが解説動画上げてたりするし、それできついとこは兄弟子の店のパティシエに聞けたしで、なんとか誤魔化せてしまったというか」
「あー、確かにね」
 以前、某菓子屋のプロデューサーが、基本の菓子の作り方は全部YouTubeで覚えたと言っていたのを思い出す。
 料理の基本が身についている人間とあれを一緒にするのは無理があるにせよ、話を聞く分にはわりと綱渡り感ある。
「だから、桜子さんの話…プロにきっちり師事するってやつ、必要だなあって思った」
「そっかあ」
 頷いて、グラスからこそげるようにかき集めたチョコムースの最後のひと口をスプーンで口に突っ込んだ。
 まろやかなミルクチョコと香ばしさがしっかり出たピスタチオのコンビネーションが堪らん。
 しっかし、今の話からすると、ほづみくんのジレンマ解消に必要なのってリカレント……かなあ?
 基礎は私が漠然と感じていたよりもしっかりあるっぽいし、苦手なものもはっきりしてる。
 あ、そうだ。
「さっき言ってた、自分の技量で作れるか不安って、ムースのこと?」
「大部分は。あとは細工関係かな」
「細工?」
「ケーキの飾りのチョコレート細工とか飴細工とか。あとは、今食べたハートのムースみたいなケーキ自体の造形。あのムース、外側のフランボワーズの外装が、ほぼ均一で滑らかだっただろ」
「うん」
「ああいうのって、本や動画だけじゃコツが掴めないんだよ」
「なるほど…。でも、料理のプロだからか、素人が尻込みするスフレとかスポンジケーキとか平気だよね」
「あの辺は、フレンチでも扱うから。ムースもあるけど、名前が同じだけで別物」
「ああ、そっか」
 てことは、自分が持ってる技術の転用も問題ない。
 ……ふむ。
 ちょうど見回ってきたスタッフにドリンクのおかわりを頼み、カップに残ったアールグレイを飲み干した。
「なら、学校じゃなくて個人レッスン頼んでみるのは?」
「誰に?」
「瀬良さん…は仕事忙しくて難しいかもだから、おじいちゃんとか」
 途端にぽかんと口を開けた。
 この話を始めたとき以上の反応で、手からスプーンが滑り落ちそう。
 でも、スプーンを取り落とすことはなく、気を取り直したように目を瞬いた。
「桜子さん、すんごいこと思いつくね」
「そう?」
「門外漢とは言え、今となっちゃ道永さんがどんなひとか知ってるんだよ。中途半端に菓子作り覚えた人間の指導とか頼むこと自体、失礼すぎて」
「そうかなあ? ほづみくんになら、教えてくれると思うけど」
「いや、そうじゃなくて…それに道永さん、有馬在住じゃん。さすがに通えないって」
「今は動画通話があるでしょ。それにねえ、たぶんなんだけど、おじいちゃんにオンライン授業してもらうって聞いたら、瀬良さんも参加したいって言いそう」
「なんで?」
「瀬良さん、おじいちゃんのこと、大好きだから」
「……うおっと」
 今度は、スプーンを落としかけた。
 慌てて宙を舞いかけたカトラリーをキャッチして、テーブルに置く。
 そんなに動揺するか。
「でもまあ、私が勝手に思いついて言ってるだけだから、実際のとこはお願いしても断られる可能性高いんだけどね」
「…そうだと思うよ」
「だけど、ほづみくんのお悩み解決には、学校とか行くより、ピンポイントで疑問を解決しやすいマンツーマンのが良さげなんだよね。なんで、おじいちゃんがダメでも、知り合いのパティシエさん紹介してもらうとか」
「まあ…それなら」
 渋々、というわけではなく、現実を受け入れようとしているような、なんだかよくわからない覚悟めいたものを感じる。
「今、店の定番メニューにしてるものを中心にした製菓の基礎の確認とムースの扱い、あとはチョコレートの扱い方と飾り物含めた製菓造形。この辺をある程度系統立てて教えてくれるひとがいないか、聞いてみるよ」
「…いるのかな? そんな人材」
「いないならいないで、そのときは製菓学校当たろう。それか、ほづみくんの兄弟子さんの人脈にお縋りする?」
「あー、その手もあるね」
 ほづみくんがコクコク頷いたところで、ふわっとコーヒーの香りがした。
 おかわりに頼んだオリジナルブレンドだ。
 美味しいチョコレートには紅茶…でもいいと思うんだけど、ここのメニューは全部フレーバーティで、私好みのクラシックティがない。ならばコーヒーと一緒に楽しみたい。
 同じ理由でコーヒーを頼んだ旦那さんは、ブラックでひと口啜り、「結構軽め」と呟いた。
 私も火傷しないように啜ってみる。
 酸味のあるコーヒーが苦手な私でも美味しく飲める程度で、ほづみくんの言う通り、コーヒーのオイリー感を上手く中和している。
 ここのコーヒー、もうひとつコクが強めのブレンドがあるんだけど、そっちも試してみたいな。
「ま、うちに帰ってから考えよ。とりあえず、ほづみくんのモヤモヤ解消の道筋、ひとつはあるよってことで」
「ん。…ありがと」
 元々腕が触れ合う距離で座っているけど、もたれるようにして肩を預けてきた。
 私もほづみくんの肩に頭を寄せる。
「昨日、僕がイライラしてたから考えてくれてたんだろ」
「…イライラしてたの?」
 なんかいつもより感情が表に出てるなとは思ったけど、アフタヌーンティのときに失礼な客と居合わせた影響かと。
 ほづみくんは「してたんですよ」と息をつく。
「兄さんに、世の中にいろんなものあるのに、桜子さんからそういうものを食べる機会奪ってるって言われたの、ビミョーに残ってて」
 そんな前の会話が火種だったのか。
 一瞬、なんの話だと思うくらい、私は完全に忘れていた。
「あのそうめんなミルフィーユ見て、確かに僕じゃこんなもん思いつかないって自覚したら、なんか…今まで目を逸らしていたことがじわじわとね」
「そうめん…そんな影響が…」
 いや、本当に何が原因や起爆剤になるか、わかんないわ。
 半ば感心めいた気持ちでピンクのマカロンを取って、歯を立てる。
 さすがのさっくり感と甘酸っぱいベリーの味わいに、そんな場合でもないと思いつつ、満足のため息が出た。
「人間って難しいねえ」
「自分のことだけど、ほんっとに何が悩みの種になるかわかんないよね」
 ほづみくんもマカロンに齧りつき、「あ、うま」と手元を眺める。
「そういや、マカロンって作ったことないな」
「え、うそ。私、食べたことあるよ。前に期間限定のパフェやったとき。刺さってたじゃん」
「あれは皮だけだろ。まあ、あれが昔ながらのマカロンの名残があるやつで、いつの間にか、この亜種が市民権得てるけど」
「あー、このタイプ、マカロン・パリって言うんだっけね」
 天下のラデュレ様が前世紀前半にクリームを挟んだタイプを作ったらしいが、今の日本人、マカロンと聞けば、これしか浮かばない人が大半じゃないかな。
「あの皮はそこまで難しくないんだけどさ」
「それ、世のパティシエが聞いたら闇討ちされるから、あんま大声で言わないほうがいいよ」
 瀬良さん、毎回表面がひび割れてたり、カッチカチのニッチニチな皮になったりで、おじいちゃんにどやされてたもん。
 それを見ても、他のスタッフたちは「マカロンはしゃーないわ」って言ってたくらい難易度高い。
 なのに、訝しげに首を捻るのがこのダンナ。
「そう…? ともかくね、クリームとの相性とか舌触りとかってのを考え出すと、成功するとは思えなくて挑戦据え置きになってた」
「まあ…クリーム挟んで、美味しく食べられるように作るの大変だもんね。なら、そういうのもプロに基本とか教わって、試行錯誤すればいいんじゃない」
「そうする」
 マカロンの残りを口に押し込み、どこかすっきりした顔で頷いた。
 ふたつ目のマカロンを取り、ふと思い出した様子で私を見る。
「このデパートでもバレンタインフェアやってるんだよ」
「あ、一階に案内出てたね」
「せっかくだし、寄ってく? 地元より出店数多そうだし」
「いいねえ。せっかくついでに、新幹線で食べるお弁当、デパ地下で見繕う?」
 前に曉子さんが、「東京ってデパ地下弁当の種類まで地方とは違うのよ」って言ってたんだ。
「こっちのデパ地下、死ぬほど充実してるっていうし」
「いいね。…あ」
「あ?」
「や……兄弟子から聞いたことがあるんだけどさ、日本最古の弁当屋って知ってる?」
「一番古いってこと?」
「現存する中では、ってことらしいんだけど。兄弟子は師匠から聞いたんだったかな。さすがbentoの国だな、江戸時代の味付けが現代でも味わえるなんてって」
「へー」
 初耳もいいところで俄然興味が湧く。
「それ、どこにあるの? 京都?」
「や、それがこの近くに本店があるんだって。ここに来るまでに通ってきた…日本橋渡る手前あたりを曲がったとこ。今はデパ地下でも買えるそうだけど」
「日本橋の老舗かあ。食べてみたいね」
「日本橋周辺のデパートには大抵入ってるって言ってたから、探してみよっか」
「うん。江戸時代の…きっと庶民の味だよね。お弁当ってことは。やっぱり鰹出汁メインなのかな?」
「んー…兄弟子は『とても合理的な味だった。二百年近く続いているだけはある』って言ってたんだけど」
「合理的な味?」
 なんだそりゃ。
 まあ、自分で食べてみればわかるか。
 湯気が落ち着いてきたコーヒーでマカロンの甘味を洗い流し、もう一種類のコーヒーを頼んだ。
「それにしても、今回もよく食べる旅になったね」
「僕らの目的、大抵食だしね」
「でも、アフタヌーンティ二日連続なんて贅沢にも程があると思うの」
「ま、そもそもの目的がアフタヌーンティだったから」
「……かづみさん、やっぱ御厨のひとだわ」
 そのアフタヌーンティも、あとチョコレート四粒で終わりだ。
 金色の紙に包まれたものと濃い色のガナッシュ、鮮やかな赤と可愛いピンクのハートが一粒ずつ。
「これ、持って帰る?」
「僕は食べて帰る。これ込みで完成形なわけだし」
「それもそうか。私も食べよ」
「それに、家で食べたければ下で買う」
「このボンボンめ」
 ここのチョコレート、一粒五百円前後するんだぞ。気になりすぎて調べたから詳しいんだ。
 でも、私より下調べ万全なのがほづみくんなので。
「このチョコ、全部売ってるやつだから味見兼ねて食べればいいんだよ。僕ら、たまにあるだろ。勢いで買っちゃったけど、食べてみるとそこまで合わなかったっての」
「…あるけども」
「ここの価格帯のチョコでそれだったら、桜子さん号泣もんだしさ」
「…ごもっともで」
 なんかいつもの負けた気分になってきた。
 何も負けてないんだけど。
 勝手になってるだけなんだけど…!
「そだ。東京駅で千疋屋のマンゴープリンも買わなきゃね」
「あ」
「かづみ兄さん情報で、あそこの季節の杏仁豆腐ってのもかなりいけるらしいんだけど」
「食べる」
 何かを見越したように次々と繰り出してくるダンナに白旗を揚げるしかない。
 にまっと笑う美形のほっぺた、限界まで引き延ばしてやりたいが、伸ばしたところでどうにもならないのだとわかっているのでぐっと堪えた。
「ほづみくんさー、よく私に手のひらで転がされてるっていうけど、あれ嘘だよね」
「真面目な本心だよ?」
「絶対、私がほづみくんの手のひらの上で転がりながらミニチュアほづみくん転がしてるだけだわ」
「ミニチュア…」
 ま、いいけどさ。
 転がされるの、嫌いじゃないし。
 転がされついでに、下でどこかのアソートボックスとか買ってもらおう。でっかいやつ。
 我ながら邪悪なことを考えつつ、旦那さんの肩に体重を預けたまま、チョコレートを口に放り込んだ。
 今回も、美味しかった。

 帰りの新幹線で「合理的な江戸時代から続く味」の意味を痛感したり、昨日の本並みに嵩張る土産に翻弄されたりしながらも、無事に帰宅したわけですが。

「道永さんにパティシエ指導頼む!? そんなの、一月でも一年でもうちに滞在してもらえばいいだろうってか、うちに泊まってもらえるようにお願いしろ!」

 アフタヌーンティの感想を聞きに来たかづみさんが理性を失ったせいで、なかなか賑やかなことになったのだった。

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