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お母さんといっしょ。

「おいしい問題。」突発コバナシ。



 それは七月も下旬に差しかかるある土曜日のことだった。
 朝から大学の地下書庫に籠って文献を漁り、地上に出てきたところでスマホが震えた。
 地下は本気で電波が入らないのだ、うちの大学図書館。
 パーカーに突っ込みっぱなしだったスマホを取り出して確認すると、ほづみくんでも院生仲間でもなく、曉子さんからメッセージが入っている。
 珍しいこともあるなと思いつつ確認すると、送信されたのは十五分くらい前のようで、「桜子ちゃん、もしかして大学にいる?」の一言だけ。
 急いで荷物を抱えて外に出て電話した。
 ほづみくんのようにワンコール鳴る前に繋がる。
『あ、もしもしー? 桜子ちゃん?』
「はい。すみません、図書館の地下書庫にいて」
『もしかしてそうかなーって思ったのよ。店にはいないみたいだったから』
 なんか妙な言い方だなと思ったけど、深く考える前に言葉が続く。
『じゃあね、今からちょっと出て来れる? 申し訳ないんだけど』
「資料探しは終わったんで大丈夫ですよ。てか、今図書館の入り口前に出てます」
『電話してるもんねえ。じゃあ、そのまま正門のとこまで来てもらっていい?』
「はーい?」
 通話を切り、なんかいつもの曉子さんと感じが違ったなと首を捻る。
 まだるっこしいというか、歯にものが挟まったような言い方だったというか。
 しかし待たせるわけにもいないので、そのまま正門に向かった。
 今日もあっつい…というか、溶ける。溶けたそばからアスファルトに焦げつきそうな暑さだ。
 学部生は学期末試験真っ最中なので、図書館も構内もひとが多い。レポートとプレゼンで成績評価する授業が大部分を占める院生は気楽なものだけど。
 無事正門に辿り着くと、周りを見回す前に「こっちー」と声がした。
 顔を向けると、黒の国産高級車。
 の、横に美形が三人。
 待て待て、なんの祭りだ。
 曉子さんはまだしも、かづみさんといづみさんまでいるのはさすがに想定外だ。
 周りの学生たちも、見ただけでは関係性がわからなさすぎる美形の集団に目を白黒させながらも凝視している。スマホ構えてるのがいないだけマシだけども。
 泡を食う、を体感しもって駆け寄ると、曉子さんが朗らかに「急にごめんね」と笑った。
「いえ……何事です?」
 義兄たちに視線を向けて言うと、いづみさんが苦笑いする。
「だよなあ」
「いづみさん、今日、お店は?」
「強制休暇。ちょいタダ働き事案発生してさ」
 全く意味がわからなくて目を白黒させる私に、かづみさんが唐突に手を差し出した。
「桜子ちゃん、ちょいスマホ貸して」
「どうぞ」
 手に持ったままだったのを渡すと、なぜか肩を落とす。
「…あっさり渡すもんじゃないと思うぞ」
 え、どうして欲しかったんだ。
 でも、かづみさんは私のスマホ片手に、さらにわけのわからないことを言い出した。
「桜子ちゃんには、先に詫びておく」
「わ…何を?」
「これからわかる。とりあえず、今すぐこの車に乗って、母さんと出発してくれ」
「どこに?」
「着けばわかる」
「いや、でも、私これから店の手伝いなんですけど」
「大丈夫、いづみがやる」
「なんて???」
 いろいろ吹っ飛んで、義家族相手にうっすら被ってる猫らしきものが消滅した。
 これ、どういう状況なんだ。
「さ、乗って乗って」
「え、ええ?」
 曉子さんに問答無用で後部座席に押し込まれ、ふかふかの座席に転がる。運転席から廻神さんが会釈してくれるけど、それどころじゃない。
 続いて乗り込んできた曉子さんが、「じゃ、あとは頼んだ」と外に手を振ってドアを閉めた。
 シートベルトを締める間もなく動き出したのに、さすがに焦りが募る。
「ちょ…待って、人さらいー!」
「アハハ、確かにねー」
「確かにじゃなーいっ」
 叫び声も虚しく、車は加速していく。
 今更のようにスマホがないことに思い至ったときには、完全に手遅れだった。


 大学から拉致られた数時間後。
 日本の首都のど真ん中、銀座のお高いカフェで美味しいパスタをがっついている。
 向かいでは曉子さんが同じパスタをフォークで優雅に巻き取っていた。
 あの後、新幹線に放り込まれて着いたのは東京駅だった。
 なぜ東京、と思う間もなく、今度はタクシーに放り込まれて、ここに直行したのだ。
 土地勘なんて殆どないから、曉子さんがタクシーの運転手に告げた地名で、ここが日本一地価が高い場所だということしかわからない。
 新幹線の中では、「どうしても桜子ちゃんにつき合って欲しいとこがあるのよ」とにっこり言われて終わったし。いや、かづみさんもだけど、御厨の系統じゃなくても十分迫力ある美形なんでな。
 危害を加えられることだけは絶対にないという安心感もあって、諦めることにした。
 実際のところ、一人前で二千円超えるパスタをご馳走になっちゃ、多少のことはどうでもよくなる。ほづみくんには、かづみさんたちが説明に行ってくれてるらしいし。…死んでないといいけど。
「んー、美味しい。マンゴーと生ハムって鉄板ですもんね」
 そうめんみたいな冷製カッペリーニのパスタには、贅沢にマンゴーと生ハムがいっぱい。ベースはトマトとニンニクだけど、フルーツの邪魔をするほどじゃなくていいバランスだ。
「結構いけるでしょ。ここ、本社は和菓子屋だけど」
「一階でいろいろ売ってましたよね。デパ地下でよく見るやつ」
 今いるのはビルの三階部分のカフェだけど、一階は完全に販売店舗だった。
 涼しげなゼリーや、季節の果物を使ったゼリーみたいなのが記憶に残っている。
 デパ地下で見かけたときは、マスカット一粒丸々使ってるとか、白桃一個丸々使ってるとか、美味しそうだとは思うものの、値段に尻込みして手を出したことはない。
「そうそう。果物使うのが上手いのよね。ここもそうだし」
「デザートメニューも美味しそうでしたよね。プリンアラモードとかフルーツゼリーとか」
「もちろん食べるわよ。食べるでしょ?」
「…いただきます」
 ここで遠慮しても遠慮の無駄遣いだとは、さすがに理解してます。
「これで、もう少し景色がよければ言うことないんだけどねー」
 曉子さんの言葉通り、今いる窓際に近いソファ席からは、外を見ることができるけど、灰色っぽいメタリックな建物の壁しか見えない。
「タクシーの窓から見ただけですけど、この辺ってやっぱり一般人が想像する銀座の中心地みたいなとこですか?」
 ランチサービスだというピクルスを咀嚼して言えば、曉子さんは笑って頷いた。
「そうね。ここから歩いてすぐの交差点に、銀座といえばのセイコーの大時計と和光と銀座三越があるし。昔、夫とよく買い物に来てたのよ」
「へー!」
 さすがセレブ。買い物のために東京来てたのかあ。
 パスタを平らげ、これまたうちの店ならランチセットを頼んでもお釣りが来る値段のフルーツゼリーを追加オーダーした。
 背の高いパフェグラスの下から半分くらいが果物入りの綺麗に透き通ったゼリーで、その上に刻んだマンゴーゼリーとパイナップルのジェラートが載っている一品。
 この店、ランチサービスの一環で、キウィのスープがついてきたんだけども、それも酸味を上手く使った夏にぴったりの味わいだった。このジェラートも、パイナップルの刺々しさが抜けて美味しいところだけが残ったみたいな味。
 香り立ち抜群のアイスティも一滴残さず啜り、大満足で手を合わせた。
「ごちそうさまでした!」
「楽しんでもらえたようでよかったわ。さて、エネルギー補充もしたことだし、行きましょうか」
「そういや、結局何も聞いてないんですけど、何しに東京に?」
「ふふ……」
 いかにも意味深に笑った曉子さんは、さっき眺めた外のビルを指差した。
「まずは、あそこで戦闘準備よ」
「せ…?」
 なに、まさかサバゲーでもするってか。私、体力も筋力もゼロですけど。
 ちょっと逃げたい、と思った私を逃すまいとしてか、曉子さんはがっしりと手首を握りしめた。
「ま、満喫してちょうだい」
 いや、こういうとこ、ほんとほづみくんとそっくりだわ…。


 またもや数時間後。
 完全に魂抜けております。
 曉子さんは、見たことないくらい上機嫌ですが。
「やー、楽しかったわ〜。やっぱ女子の買い物はいいわね、華やかで!」
「お義母様…」
「あ、来たわよ、アフタヌーンティ」
 静々とやってきたスタッフがシンプルな三段トレイとティセットを素早くセッティングし、料理の説明をして去っていく。
「一度来てみたかったんだけど、アフタヌーンティは二名からなのよ」
 曉子さんが可愛らしさを感じるパステルカラーのカップを手に笑う。私、笑えるメンタルじゃないんですけども。
「このマカロン、ここでしか買えないんですって。味の想像はつくけど百聞は一見にしかずって言うしね」
「お菓子はありがたくいただきますけども……曉子さん、率直に聞きますが、今日いくら使ってます?」
「やあねー、野暮なことは言いっこなしよ」
 カラカラと笑うが、笑えん。
 ちらっと横を見れば、大小の紙袋の山。
 このビル、上から下まで高級ブランドとハイブランドで埋め尽くされた恐ろしい場所で、この義母、そこを行脚したのだ。
 私の買い物するために。
 「最初はワンピからね〜」と始まり、服と靴とバッグ、アクセサリーとフルコンボ。
 さらには、「今日は泊まりだから明日の服と下着と化粧品もいるわよね」とランジェリー専門店とメイクフロアも制覇した。
 てか、泊まりなんですか。どうしよう。
「一生分の高級ブランド体験、いっぺんにした気分です…」
「大丈夫よう、ほづみと夫婦やってたら、もっとすごいイベントあるはずだから」
「なーんも大丈夫じゃないです」
 このカフェも、完全予約制でお値段三桁の商品がないという恐ろしい場所だ。
 白を基調にしたインテリアで、ブランドの顔とも言うべき千鳥格子柄のソファチェアと壁のモザイクのようなアートらしきものがアクセントを添える。ブランド愛用者ならテンション爆上がり間違いなしなんだろうけども。何しろ世界に名だたる高級ブランド様のコンセプトカフェで、これまた有名フランス高級菓子屋とコラボしてるという。
 このアフタヌーンティも二人分で諭吉ふたりくらい吹っ飛ぶ。
 一番上の皿に並んだマカロン、ブランドロゴが入ってるんだぜ。
 そんなもんを躊躇いなく口に入れられる理由はひとつ、ここに至るまでの店でとんでもない桁数ばかり見てきたからだ。一時的に、何か麻痺してる。
 ここのワンピなんていくらするんだろう……曉子さんに激しくお勧めされて流されたんだけど、オサレ高級ブランドって値段わかりやすく掲示してないし、試着のときは汗やファンデで汚さないかってとこにばっかり意識がいってそれどころじゃなかったし。
 下着屋は安心の日本メーカーだと思いきや、なんか個室で接客されてエステでも始まるんじゃないかとヒヤヒヤした。
 もしかしなくても、私の横の紙袋総額、車一台なら余裕で買えるくらいだと思う。
「それで…こんなお買い物して…メインは買い物じゃないんですよね?」
 やたらと美味しいベリーのシュークリームを攻略しつつ言えば、曉子さんはあっさりと頷いた。
「そろそろネタ明かししてもいいかな。歌舞伎につき合って欲しいの」
「歌舞伎?」
 予想もしなかった言葉に、文字通り目が丸くなった。
「歌舞伎って古典芸能の?」
「そ。夜の部だから、ホテルでシャワー浴びて、着替えてから行きましょ」
「……歌舞伎って、全身ハイブランドで固めてないと行けないものなんですか?」
 どうして、わざわざほづみくんの目を盗んで、私を大学から連れ出してまで歌舞伎なのか、とは訊けなかった。
 なんとなく…本当になんとなく、ただの勘だけど、曉子さんにとって訊かれたくない話題なんじゃないか、と思ったのだ。
 そして、聞いたとして、私は上手く受け止められないような気もした。
 こんなふうに勘が働くときは、逆らわないほうがいい。
「まさか。さすがにジャージでオッケーとは言わないけど、清潔感さえあれば普段着で問題ないわよ」
「…じゃあ、この紙袋の山は」
「せっかくほづみをだまくらかして桜子ちゃん独占できるのよ? 徹底的に楽しまないと損じゃない」
「お義母様…」
「ここもね、かづみなら喜んでつき合うだろうけど、あの息子、メニューを上から下まで制覇して、食べてるばっかりだから」
「そこんとこはわかります」
「あ、食べたいデセールあったら、追加してね。私、最初からモワルーショコラ気になってるの」
 一皿三千円オーバーなケーキを頼めと気軽に言えるあたり、やっぱ御厨の奥様だ。私、並ぶゼロでおなかいっぱいです。
 お銀座のハイソなカフェらしく、周りの客も小洒落た都会人やお洒落した女性陣に外国人観光客と、普段の生活圏ではあまり遭遇しない人種ばっかり。
 曉子さんがいるからどうにかなってるけども、ひとりじゃ耐えられない…というか、入ろうとすら思わない場所だ。
「どうせなら、デセール制覇して、帰ってからほづみに作ってもらったら?」
「そんなこと頼んだら、自分で食べないと再現できないってまた連れて来られます」
「ああ、どうせ東京くんだりまで出てくるなら、他の店も行きたいわね」
「そうじゃないんですよ、お義母様」
 学生時代は結構なビンボー生活だったらしいけど、数十年単位でセレブな奥様してるとこうもぶっ飛ぶものか、としみじみ考えながら、いろんな意味で高級なアフタヌーンティを堪能した。
 …大丈夫だとは思うけど、自戒はしとこ。贅沢に慣れるの、危険。

 カフェを出て、ホテルにチェックインして着替え、徒歩で向かった先は、新橋演舞場だった。
 曉子さんが取っていたホテル、演舞場のすぐそばだったのだ。
 てっきり、歌舞伎というから歌舞伎座に行くんだと思い込んでたんだけど。
 買ってもらったワンピ、ドレスと言ったほうが相応しいようなデザインで、ハイヒールも履いてるから、別の意味でドッキドキです。
 入り口そばにかかっていた看板やチラシからわかったのは、今日は三演目あるということと、ひとつだけ私でも題目からうっすら内容を推し量れるものがあるということ。
 歌舞伎の舞台自体初めてだから、席の良し悪しなんてものもわからず、曉子さんに誘導されるまま、売店でアイスやお弁当を買った後、花道寄りの一階席に落ち着いた。
 アイスのゴミを片付けたり、洗面所を使ったりしているうちに開園時間になる。
 初歌舞伎で粗筋すら知らないなんて無謀じゃないかなあと思っていたけど、意外とそうでもない。
 想像していたより台詞が現代的だし、予備校と塾で高校生に古典を教えていたからか、全くわからない古語もなかったからだと思う。
 何より衣装が華やかで楽しい。
 ひとつ目の演目が終わり、幕間になったところで買っておいたお弁当を広げた。
「初歌舞伎、どう?」
「いろんなものにびっくりでした」
 隣から顔を覗き込まれ、即答した。
 ちなみに、あんだけ私のものを買い込んだ義母は和服です。
 涼しげな青灰色の透け感のある生地で、「義母にもらった紗でねー、唐草紋様がお気に入りなの」とのことですが、詳しく聞くと「桜子ちゃんも和服着る?」とか言われそうな気配を察知したので頷くに留めました。
「後半、どういう状況かわかんないなりに、スローモーな動きと仕草がおもしろかったし、最後の台の上で揃ってポーズ取るの、錦絵って感じでカッコよかったし」
「あれねー、だんまりって古典演出なのよ。舞台の上は暗闇設定で、登場人物たちがお互いに様子を探り合うっていう」
「だからスローモー。みんな、近寄ってはハッて驚いてるように見えたから、なんだろうって思ったんです」
「眠くならなかった?」
「めちゃくちゃ楽しいです!」
「あ、よかった。力技で引っ張ってきたものの、退屈だったら三時間以上辛いだろうなーって」
 それは確かに。…もしかしなくても、曉子さんにとっても結構博打だったんでは。
 わりとしっかりめの味付けのカツを頬張る横で、「私、最初は歌舞伎なんてわけわかんないって思ったクチだから」と続く。
「曉子さんも誰かに連れてきてもらったんですか」
「旦那にね」
「へえ? 旦那さん、歌舞伎お好きだったんですか」
 御厨の兄弟と曉子さんから聞いてる話でしか知らないひとだけど、随分多趣味だったんだなあと思ったが。
「ぜーんぜん」
「全然? …観たことないのに、曉子さん連れてきたんです?」
「おっかしーでしょ」
 笑って、柴漬けを載せたご飯を頬張る。
「知り合って、初めてのデートだったんだけどね。その前に趣味はなんだって聞かれて、演劇鑑賞だって言ったわけ。当時の私の研究テーマ、民衆と演劇みたいなとこで、実際は趣味なんかじゃなくて、他に言えることなかったってだけなんだけど」
「曉子さんのテーマってことは…フランス方面ですよね?」
「だね。私が研究してた時代の演劇ってのは、情報伝達やプロパガンダ流布の役目なんかも担ってた部分があってさ、そういうとこが興味の範疇だったんだけど、旦那はそういう分野とは縁がなかったの。だから、詳しいことはなーんにも言わなかった」
「あー…曉子さんがお芝居好きだってことしかデータがなかったと。でも、唐突に歌舞伎って渋いですね」
「義母に女性が喜ぶ芝居ってなんだって聞いたらしいのよ」
「あ、なるほど」
 ほづみくんたちのお祖母様、曉子さんのお姑さんというひとが、京都の花街にも顔が利くような家のお嬢様だったということは知っているから納得した。
「でー、義母の人脈使って、いいお切符を取って誘ってくれたの」
「歌舞伎に」
「歌舞伎に」
 顔を見合わせて、ふはっと笑ってしまった。
「それ、知ったときに勘違いだって言わなかったんですか」
「言えないわよう。旦那自身、初歌舞伎で右も左もわからないのに必死でエスコートしようとしてるのが見え見えなんだもん。ここで本当のこと言ったら、動揺するだろうなあって思ったら」
「それは確かに言えないかも」
 笑いを堪えながらご飯を口に運び、お茶を飲む。
 ほづみくんも、ちょっとそういうとこあるから妙な親近感が湧いてしまう。
「でも、日本の古典なんて高校でやったっきりだし、わけわかんないなーって思いながら観てたんだけど、それなりに言ってること理解できるし、観てるうちに決まった様式があるのがわかるしで、おもしろかったのよ」
「あ、それ、私も思いました。歌舞伎の台詞回しとか、もっと間延びしてるのかと思ってたんですけど、聞き取って理解するにはちょうどいいっていうか」
「そうそう。歌みたいなもんだと思ってれば、なんとでもなるのよね。で、終わった後にお茶したときに、うっかりポロッと言っちゃったわけ。歌舞伎って楽しいんですねって」
「それ聞いて、旦那さんはなんて?」
「そうですねーって笑ってた」
「…気づかなかったんですか」
「そ。でね、結婚した後に訊いてきたの。もしかして、歌舞伎行ったことなかったのかって」
「結構なタイムラグ、ありません?」
「ありまくりよー。しかも訊いてきたの、会社行くのに見送りに出たときだったからね。脈絡なさすぎて、真顔で寝ぼけてる? って訊いたわ」
「なんか、ほづみくんのお父さんだなーって感じ」
 出汁で煮含めた湯葉巻きを口に入れ、もきゅもきゅと噛み締める。
 曉子さんも苦笑いめいた顔で大きく頷いた。
「そうなのよね。雰囲気はいづみのほうが似てると思うんだけど、思考回路や言動はほづみにコピーしたみたいで」
「こっちのこと考えていろいろしてくれるんですけど、たまに空回りしちゃって、でも結果的にそんな悪いことにならないとか」
「そうそう。結局、その後もふたりで歌舞伎行くこと多かったしね」
「ハマっちゃったんですねえ」
「席によって、見え方や聞こえ方も違うのがおもしろくてねー」
 そう言って、客席の端、花道側の桟敷へ視線を向ける。
「あの辺だと、斜めから観ることになるんだけど、お弁当食べるのにテーブルあるし、前の人の頭で視界が遮られることがなくて快適ではあるのよね」
「へーっ」
 今は膝の上にハンカチを広げてお弁当を載せているだけだ。
 テーブルあるなら、食べやすそう。
「ただ、花道での演技がほぼ背中になるとかね、デメリットもなくはない。旦那はライト直射になるのがきついって言ってたし」
「でも、背中側って何気にレアじゃないです?」
「桜子ちゃん、旦那と同じこと言うねえ」
 塩味の卵焼きを口に放り込み、舞台へと目をやった。
 この席はほぼ正面から全景を見ることができる。
「でも、次の演目は正面からがお勧め」
「そうなんですか? 次って、京鹿子娘道成寺ですよね」
「そ。女方舞踊の名作ってやつだね。桜子ちゃんなら、道成寺伝説は知ってるでしょ?」
「安珍と清姫の話ですよね。最後、大蛇に変身した清姫が、安珍が逃げ隠れた鐘をぐるぐる巻きにして焼き殺したっていう」
 こくこくと頷き、曉子さんは妙に厳かに言った。
「別名、御厨の先祖の話」
 堪らず噴き出すところだった。
 無理に堪えたせいで、鼻に米粒入った気がする。
「ぐっ…ふ…ゲホ……」
「え、大丈夫?」
「は…や、え、御厨のご先祖、蛇なんですか?」
「やっだ、違うわよ」
 カラカラ笑って、ポケットティッシュを差し出した。ありがたく受け取って、危うく流れ出るところだった鼻水を拭く。
「まあ、あの執念深さ知ってると、先祖が清姫だって言われても驚かないけど。旦那が言ってたのよ、うちの人間、誰も彼もが清姫みたいなもんだって」
「あー」
 そういや、前に曉子さんも、ほづみくん二分割してサロメと清姫乗り移ったみたいな夫婦って言ってたなあ。
「一族総清姫かあ」
「ぶっ」
 今度は曉子さんが噴いた。
 弁当に覆い被さるように前屈して、全身を震わせている。
「ティッシュいります?」
「や……へーき」
 頭を上げて、手でパタパタと顔を煽ぐ。
「ふー、どこでツボにハマるかわかんないから危険だわ」
 そんなおもしろいこと言ったつもりないんだけどな。
 名前通り、幕間で食べ終えるためか、控えめな量の幕の内弁当を平らげ、手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「私もごちそうさま。いっつも思うんだけど、もうちょいボリュームあってもいいのに、くらいの塩梅なのよね」
 蓋をした弁当柄をビニル袋にまとめて言うのに、あ、やっぱりと思った。
「あとふた口くらい、なんか欲しいなーって感じですよね」
「ねー。私らでもそう思うくらいだから、やっぱ旦那は物足りないってしょんぼりしてたわ」
「か、かわいそう…」
 でも、しょんぼりするのか…。
 脳内でほづみくんが食べ足りないときに見せる顔が再生され、どうにも笑いが込み上げる。
 間もなく開演だとアナウンスが入ったので、ゴミ捨ては次の幕間に行くことにして、ひとまず座席の下に突っ込んだ。
 さて、ど素人の私でも知ってる有名演目、どんなものか楽しみ。


「すっっっっごい、綺麗でした…」
 目の前でジュワジュワ焼ける分厚い肉の匂いを浴びながら、我ながらうっとり呟いた。
 三演目も見終わって、「軽く食べて帰りましょ。夜中におなか空いて目が覚めるから」と曉子さんにタクシーに放り込まれて、鉄板焼きの店にやって来たのだ。
 軽くとは…? と思わないでもなかったけど、余裕でおなかは空いてるから問題ない。
 銀座の鉄板焼き屋なんてどんな高級店かと慄いたが、堅苦しい店ではないようで、焼き野菜とフィレ、ガーリック炒飯というシンプルオーダーにも快く答えてくれた。
「最初はなんで白拍子なんだろって思ったんですけど、どんどん衣装も小道具も変わっていくから、どうでもよくなりました。役者さんの背筋と腹筋、凄い! って感じだったし」
「本当に楽しめたみたいでよかったわ」
 ワイングラス片手に笑う曉子さんとカウンターに並んで座り、辛口白ワインを口に含む。すっきりした味わいで、重い肉と食べてもよさそうだ。
「楽しかったです。実は、お能は京都で教えてたころに学校引率で観たことあったんですけど、全然違っててびっくりしました」
「ああ、そうよね。なんとなく古典芸能で一括りにしがちだけど、全くの別物だもん」
「江戸時代の庶民の娯楽って言われると、なるほど! って感じ」
 やわらかジューシーなフィレステーキと香ばしいニンニク醤油味の絶品炒飯を堪能しながら、感想話に花が咲く。
 程よく満腹になって、大満足でホテルに戻った。
「じゃあ、明日は八時に一階のレストランでね」
「はい、おやすみなさい」
「おやすみ」
 「いくら関係良好でも、姑と同じ部屋じゃ気疲れするでしょ〜」と、別々に部屋を取ってくれていたので、廊下で別れる。
 こじんまりした広さだけど、ほづみくんと寝ても余裕のあるキングサイズベッドに、コーナータイプのソファセットのある部屋だ。
 トイレもセパレートだし、浴室は洗い場付き。
 …曉子さん、全く財布に触らせてくれなかったんだけど、今回のコレ、総額どんくらいになってんだろ。新幹線もグリーン車だったしな…。
 考えても仕方ないと割り切って、表面積の大部分が繊細なレース仕立てのワンピースを脱ぎ、考えた末に余計なことはせず、クローゼットにかけておくことにした。手入れの仕方とか、絶対ほづみくんのほうが詳しいもん。
 同じ考えで、きゅっと上部を絞る巾着型のバッグは中身を抜いて型崩れ防止のクッションを入れ、ハイヒールと一緒にクローゼットに仕舞う。
 一仕事終えた気分でバスルームに飛び込み、シャワーを浴びた。
 バスタブもあるから、お湯を溜めてヒールで疲れた足を解し……奇妙な違和感に首を捻った。
 なんだろ、この感覚。
 落ち着かない気分でさっさと上がり、髪を拭きながら静まり返った部屋を見まわした。
 ……そっか。
 こんなにほづみくんと離れてたことって、殆どないんだ。
 ほづみくんが記憶吹っ飛ばしたときくらい。
 スマホがないから定期連絡を入れることもないし、電話で声を聞いてもいない。
 さっきまでは曉子さんが一緒だったし、知らないものを見たり聞いたりの連続で考える余裕がなかったけど。
 お風呂にしても、お湯に浸かるときは後ろから抱っこされるのがいつもの体勢だし、そもそもひとりで入るのが物凄く久しぶり。
 …ほづみくん、どうしてるかな。
 いづみさんが店手伝うって言ってたけど、塩撒いて追い払ってたりしてないかなあ。
 てか、よく考えたら、今回のことって御厨的逆鱗に手榴弾投げるようなもんなんでは。
 現実逃避もあって目を逸らしていたことを改めて直視ししたせいで、風呂から出たばかりなのに汗が滲む。
 えー……曉子さんとかづみさんが噛んでる時点で、何かしらの手は打ってると思うんだけど……帰ったら、本気で首輪つけていい? って聞かれそう。
 今更ながらに、電話をかけておいたほうが、と思ったものの、スマホがないから番号がわからない。
 ネットで調べて、一か八か店のほうにかけてみるかとも思ったが、調べるためのツールがない。
 スマホ、なくても困らんとか思ってたけど、わりと真面目に困るな!?
 ひょえーとのけぞりそうになったものの、もうどうしようもないわと開き直ることにした。
 だって、スマホ、かづみさんに取り上げられちゃったし。
 車で拉致られて、ここ東京だし。
 うん、大丈夫。私、悪くない。……ない、よな?
 ほづみくんのご機嫌がどんな具合か未知数すぎて、頭痛くなってきた。
 適当に髪を乾かし、備え付けのパジャマを着て、ベッドに潜り込む。
 ふかふか枕と絶妙な硬さのマットレスに、今はこの贅沢な環境を満喫しようと目を閉じた。
 …なんか、ベッド広すぎるなあ。
 朝になって目が覚めたら、隣にほづみくんが寝てるとか、ないかなあ。
 薄寒い落ち着かなさにモゾモゾしつつ、睡魔のしっぽを捕まえるために羊を数えることにしたのだった。


 枕元の目覚まし時計がしっかり仕事をしてくれたおかげで、予定通りの時間に目が覚めた。
 でも、寝る前に期待したようなことはなく、広いベッドの端っこで身を起こす。
 …ほづみくん、いないかあ。まあ、そうだよな。スマホ、私が持ってればGPSで追っかけて来られただろうけど、かづみさんが持ってるし。
 追いかけてきていたとしても、まともなホテルならセキュリティの問題がある以上、安易に鍵を渡すはずもないし、私もドアロックかけてたし。
 なーんか調子出ないなー。
 のろのろとベッドから降りて顔を洗い、歯を磨く。
 昨日、曉子さんに貢がれてしまったコスメで顔を作り、これまた「明日はこれね!」とコーデされた明るいパステルグリーンのサマーニットとラベンダー模様の白いフレアスカートを着込んだ。
 脱いだ服とか、バッグや靴、どうやって持って帰ろう。近くに宅配業者の事業所があれば、段ボールに詰めて家に送るという手も…とか考えているうちに、約束の時間が迫っている。
 チェックアウトまでに考えることにして、昨日買ってもらったハンドバッグにカードキーやポケットティッシュなんかを突っ込み、部屋を出た。
 このホテルは、落ち着いた色調と照明の客室フロアから一度二階のロビーフロアに降り、そこから一階行きのエレベーターに乗り換えなくてはならない。
 どこか無骨さを感じるランプがところどこに下がったレセプションには小型のグランドピアノが鎮座し、その横にカフェバーがある。そこで朝食をとっているひとたちもいるが、曉子さんに一階のレストランと言われたために素通りして、地上階に降りた。
 ふわっと香るルームフレグランスに包まれて、突き当たりのレストランに入ると、すぐさまスタッフが寄ってきた。
 カードキーと一緒にホルダーに入っていた朝食券を渡すと、「お連れ様がお待ちです」と案内される。
 黒と白が基調の入り口を抜け、大通りに面したガラスウォールを横目に進んだところで、奥の席からひらひらと手を振る曉子さんが見えた。昨日とは打って変わって、パンツスタイルだ。
「おはよう。よく眠れた?」
「はい。すんごい寝心地いいベッドでした」
 向かいに腰を下ろすと、スタッフが木製のボードにセットしたメニューを差し出す。
「本日は、こちらのメニュー通り、コース仕立てでご提供いたします。卵の調理方法と、お好みのシャルキュトリーをお選びください」
 ドリンクとパンは好きなだけ、という方式らしいので、食べたいものを選び、オーダーを済ませる。
 いの一番にやってきたコーヒーを啜ると、ホッと息がもれた。
「このホテル、名前聞いたことなかったんですけど、贅沢サービスですね」
「でしょ。系列にはお手頃価格のとこもあるんだけど、ここは健康志向の特別朝食出してくれるとこでね。大きいところって、それはそれで楽しめるけど、寛ぎづらいし」
 確かに外国人観光客が大多数で、その点は騒がしいけど、大型ホテルにありがちな、騒然とした空気や雑多な雰囲気は微塵もない。
 曉子さんの肩越しに、日曜でもガラスの向こうを足早に行くスーツ姿のひとたちが見えるのに、ここは時間の流れが違う。
「お待たせいたしました。最初に、飲むサプリメントをお楽しみください」
 細長い木のトレイに細いショットグラスが三つ。それぞれ、鮮やかな緑、黄色、赤のスムージーが入っている。
 リンゴが勝つ小松菜、まろやかなパイナップルジンジャー、目が覚めるような酸味のビーツとバルサミコで、飲んでいる間に具沢山スープとグリーンサラダがやってきた。これは、フルーツ酵素を使ったグレープフルーツの苦味が爽やかなドレッシングで食べる。
「はー…新鮮野菜ってだけでも十分ですけど、おっしゃれー」
「本当ねー。サニーレタス二枚並べただけなのに見栄えするわ」
 いや、レッドキャベツみたいなのと、たぶんなんか難しい名前の草もありますしね。ほづみくんがいたら、嬉々として解説してくれそう。
 サラダの次は焦げ目のない綺麗なプレーンオムレツに、チョイスしたシャルキュトリのホットディッシュ。粗びきソーセージ、ハーブソーセージ、ベーコンにポークハムとラタトゥイユと盛りだくさんで賑やか。
 ジューシーなソーセージとバターが香るオムレツに、サクサクのクロワッサンが抜群に合う。
 刻んだ野菜がたっぷりのコンソメスープも美味しい。これ、ちょっとハーブ入ってて爽やかなんだけど、前にほづみくんが同じようなの作ってくれたな。あれはベーコン入ってた。
 いちいち思い出してしまうことに、少し感慨深さまで抱きつつ、美味しいごはんを完食して、デザートのヨーグルトとフルーツを味わう。
 銀座蜂蜜なる百花蜜をかけて食べると、まろやか美味しい。この蜂蜜、買って帰ったりできるのかな。ほづみくんにも食べさせてあげたい。
「桜子ちゃん、元気ないわね」
 出しぬけに言われて、ちょっとドキッとした。
「そうですか?」
「うん。たぶん、あれでしょ。旦那不足」
 明らかに揶揄われているけど、逆らう気にはなれない。
 空になったボウルを置くと、無意識にため息が出た。
「なんか…いつも一緒だから、変な感じで落ち着かなくて」
「わかるわかる。私も龍輔さんがいなくなった後って、ずっとそんな感じ」
 さらっと言うには聞き流せない話で、固まってしまった。
 そんな私を笑いを含んだ目で見て、曉子さんはコーヒーに口をつける。
「それでもね、人間慣れていくもんだし、後追いする気がないなら慣れるしかないのよ。私も、普段はどうにか折り合いつけてるんだけど……今回は駄目だった」
 途中で話の筋を見失う。
 でも、曉子さんは気づいているのかいないのか、静かに続けた。
「いい歳して情けないと思ったんだけどね。大切なひとがいない痛みに慣れるのに、歳は関係ないわって開き直ることにして、桜子ちゃんにつき合ってもらったの」
「私……何かできてました?」
 昨日の途中から、うっすらと何かある気配は感じていた。
 曉子さんが、そこに触れられたがっていないことも。
 そして、それは正解だったのだ。
「もちろん。百点満点以上よ」
 綺麗に笑い、「さて」と紙ナプキンで口元を拭う。
「もうちょっと一緒に遊びたかったんだけど、そろそろタイムアップなのよね」
「え?」
 腕時計を嵌めた手を上げて、私の斜め後ろを指差す。
 まさか、と思って振り返ると、見慣れた長身が立っていた。
 首元が開いたゆったりサイズの白のトップスにカーキのチノパンというシンプルな格好なのに、不機嫌丸出しの表情と相まって撮影中のブランドモデル。案内のスタッフも周りの客も、呆気に取られたような顔で眺めている。
「ほ…」
 私が呼びかける前に、ツカツカと近づいてくるほづみくんは、見たこともない仏頂面だ。
 テーブルの真横まで来て、まず私の手を掴んだ。
 ぎゅっと強く握りしめて来るのを、同じくらいの強さで握り返す。
 でも、視線は曉子さんに向ける。
「いい加減、返してもらうぞ」
「仕方ないわね。私もこれから仕事だし、ここらが潮時ね」
「次はない」
「わかってるわよー…って言ってあげたいとこだけど、お断り」
「おいっ」
 声を荒げかけたほづみくんをいなすように立ち上がり、曉子さんはひらりと手を振った。
「じゃあね、桜子ちゃん、つき合ってくれてありがとう。楽しかったわ」
「え、あの、曉子さん」
「あ、桜子ちゃんの部屋はもう一泊泊まれるから。ふたりで遊んで帰りなさいな」
 軽やかな足取りで、バッグとジャケット片手に颯爽と出ていってしまった。
 残された私たちは、やや唖然と顔を見合わせる。
「…とりあえず、部屋に戻ろっか」
「…そうだね」
 他の客で混み合う前に退散することにして、私たちも店を出たのだった。


 部屋のドアが閉まるなり、ぎゅっと抱きしめられた。
 私も一日ぶりの体温と匂いに、遠慮なくしがみつく。
 休日だけつけているミントのフレグランスと混ざったほづみくんの匂いにホッとする。
「…桜子さんだ」
「うん」
「もう……」
 明らかに何か言いかけたのに、言葉は続かず、代わりに唇を塞がれる。
 私は私で、このままベッドに雪崩れ込んでもいいやくらいの気持ちで、広い背中に腕を回した。
 でも、一頻り触れ合うと、ほづみくんは両手で私の頬を包み、穴が開きそうな勢いで見つめてくる。
「どしたの?」
「…大丈夫だった?」
「何が?」
「母さんに、何か言われたり、されたりしてない?」
「…されたというか…」
「何!?」
「いっぱいお金使われた…」
 つい、すぐ横のクローゼットに目を向けると、意味を察したらしく肩を落とす。
「そんなもん、使わせとけばいいんだよ。いきなり大学から連れ去って、こんなとこまで連れて来られたんだから」
「いや、でもさすがにディオ…あっ」
「今度はどうした」
「あのね、昨日買ってもらったちょう高級ブランドのワンピ、あれ、洗濯とかどうすればいいか、ほづみくんわかる?」
「ランドリーバッグに突っ込んで、ここのクリーニングに任せなさい」
 あ、そういうのがあるのか。
 なるほどと頷く私に、いよいよ脱力したらしいほづみくんがため息をつく。
「本当に……昨日から生きた心地しなかったんだよ」
「ん、全然連絡できなくてごめんね。でも、スマホなくって」
「知ってる。全部、馬鹿コンビから聞いた」
 うんざりとした顔で、肩からかけていたポストマンバッグを探り、私のスマホを取り出した。
「念入りに桜子さんから取り上げたって聞いて、真面目に殺意湧いたよ」
「あー…私も、何も考えずに渡しちゃったから」
「それね。桜子さんを責めるのはお門違いだってわかってるけど、もうちょっと警戒心持とう。義実家だなんだって言っても、あれも所詮は御厨なんだから」
 それ、自分にも返ってくるんでは、と思ったけど、余計なことは言わない。
「できるかわかんないけど、気をつける」
「できなくてもしなさい。でないと、あの連中、調子こくだけだから」
「簡単に難しいこと言う…」
 全力でもたれてもしっかり受け止めてくれる腕に身体を投げ出し、内心首を捻る。
 なんか……覚悟してたみたいな大魔神じゃない、な。
 怒ってないわけじゃないんだけど、なんだか諦めが混じっているような印象を受ける。
 曉子さんの様子のこともあるし、聞くべきかどうかと迷ったときだった。

 ぐううううううううう

 くっついた身体から、腹に響く音がした。
 見上げると、天井を仰いでいる。
「ほづみくん、ごはん食べてないの?」
「…朝一で家出て、まんまここに来たから」
「ありゃー」
 きっと心労で、移動途中に食べるって頭もなかったんだな。
「どっかで朝ごはん食べなよ。私、ドリンクならつき合うし」
「…そうする」
 ガックリと項垂れたほづみくんに笑ってしまいそうになるのを堪え、改めて力いっぱい抱きついた。
 はー、落ち着く。



 東京のど真ん中なので食事するのに困ることはなく、近くのチェーン店に移動することにした。
 ほづみくんはボリュームたっぷりのサンドイッチモーニングに分厚いピザトーストを頼み、私はアイスコーヒーとケーキ。ホテルの朝ごはん、美味しかったんだけどちょびっと上品で、甘いものが欲しかったのだ。
「いきなり兄貴たちが店に来て、桜子さんのスマホ出すからまず殴りかかったんだけどさあ」
「初っ端からバイオレンス…」
 とろけるチーズもなんのその、バクバクと綺麗に食べながら、勃然と眉を寄せる。
「十発殴られて当然。で、事情聞いて……兄貴こき使うことで、一旦収めたわけ。朝一で桜子さん迎えに行く段取りまでつけてたから」
 一瞬、聞き流しかけたものの、違和感に首を捻る。
「段取りつけてたって…ほづみくんが?」
「や、兄貴ってか、母さん? 新幹線のチケット渡された」
「なんか……すんごく手が込んでたんだね」
 でも、別の違和感がまた強くなる。
 ビルの二階にあるカフェだから、窓からは道路標識や近くのビルと街路樹が見える。夏の陽射しに照らされて白っぽく輝く景色を眺めながら、昨日からの曉子さんとの会話を思い出していた。
「…あのねえ」
「ん?」
「私が聞いていいんなら、なんだけど。今回のことって、ほづみくんのお父さんと関係ある?」
 サンドイッチを持つ手がピタッと止まった。
 まじまじとこちらを凝視するのに、聞いちゃまずいことだったかと思ったが。
「まさか……桜子さん、何も聞いてないの?」
「え、何を?」
「母さんに連れ出された理由」
「歌舞伎観るのが目的だって言ってたけど」
「いや、そうなんだけど、桜子さんと観る理由ってか」
「……聞いてないね」
 「私じゃないと駄目な理由」については聞いていない。そもそも、そんなものがあるのかも知らない。
 唖然とした顔で「マジか…」と呟き、ほづみくんは深いため息をついた。
 食べかけだったサンドイッチを口に押し込み、アイスコーヒーで流し込む。
 そうしながら、何か考えている様子だったけど、口の中のものを飲み込むとすぐに話し始めた。
「昨日桜子さんが母さんと観た演目、両親の初デートで観たやつなんだって」
「ああ、それは聞いた。道成寺でしょ」
「そう。で、何十年か前の今月に出会って、デートしてつき合い始めたんだ。そこの演舞場でデートした直後だって聞いた」
 一瞬、予想外な時間幅に感覚が狂いそうになったが、すぐに昨日聞いた話とデータが噛み合っていく。
「つまり……あの演舞場で、あの演目を観るのって…」
「母さんにとっては、『再現』なんだろうね」
 長い息をつき、ほづみくんは腕組みをして窓の外に視線を向ける。
 そこの道を行けば、すぐに昨夜行った演舞場だ。
「どうも、毎年この時期にあそこで芝居は観てたらしいんだよ。…気持ちは、わからなくもない。僕も、たぶん同じことするだろうから」
「思い出の、再現?」
「かな。僕は、少しでも桜子さんの気配がないかって探しに行くような気もする」
 苦く笑って、そばを通りかかったスタッフにコーヒーの追加を頼んだ。私も背の高いミルクレープを削って口に入れる。
「今回、僕がすぐに追いかけなかったのはね、あそこで道成寺やるの、父が亡くなってからは初めてだからって説得されたからなんだ」
「そうだったの?」
「ん。母さんとしては、どうしてもこの時期に行きたい、でもどうしても観るのは辛い。だから、誰かについて来て欲しかったんだって」
「なら、かづみさんとかでもよかったんじゃ…」
 そのほうが、共通の思い出もあるだろうに。
 でも、ほづみくんは首を振った。
「父さんを知らない人間じゃないと駄目なんだよ。母さんに必要なのは、記憶の共有じゃないから」
 ふとわかった気がした。
 昨日から曉子さんの話には、旦那さんとの思い出がたくさん出てきた。
 だけど、私は会ったことすらないから、一方的に聞くだけで、「私の中の御厨龍輔」というものを曉子さんに提供することはできない。
 曉子さんには、そんなものは全く必要なかったのだ。
 誰かと共有した大切な人との思い出なんて、ふたりの思い出を確認するのに邪魔なだけだから。
 同時に、理解した。
 今回に限って、ほづみくんが怒りの矛先を鈍らせたのは、いつか自分にも降りかかることかもしれないと思っているから。
 身につまされすぎて、曉子さんの切実な事情も理解できすぎて、自分の怒りに集中できなかったんだろう。
「…なんとも難儀な一族だねえ」
「面目ない」
「それならそれで、事前に教えておいてくれればよかったのに」
「母さん曰く、桜子ちゃんが事情知ったら、気を使いまくっちゃうでしょー、だって」
「そうかもしれないけど、何も知らないから、初歌舞伎にキャッキャしちゃったのよ…」
 昨日の己の能天気さを思い出すと、テーブルの下に潜り込みたくなる。
 でも、ほづみくんは「それでいいんだよ」と笑う。
「あのひと、プライドエベレストだからさ。兄さんや僕を連れ出さなかったのも、息子に気遣われてたまるかって思ってるからだし。実際、桜子さんが純粋に楽しめたんなら、母さんのウツも晴れたんだと思うよ」
「そうかなあ」
「そうだって。だいたい、桜子さん連れ回して、好き放題散財してたんだろ」
 その言葉に思い出した。
 昨日の買い物総額、「買ってもらっちゃったー」で済ませていいもんじゃない。絶対。
「あ、あのね、それなんだけど、曉子さん、とんでもない額使ってたと思うの。ビビりすぎて値札確認できなかったし、ホテルで着替えたときも、なんでか値札なかったしで具体的な数字わかんないんだけど」
「あー」
 ここに来る前、ワンピースをクリーニングに出すために、ほづみくんもクローゼットの中身は一通り確認している。
 今持っているバッグも、靴を買った店で一緒に購入したものだが、落ち着いたオレンジのサテン地のボディとクリスタルがぎっちり並んだハンドルで、数万で買えるものとは思えない。拉致されたときの自前のバッグは、大学用の巨大トートで使い勝手が悪すぎたのだ。
「いくらなんでもいただけないと思う。全額お返しするの、何年かかるかわかんないんだけど…!」
「返すな返すな」
 脱力した笑みを浮かべて頬杖をついたほづみくんは、「あのね」と言い聞かせるように続けた。
「それは、母さんからのお礼とお詫びだから」
「…ディオールとジミーチュウが? 他にもコスメやアクセやとんでもないものばっかなんだけど」
「でも、値札全部外してあったんだろ。それに、あのひとのことだから、プレタポルテでごめんねーくらい思ってるよ」
「百万超えたら、オートクチュールもプレタポルテもないと思います」
 さっき、スマホでざっと調べはしたのだ。検索がへたっぴで、同じものを見つけることはできなかったけど、大体の価格帯はわかった。スマホ落として画面割るかと思った。
「それに、私、楽しく遊んでただけで何もしてないし」
「それが重要なんだよ。あのひとと何時間も一緒にいられて、楽しめる人間が貴重なんだから」
「えー…」
「母さんにしてみれば、強引に連れ出した上に、自分の我儘に何も言わずにつき合ってくれたんだからお詫びもお礼も当然で、返すなんて言ったら、正座で説教されるよ」
 説教されるの…?
 釈然としないものを抱えつつ、アイスコーヒーを啜る。
「御厨の…母さんは御厨の血は引いてないけど…めんどくさいとこって、理解してもらうの難しいんだよ。嫉妬深い、執着が酷い、ヤンデレとか言葉ではいろいろ言えるけど、その実態っていうか実情っていうか」
「…ほづみくんみたく、苦労してきたこととか?」
「だね。もちろん、パートナーを見つけること自体が難しいんだけど、それ以上に、パートナーを失った後の精神状態は理解されにくい」
「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーです」
 頼んだコーヒーを持ってきたスタッフが空いた食器を片付け、立ち去る間、ぼんやりと考える。
 今のほづみくんと私の関係からしても、私が先に死ぬことがあったら、ほづみくんがどうなるのか、想像できなくて怖い。とんでもなく酷いことになるとだけはわかるから、余計に。
「曉子さんも、大変なんだね。きっと」
「たぶん。でなければ、父と出会った場所に引き籠ったりしないよ」
 コロナ禍をきっかけに、断れない仕事のために御厨本邸に滞在する時間が増えたけど、本当なら結婚の挨拶に行ったあの場所で静かに暮らしているはずなのだ。
「これは僕のただの想像だけど、僕らが結婚することにしたとき、多少は警戒したと思うんだよね」
「曉子さんが? 何を?」
「僕のパートナーの人柄によっては、つき合い方を慎重に考えないと駄目だろ。四方八方、特殊な事情ばっかだから」
「ああ…まあ」
「でも、桜子さん、とんでもなく器でっかいから」
「そう…?」
「でっかいよ。僕どころか、御厨の事情諸々、そっかーで受け流すだろ」
 受け流すというか、根本的に興味ないだけなんだけど。
 でも、ほづみくんは妙にしみじみと息をつく。
「基本、下世話さとか野次馬根性とかないからだってわかってきたけどさ、結局はそういうとこも含めて、桜子さんって御厨的人種には得難いわけ」
「なんか無駄褒めされてるのはわかるんだけど、それと高額な買い物となんの関係が」
「つまりね、今回のことで迷惑かけてごめん、ありがとうってのに加えて、母さん的推し活なんだよ。桜子さんのことだから、母さんが何も言わなくてもなんかありそうくらいは思っただろ」
「まあ…」
「でも、何も聞かなかったんだろ」
「どう聞いていいかわかんなかったし」
「それが推せるわけだよ。我が一族的に」
「さっぱり理解できないんだけど」
 私の頭が悪いのか、御厨が素っ頓狂すぎるのか。
 ズゾーと残りのアイスコーヒーを啜り上げる私に、ほづみくんはカップ片手に「じゃあ、こう考えたら」と続ける。
「この後、拗ねた僕の機嫌取りする詫び代込み」
 笑ってるのに目が笑ってない笑顔で言われて、ついストローを噛んだ。
「…拗ねてるの?」
「拗ねてないと思ってたんだ?」
「だって、大魔神になってなかったし」
「そりゃね、昨日、兄貴どもこき使いまくって、多少は溜飲下げたから。でも、ほぼ丸一日放置されて、独寝余儀なくされて、やっとこ迎えに来たら全身母親のコーデで可愛くお洒落してて、僕が拗ねないとでも?」
「今回の件、私に非はないと自負しておりますが」
「だから怒ってるんじゃなくて、拗ねてるんだよ」
「えー…」
「ま、そういうわけだから、行こうか」
 カップを呷って残りのコーヒーを飲み干し、伝票を取り上げる。
 慌ててミルクレープの最後のひと口を口に押し込み、バッグを掴んだ。
「行くって、どこに?」
「そこのデパート」
 にっこり笑った顔は、全然似てないのに曉子さんにそっくりだった。


「わーっ、すっごい開放感!」
 一階から三階まで吹き抜けになったホールと、外を隔てるのは鉄骨フレームのガラスウォール。
 夏の陽光をめいっぱい取り入れた屋内は、冷房が効いて涼しいのに眩しいくらいに明るい。
「こんなとこが美術館だなんて信じらんないねえ」
「確かに、美術品に直射日光なんて御法度っぽいもんね」
 隣を歩くほづみくんが、繋いだ手をくいっと引いた。
「桜子さん、あっちみたいだよ」
 指さすほうにずんぐりむっくりした巨大な柱みたいなものがあって、その手前にエスカレーターが見える。
「あれで二階展示室に上がるんだって」
「ほうほう」
 さっきとはガラッと違うパンツスタイルに拉致されたときに履いていたスニーカーだから、我ながら足取りも軽い。
 ほづみくんに連れて行かれたデパートで、カジュアルラインの服を揃えられたのだ。
 当然ホテルに戻って着替える手間が増えたわけだけど、高級ブランドのニットやスカートで一日動くよりもずっといい。
 襟の詰まったノースリーブトップスとゆったりめコットンパンツの上から、ストライプのロングコットンシャツワンピを羽織って楽ちん。
 「今日は、一日ブラブラ動くから楽な格好じゃないと」と、いうことらしい。
 バッグは曉子さんに買ってもらったやつをチェーンで斜めがけにしているから、手も空いて楽。
 着替えてから、銀座の文房具屋さんを覗いたり、美味しいジェラートを食べたりして、暑いけどそぞろ歩きを楽しんでから、ここに移動したのだ。
「東京、大きな特別展多いからいいねえ」
「ひとも多いけどね…」
 ここに辿り着くまでに、銀座なんて人間の坩堝みたいな場所を歩いてきたから、ほづみくん的には気疲れどころじゃなかったんだろう。
「今日もいっぱい見られてたもんね。なんか外国人観光客っぽいのに追っかけられたし」
「中国語なんてわかんないから怖くて逃げるしかなかったけど」
「あ、あれ、一緒に写真撮ってくださいって言ってたんだよ」
「桜子さん、わかってたの!?」
「なんとなく」
 十年も日本語教師してれば、簡単な言葉くらいはわかるし。
「逃げて正解だった…」
 肩を落としつつエスカレーターで二階に上がると、展示室の入り口に特別展の看板が見える。
 そっちに向かおうとしたところで、ほづみくんがまた手を引いた。
「おなか空いてるなら、先に食べておく?」
 視線の先には、なんだか不思議なバルコニーみたいなもの。
 よく見ると、さっき下で見た柱みたいなものが上にまで伸びているのだとわかった。上に向かって太くなるから、階が上がると円周も長くなって、スペースができるのだ。
「あれ、カフェ?」
「うん。二階がカフェで、三階がレストラン」
 視線を上げた先に確かにそれらしきものが見える。
「今、特別展とコラボして、ウェッジウッドカフェやってるんだよ。食器がウェッジウッドなんだって」
「へーっ」
 そろそろ混み合いそうな時間だし、先に食べておくことにして進路を変えた。
 待たされることなく席に案内されて、サンドイッチ二種類をひとつずつ頼み、デザートにいちごのパイとレアチーズムースを頼む。
 周りを見回すと、なかなかにここも開放感のある空間だ。
 円柱の外縁内側に沿ってテーブルが並び、内円に調理スペースが取ってあるから、客席からはガラス張りのホールが見えるのだ。
 目の前の内円中心部分にガラス張りのエレベーターがあり、そのガラス面にブランドロゴが白く輝いていた。
「そういや、昨日曉子さんにとんでもないカフェに連れ込まれてね」
「うん?」
「ディオールとラデュレのコラボカフェってゆー右見ても左見てもハイソな空間で」
「あ、知ってる。完全予約制だろ」
「みたい。下の階のブティックからしか入れないみたいだったし」
「母さん、いつから計画してたんだ…」
 揃って遠い目をしていると、セットの紅茶が運ばれてきた。
 フロレンティーン・ターコイズのカップで、いかにもウェッジウッドだ。
「昨日までの私なら、このカップでもぷるぷるしていたというのに…」
「このカップとソーサーでも一万五千円超えてるんだけどね…虚しくなるから金の話はやめよう」
 美味しいサンドイッチを楽しみ、予想以上にボリュームたっぷりなケーキを味わう。結局、マカロンにお代わりのドリンクも追加して、エネルギー充填してカフェを出た。
 光がテーマの海外美術館展は、日曜だということもあって結構な人出だったけど、会期が長いからか覚悟したほどじゃない。
 写真撮影可なものも多く、ほづみくんと手を繋いで、ゆっくりと見ていく。
「あ、これ好き」
 横幅のある絵で、画面下半分に描かれた青緑色の海面を雲の切れ目から射し込んだ陽光が照らしている。
「確かに桜子さん、好きそう。…イギリスの海なんだね」
 ヒソヒソとひそめた声で話して、ふたりで眺める。
 そうやって、たまに話して、一緒に絵を楽しんでのんびり見て回った。
 後半から前衛芸術が増えていき、お互い理解できないものとの遭遇率が上がっていく。
 特別展を回り切った後は、ショップで図録やクリアファイルを買って、一階に降りた。
「この後、どうするの?」
 時間はまだお茶の時間を少し過ぎたあたりだ。
 ほづみくんもスマホを見て、ちょっと考え込んだ。
「夕飯、予約してるとこがあるんだけど」
「うん」
「その都合上、あんまこの辺から離れないほうが楽なんだよ」
「なるほど」
「で、暑さもピークな感じだから、映画か別の美術館か六本木観光」
「最後のやつ、暑いのでは」
「まあ…ベタにヒルズみたいな巨大商業施設なら涼しいと思う」
 んー…………。
「今から観られそうで、夕飯に間に合う映画があるなら映画、なさそうならここから一番近い美術館でどうだろ」
「よし、それでいこう」
 その場でスマホを使い、一番近い映画館でちょうどいい時間帯にほづみくんが気になっていた映画が上映されることがわかったので、ネットでチケットを押さえてしまう。
 タクシーで移動して、イタリアの悪魔祓いを鑑賞し、揃って一抹の不条理さを抱えて、またタクシーに乗って美術館に戻った。
「全体的によかったんだけど…」
「うん……根本のとこが……」
「あれも一種のdeus ex māchināなのかな」
「それなんだっけ、神様的な?」
「曉子さんの本に書いてた。もうどうにも収拾つかなくなった状況を神様がどっかん雷落としてオチつけるの」
「なんかちょっと違う気がするし、あれ悪魔だし」
 もにょもにょ言いながらほづみくんに手を引かれるまま歩いていたが、ふと気がついて周りを見回した。
 ホールの中は、昼間に比べるとだいぶ閑散として静かだ。
「そういや、また戻ってきたんだね? そろそろ閉館時間だと思うんだけど」
「桜子さん、ここに至るまでそこんとこ気にしてなかったんだね…」
「ほづみくんが連れてってくれるとこだから、何も問題ないなーって」
「信頼されてて嬉しいんだけど、今回はその警戒心のなさが母さんの計画を後押ししたんだと思うと複雑」
 私の背を押してエレベーターへと歩きながら、ちらっと上へ視線を投げた。
「今日の夕飯、この上なんだよ」
「昼間行ったカフェ?」
「の上」
「あ、レストランもあるんだっけ」
「そうそう。ここ、実はポール・ボキューズなんですよ…」
「え」
 唐突な高級フレンチレストランの名前に足が止まった。
 柱の上を見上げている間にエレベーターがやってくる。
 たどり着いた三階は閑散としていて、高いはずの天井が近い。
「もしかして、昨日のワンピ着てくるべきだった?」
「あ、大丈夫。美術館に入ってるだけあって、カジュアルスタイルで問題ないから。ビキニやジャージじゃなければ止められないと思うよ」
「そんな格好で美術館来るのやだなあ」
「僕も」
 おバカな話をしながら入り口に近づくと、制服姿のスタッフが迎えてくれた。
 ここもカフェのように全体が円形で、でも二階より円柱そのものが太く、客席もその分多い。
 ガラスウォールの際に近い席に通され、メニューの確認が始まる。
「本日は特別展コラボコースを二名様でご予約いただいておりますが、お間違いないでしょうか」
「はい」
「ありがとうございます。こちら、夏季限定の冷製コーンポタージュで、コースへの追加もお勧めしておりますのでご検討ください」
 スタッフが去ってからメニューを見ると、確かに特別展コラボコースと書いてある。
「これ、予約してたんだ?」
「うん。勝手にどうかなと思ったんだけどね。通常メニューが食べたければ、また来ればいいけど、これは会期中しかやってないから」
「楽しみ〜」
 ワインを決めて、スープも追加してもらうことにして、メニューを返す。
 タンブラーでやってきたお冷で水分補給しつつ、ガラスウォールの外を眺める。
 メンテ用の足場らしきものがあるし、日除けのブラインドが降りているところもあるから、スケールの大きな景色ではないけど、遠くの高層ビルや美術館そばに植っている木のてっぺんが一度に見えて、なかなかにおもしろい。
「まだ明るいねえ」
「夏だよね。あ、でも、今日の特別展の絵みたいな感じだよ」
 確かに少し傾いた太陽光が雲とビルを斜めに照らし、光の角度で空気感が出る。
 昨日からいろんなジャンルの芸術に触れて、外からの刺激をいっぱい受けて、なんだかとても満ち足りた気分だ。
「お待たせいたしました。冷製スープとアミューズブーシュです」
 丸い壺のような器にいっぱいのスープと、小皿に載ったチーズの風味が香るサブレ・サレ、トマトのマドレーヌで始まったコースは、美術館で食べられるとは思えないような完成度だった。
 フォアグラのポワレとパルメザンチーズリゾットの前菜、魚料理はヒラメのロースト、メインがマグレ鴨のロースト赤ワインソース。デザートは濃厚なチョコレートババロアとさっぱりした牛乳のアイスクリーム。
 そのどれもが、特別展で展示されている絵画をモチーフにしてあって、解説がつく。

「フォアグラ、いい火加減。外はカリッと、中はトロッとふわふわ」
「ん、モリーユ茸のソースともよく合うね。ごぼうのピュレもいい感じの風味の強さ」

「…あの絵、インパクトあったから覚えてるんだけど、本気で料理で再現してるんだね。このジャーキーみたいなの、アダムにビシってツッコミ入れてた神様の杖でしょ」
「ツッコミ…? やりゃあいいってもんじゃないと思う。美味いけど」
「ほづみくん、こんな感じで料理で何かを表現してって言われたらできる?」
「……仕事ならやるけど、あんま受けたくない」

「わー、鴨がジューシー! このソース、濃厚で美味しい」
「うん、基本に忠実な味だね。多少スパイス効いてるけど、根セロリのピューレがいい感じにマイルドにしてくれてる」
「だけど、やっぱ頑張ってコラボの絵画再現してるね。この大きめとんがりコーンみたいなの、灯台でしょ」
「料理人の苦労が偲ばれる…」
「えー、でも、魚料理よりはだいぶオシャレに落とし込んだなーって感じよ。色彩が絵画だもん」
「さっきのはジャーキーもどきのインパクト強かったもんね」

「このアイス、美味しい! さっぱりしゃりしゃりの口当たりで最高」
「ミントソースと合わせてもいける。しかし、どうして真っ黒なメレンゲがぶっ刺さってるのか」
「ネタ元の絵のモチーフでしょ。天使の背中の羽って説明してたじゃん」
「そうだっけ…ビジュアルのインパクト大で聞いてなかった」
「もー。あ、ババロアも美味しい。ムースと違って、口当たりしっかりめでいいね」

 ああだこうだと料理の感想や昼間見た絵の話をしながら、美味しい料理に舌鼓を打つ。
 食後のドリンクにたどり着くころには、外はすっかり陽が落ちていた。
 館内も展覧会は終了し、レストラン利用客しか残っていない。
 最初は私たちしかいなかった店内も、ポツポツと入ってくる客がいて、いつの間にか半分ほど席が埋まっていた。
 殆どが男女の二人客で、みんな笑って喋りながら、料理やワインを楽しんでいる。
「桜子さん? ぼーっとして疲れた?」
 向かいから顔を覗き込まれて視線を正面に戻すと、すっかり見慣れた顔。
 一日離れただけで落ち着かなくなるくらい、そばにいるのが当たり前になってしまった。いつの間にか。
「思い出ってさあ」
「おも……うん」
「こんなふうに、楽しかったーって記憶に残ることや、いちいち記憶に残らないような普通の日常が積み重なってくもんだと思うんだけど」
「うん」
「何年も、何十年も後で思い出したときに、どんなふうになってるんだろうね」
 ほづみくんはコーヒーカップを持ち上げて、考えるように首をかしげた。
「それは…いい思い出とか悪い思い出とか?」
「んー…ちょっと違う。今日のことって、どこからどう見てもいい思い出だし、例えば来週になって思い出したら、楽しかったなーとか美味しかったなーって思うと思う」
「うん」
「でも、何十年も後になって、そのときの私がひとりぼっちだったら、今日のことを思い出して、どう思うんだろう」
 思い出すのも辛いと思うのか、それともいい思い出だったと笑えるのか。
 曉子さんにとって旦那さんとの思い出は、いいものが多いんだと思う。
 それでも、昨日のように私のような傍観者で気を紛らわせないときついこともあるのだ。
「僕は、楽しかったなーって泣いてそう」
「…楽しいの? 悲しいの?」
「桜子さんとの思い出だから、楽しいに決まってるよ。でも、そのときに桜子さんがいないって事実には我慢できなくて泣いてると思う」
 キッパリ言い切って、グラスの横に置きっぱなしのメニューカードに手を伸ばす。
「今日見た絵もさ、万が一桜子さんが先にいなくなっちゃったら、イギリスまで見にいくと思う。で、あのとき、この絵が好きだって言ってたなとか、クリアファイル買うのに五分悩んでたなとか思い出すんだよ」
「一枚五百円以上するファイル、ポンポン買えないんだっつーの」
「って言いながら、ほっぺたふくらませてたなってのも思い出す」
 私の頬をつつき、ほづみくんは笑う。
「結局さ、そのときになってみないとわかんないんだよ。ラテン語でも言うだろ、Carpe diemって」
「毎日を大事に生きろって?」
「そ。…正直なとこ、父さんのことは僕もショックではあったんだよ。まだそんな歳じゃないのにとか、親のほうが早く死ぬもんだとは思ってたけど、こんなに早くなくてもとか。祖父母も健在だったしね」
「…うん」
 お父さんの死についてほづみくんが気持ちをはっきり言葉にするの、初めて聞いた気がする。
 私の頬をつついた手で、テーブルに載せていた私の手を握り、薬指で光る指輪を見つめるように視線を落とした。
「でも、父のことを思い出しても、寂しくなることはあっても、悲しくはならない。十分に親孝行できたとは思えないけど、あの親父、一番の親孝行はとっとと自立して家出ることだって小学生に言うロクデナシだったしね」
「御厨の欲望に忠実だったのね…」
「子ども四人も作っといてホザけって思ってたし、今も思ってる」
 真顔で頷いて、指先で私の指輪を撫でる。
「ひとりになって思い出したときに、思い出のほうが眩しくて辛い可能性は十分あると思う。でも、辛かったな、もっと笑わせたかったなって泣くより、ずっといい」
「…うん。そうだね」
 確かにほづみくんの言う通りだ。
 辛い記憶より、楽しい記憶が多いほうがいいに決まってる。
「ふたりでいっぱい楽しい思い出作らなきゃ」
「うん。…てかさ、いきなり胃が痛くなる話、やめてくんない?」
 それまでのちょっと物憂げなイケメンを放り出し、据わった目で恨みがましく睨んでくる。
「ずっと言ってるだろ。僕ら、一緒に死んで同じ墓に入るんだって」
「まあね。でも、それこそわかんないじゃん」
「わかんないからこそ、信じるんだよ。全く…食べたフォアグラ、逆流してくるかと思った」
「そりゃごめん」
「責任取って、明日は家帰ったらずっと出かけずイチャイチャしてもらうから」
 今日、ホテルに戻ったら、じゃない辺り、私の体調を最優先するほづみくんだけある。
 でも、今更ながらに気がついた。
「そういや、明日月曜だけど、お店は?」
「臨時休業に決まってるだろ。ちゃんとSNSで告知したし」
「結構被害甚大だね…」
「全くだよ。休むからには、しっかり東京満喫して帰るから。朝ごはんはbills予約させたし」
「……させた?」
「バカ兄貴どもの人脈、フル活用した。いまだに、間際で予約取るのキッツイらしいから」
 マジかー。かづみさんたちもどえらい巻き込まれ方してるな。
 明日、東京駅でお土産買って帰ろっかな。
 などと悠長に考えていたわけですが。
 「せっかく夜の六本木にいるんだから、夜カフェしよう、夜カフェ」と変なスイッチが入ったほづみくんとテンション高く繁華街を歩き回り、翌日は筋肉痛で土産どころじゃなくなったのでした。

 後日、なんか期待したような甘味大王がやってきて、「マジで何もないの…メイプルマニアとか…ココリスとか…」と呟いたという…。

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