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ふらふら

永久機関のような町、家、建物が好きだ。

中学生の時に移り住んだ町が、私は大嫌いだった。人が住むには不自然すぎる北向き斜面。そこに何百もの家が蔓延っている。本屋が消えスーパーが消え、マンションとバイク屋と美容院だけが増えた。「川沿いは昔田んぼだったから、あそこの建売住宅はいつか大雨で全部沈むのよ。」その町に高校生の時に移り住んだ、私の母はそう言っていた。

成人し、小学生まで住んでいた町を訪れた時、その変化の無さにゾッとした。駅前の意味不明オブジェも、通学路のピアノ教室の看板も、選挙ポスターの政治家も、全てがそのままに見えた。古びたり、老けたりはしている。だけど、廃れていない。この町は生きている。世界が終わっても、この町だけはこのまま続くんじゃないか、と思うくらいに。

もう少し歳を重ね、その町だけが特別なのではないことを知った。私が10代を過ごしたあの町ではすぐに駆逐されるであろう路面店が、福岡に、ロンドンに、国分寺にあった。長く人が住んでいる家の、「なぜこれがここにあるのか」説明できない物の堆積。合理的ではないけれど、変わることが一番の非合理のため、変わらずにいる図書館。そんな雑然にこそ、血の通いを感じ、私は猛烈に愛しく思う。

「ホンモノ」に憧れる。成人以降に住んだ部屋は、全て仮暮らしに思えた。大切にできる自信がなくて、安いものばかり買ってしまった。自分とは違うものになるための試みは、全て、仮そめの真似事として蒸発していった。

居場所を定めることが怖くて、ふらふらと漂って来た。大いなる世界と繋がっていたくて、どこかに根を張る大義名分を探していた。

「なぜこれがここにあるのか」。説明できない無秩序に身を任せ、今はここに漂着している。微生物が描く幾何学模様のように、目の前の仕事の全うが、大いなる秩序に思えるのだ。各々の都合が噛み合うなら、そこに血が通い、永久に動き続ける気がするのだ。

今は、今はね。


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