見出し画像

憧憬

 先日、友人を山奥の秘湯に案内した際、途中で以前から気になっていたかつてつげ義春が訪れたという温泉への入口に気付いた。車で通り抜けただけだったけど、街道からV字型に入り込んだ路地は往時の面影を色濃く残し、突き当りに2軒の茅葺屋根の温泉宿と地元の方用の共同浴場があった。今にも浴衣に風呂桶を抱えたつげさんが歩いてきそうだった。
 「無能の人」を読んだのは二度目の転職前で、ちょうど無職同然の頃だったから、描かれている主人公の状況がひとしお身に沁みた。十代の頃から仙人になれないものかと思っていた私には、河原で石を売るとか、壊れたカメラを安く仕入れて直して売るといった生活が他人事には思えなかった。特に、最後の方に載っていた井上井月の最期には強く惹かれるものがあった。そこまでやる胆力もないくせに、いや無いからこその憧れだったかもしれない。いつの日か、桜の散る伊那谷をふらふらと彷徨ってみたいものだ。
 「無能の人」のあとがきで知った唐木順三の「無用者の系譜」を読んだ時は、妙にストンと納得するものがあった。自分が求めていたもの、自分の居場所やその源流を見つけたような喜びだったかもしれない。勿論、自分をそこに登場する方々と並べるような不遜な考えは毛頭ないが、そういう系譜があるという事実が自分にはとても有難かった。
 若い頃、手相を見てもらった人に「あなたはカトンボのようだ」と言われたことがある。謂い得て妙だ、きっと有能な占い師だったのだろう。根を張ることなく、儚さを善しとして漂っていくような暮らしや人生に憧れていたのだ。そのくせ、その不安定さに耐えられるだけの強さもなく、結局はデカダンを気取りながらちゃんと保険も掛けている小市民といったところが関の山だった。尤も、憧れるからといってみんながそれをやったら社会はとんでもないことになってしまうだろうし、自分では出来ないからこそ、人は太宰や山頭火、放哉や井月といった人たちの人生に惹かれ続けるのだろう。
 鴎外が晩年の歴史小説に入っていく手前で書いた「妄想」という短編の中で、白髪の主人公が海辺の庵で自らの来し方に思いを巡らすのだが、それを読む以前、20の頃に書いた歌で、私も自らの最期の身を海の見える粗末な小屋に置いていた。歌詞の最後はこんな感じ。

 薄れてゆく 意識の片隅で男は
 降り出した やさしい雨を感じた

 そう言えば、先日のドキュメンタリーで、坂本龍一さんも雨を眺めていたな…。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?