承久の乱(中公新書)坂井孝一著を読む

大隅和雄(1932~)訳の「愚管抄」を読み終えたものの、なんとなくもやもやした感もあり、もう少し頭を整理させてみるかと手に取ったのが、坂井孝一(1958~)の「承久の乱」(2018年初版)である。ごくごく、おおざっぱに言うと、これまで承久の乱の位置づけは「吾妻鏡」をベースにした鎌倉幕府の視点であったのが、どうも事実は「愚管抄」に近いという感じだ。これも、国の編纂した歴史が後世も教科書になったりするから、気を付けなければいけない見本でもある。もっとも、書かれたものは、残るので、こうして書かれたものから見えてくる歴史の面白さというものでもある。
要は、後鳥羽が何をしたかということである。1192年は、保元・平治の乱を乗り切った後白河が66歳で死去した年。4歳で即位し、13歳で後鳥羽親政が始まったのである。(p.40)(上皇として院政を敷くのは、その6年後。)頼朝はその年に征夷大将軍に任官され(それを持って鎌倉時代の始まりとされて)、再建された東大寺の落慶供養に臨席、「王法」と「仏法」を支える存在であることを示した。(P.41)
外戚になるために譲位を主導した(源)通親は、期せずして(後鳥羽の)才能を覚醒させたといえよう。(p.45)それからは、幕府と朝廷の政治の調整が続く。実朝の代になって、ある程度の調和が生まれかけた。次の将軍を誰にするか、摂政の子とするか天皇の子にするか、後鳥羽は大いに采配を振るった。ところが、実朝は公暁に殺され、北條執権の力が突出することに対して、後鳥羽のいらいらが募る。大内裏が幕府内の不満分子により焼失するという事件が起こる。
後鳥羽は、「義時朝臣追悼の宣旨」を下すが、東国は、さすがに義時の力がいきわたっており、直接ご家人たちに伝わる前に、義時の側で「幕府に対する反旗」と捉えて、政子の大演説に一致して、亰へ攻め上ることとなる。「かつて源義経に強要されて頼朝追討の院宣を発給するという失策を犯した後鳥羽の祖父後白河も、詰問の使者として上洛した北條時政に似たような対応をし、責任回避・責任転嫁を図った。」(p.197)その代償は、祖父の場合をはるかにしのぐものとなった。隠岐に配流となって「勝者の憐みにすがるしかない敗者の姿からは、遠島に配流されてもなお失わぬ帝王の気概など読み取ることができない」(p.248)とは、「増鏡」や「慈光寺本」の解釈である。1239年、60歳で生涯を終える。
「愚管抄」も頻繁に引用されており、改めてその内容についての理解を深めることにもなった。アジアの人物史4巻における慈円の扱いに端を発して、その時代を見返すこととなった。太宰の「右大臣実朝」も、これでしっくり納まったともいえるか。昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見る前に読んでいたら、とも思ったりする。


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