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西伊豆ライフ

 仕事で新宿の高層ビルに行った。撮影の仕事で、助監としてオレは現場に入っていた。撮影の合間に、ふと、曇り空の東京を眺めていたら、どういうわけか、西伊豆で過ごした夏のことを思い出した。西伊豆で過ごしたのは確か九月のことだった。いまは十一月で、それからまだそんなには経っていないはずなのに、伊豆での暮らしがなんだか遠い昔のことのように思えた。西伊豆で過ごしたのはちょうど一週間くらいのことで、女友達の亜沙美が仕事の関係でしばらく西伊豆のとある街に赴任していた。亜沙美とは恋人の関係ではないし、恋人だったこともない。西伊豆でしばらく暮らすから遊びに来ていいよ材料費払うから夕食作ってよ、といういつも通りの雑な誘いの連絡が来て、ちょうど何もかもが嫌になっていたオレは全てを放り投げて、軽のワゴン車に百十ccのスーパーカブを積んで、伊豆に向かった。とにかく金がなかったこともあって、深夜に一般道を使って西を目指した。早朝には小田原あたりについていたが、ダラダラと寄り道をしたりして、結局、西伊豆に着いたのは夕方過ぎだった。今になって思うと、夢のような暮らしの一週間だった。亜沙美が住んでいたのは彼女の勤務先の会社が用意したマンションの一室で、建物のすぐ裏が海だった。オレはそこで、海で泳いだりスーパーカブで周囲を散策したり、それ以外は温泉に入って酒を飲んで、地場の食材で料理をして過ごした。余計な連絡も取らないし、あらゆる意味で日常からかけ離れた日々だった。幸い、料理は得意なので、地元のスーパーで仕入れられる安い魚や、道の駅で買った珍しい野菜を、ちゃちゃっと調理するだけで夕飯は済んだし、毎日働いているその友達を尻目に、申し訳ないくらいに怠惰で快適な暮らしをおれは送っていた。傲慢にできているので、べつに申し訳ないとは思っていなかったが、そのへんで拾ったボディボードで朝から海で遊んで、すこし冷えた身体を温泉で温め、あとはバイクで海沿いの道を走ったりとか、酒を飲んで本を読んだりとか、そういう生産性のかけらもない日々を過ごした。ある晩、急に思い立って、その二ヶ月くらい前に別れた彼女にオレは電話した。連絡を取るのは、別れてから初めてのことだった。あんたと一年も付き合えたんだからさ、その彼女すごいと思うよ、表彰してあげてもいいってわたしは思うけどな。その前の晩、オレと逆の向きに頭を向けて敷いた布団に入った亜沙美に、寝る間際の会話でそう言われたのがたぶん、きっかけだった。なにを思ったのか、その次の夜にオレは飲みすぎたビールの酔いの勢いもあって、電話した。出るとは思っていなかったが、元彼女は、あっさり電話に出た。どうしたの、ひさしぶり。電話口の彼女の声は昔と変わらない、相変わらずのなんだかマヌケな感じのトーンだった。たかだか数ヶ月前のことだというのに、付き合っていた頃のことが、オレは妙に懐かしくなった。手にはその日四本目くらいのあいかわらずのロング缶のビールを持っていて、月が出ている夜の海にオレはいた。九月にもなると、夜は随分と肌寒い。じっとりと湿り気のある海の近くの空気だが、肌に当たると冷たく感じる。元彼女は幼稚園の先生をしていて、オレが全く興味のない職場の話をいつも延々とする。付き合っていた頃も会話はいつもそんな感じだったが、別れてもなおそんな話を電話越しに聞いているということに、ふと我に帰り驚く。曖昧に返事をしながら、付き合っていた頃のことをオレは色々と思い出していた。その彼女とは一緒に西伊豆に旅行に来たこともあったし、揉めたことも多かったが、仲良く過ごした時間だってたくさんあった。喧嘩というよりも、一方的に彼女が不機嫌になったり怒ったり不安になったりして、それをオレがなんとか宥めたり収めたりするようなことが多かった。でも、亜沙美が言っていたように、オレと一年も付き合えたんだから、すごいのかもしれないな、とダラダラと続く幼稚園の同僚の先生との人間関係についての話に少し辟易しながらオレは思った。別に特に変わっているとか、そういうふうに自分のことを思ったりはしないが、しかし、一般的な感覚からズレている部分があることに自覚はある。そんなオレと付き合えるのは、すごいことだと思う、という亜沙美の言葉には不本意ながらに妙に納得してしまったし、表彰してあげてもいい、という意見には、無自覚のうちに同意してしまっていた。また会えたらいいな、と思いながら、でもたぶんもう会わないのだろうな、と思いながら、電話での会話が終わった。東京に帰る晩に、何故か、亜沙美とこの一週間の互いの文句を言い合った。亜沙美とは、物事に対する捉え方とか、感じ方とかが随分と違った。基本的には傍若無人にできているオレではあるが、一応は気を使っていたし、泊めてもらっていた立場だったので、そんなに文句はなかったのだが、亜沙美が感じていたその一週間の共同生活に対する不満を聞いた。亜沙美の態度とか行動とかで想像がついていたことではあったが、お金とか時間とか役割とかについてのオレの安直さに対する批判が主な内容で、その通りだと思ったし、どうすればお互いに改善できるのだろうかとか、ヒモとか主夫と暮らすことがどういうことなのかとかについて話しあった。主夫を養って暮らすのもなんか違うんだろうなぁというのが亜沙美の結論だった。でもいいシミュレーションができてよかったよ、と何故か感謝されたりもして、不思議な気分になりながらおれは東京に帰った。東京に帰ったその日も、天気があまりよくなかった。前の日は大雨だったし、当日もずっと曇りだった。泊まっていたマンションのベランダには鳥害対策のネットが張り巡らされていて、その向こうには夏が終わろうとしている海のある景色が広がっていた。そして、東京に帰ると同時に、なんとなく夏が終わってしまったような気がした。人生で二九回目の夏だった。電話で話した元彼女とは、その後は全く連絡を取っていない。亜沙美とは先週久しぶりに会ってうどんを食べた。東京はもうすぐ冬を迎える。西伊豆もきっと、もう寒くなっているのだろう。西伊豆にいるとき、仕事帰りの亜沙美と温泉に行ったことがあった。その露天風呂からはちょうど夕焼けが見えた。いままでに見たことがないくらいに真っ赤な夕焼けで本当に美しかった。亜沙美はオレよりも風呂が短くて、さっさと出てしまったので、オレもあまり長々とは入れなかったが、湯船の中から、おれは黙って夕日が沈むのを眺めた。温泉には、茅ヶ崎から日帰りで来たというおじさんがいて、身体も洗わずにいきなり浴槽につかったので少し驚いたが、その日三箇所目の温泉だとあとで話していて、それなら仕方がないか、となんとなく思った。燃えるような夕焼けを、オレはただただ、眺めていた。(2018/01/22/05:55)

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