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霧に消えるタワー

 ミキちゃんに最後にあったのも、こんなふうに東京タワーが霧に包まれていた夜だった。ミキちゃんと知り合った頃、わたしは東京タワーの近くにあるレストランでバイトしていた。ミキちゃんもわたしと同じで、東京タワーのふもとにあるお店でバイトしていた。ミキちゃんのバイト先は、ものすごく高級なお店というわけでは無いらしいが、それでも料亭と呼ばれるようなスタイルの店で、ミキちゃんは和服を着て接客していた。ミキちゃんとは、お互いがバイト帰りだったある日、赤羽橋駅からほど近いところにあるコーヒー屋さんでたまたま知り合って、歳が同じだったこともあってか、少し話すうちに、そのまますぐに仲良くなった。その頃、わたしとミキちゃんはまだ二六歳だった。ミキちゃんのバイト先は、その店柄もあってか、他の従業員はバイトも含めて比較的平均年齢が高めで、おねえさんとかおばさんとか、そういう歳の人が多くて、ミキちゃんは若いというだけでいろいろと大変な思いをしていたらしい。ミキちゃんはその店で働くようになる少し前までは、アイドルを仕事にしていたらしく、なるほどそりゃ確かに、と納得できるくらいには整った顔立ちをしていた。その可愛さも、女だらけの職場では悪い方に作用してしまうことが多く、同僚との関係で嫌な思いをしたりすることも多かったらしい。わたしがバイトしていたのは駅から少し歩いたところにあったイタリアンのお店で、オーナーシェフと、わたしともう一人のバイト、というスタッフで回しているようなお店だったので、ミキちゃんの職場のように他のスタッフとの関係で嫌な思いをしたりするようなことはなかった。そのお店はいまもあって、わたしはいまでも時々、夫と二人で食事をしにいったりする。ミキちゃんとは、バイトの終わり時間が重なりそうなとき、そのコーヒー屋さんで待ち合わせてお茶をすることが多かった。わたしは職場での悩みは特にはなかったが、その頃付き合っていた彼氏との関係が上手くいっていなくて、ミキちゃんによくその話を聞いてもらっていた。ミキちゃんは、職場であった理不尽な出来事とか、職場の先輩で不倫相手の子供を妊娠してしまったという三五歳くらいの女の話とか、そういうことをわたしに話した。ミキちゃんは結局、数ヶ月でその料亭のバイトは辞めてしまった。膝立ちでの接客が多くて、昔、部活をやっていた頃に痛めた膝がまた痛くなるようになったことと、職場の人間関係が嫌すぎるから、という理由だとわたしには言っていた。きょうね、決めたの、わたし、やめることにした。その日、ミキちゃんはコーヒーを飲みながらわたしにそう話した。雨が上がったばかりの夜で、歩道のれんがもアスファルトも横断歩道も、濡れたままだった。通りすぎる車のヘッドライトが、道路に残る水に反射して光るのが店の窓の外に見える。わたしとミキちゃんは、ミキちゃんの退職の決意を祝ってコーヒーで小さく乾杯した。いま思うと、歳が同じことと、二人とも飲食店で働いていたということと、あとは性別が同じということくらいしか、ミキちゃんとわたしの間に共通点はなかったような気がする。ミキちゃんがバイトを辞めてからは一度も会っていない。それなのに、あの頃、わたしたちは週に数回はそのコーヒー屋さんで会っていたような気がする。話していたことだって、今思えば本当にどうでもいいようなことばかりだった。わたしはその後、その彼氏とは別れて、しばらくして付き合ったいまの旦那と結婚した。ミキちゃんがいまどうしているのかも知らないし、お互いに連絡したりすることも最近はほとんどない。いつかまたどこかでミキちゃんと会ったりするのだろうか。わたしねー、いまの彼氏と結婚するかもー。最後にあったあの雨上がりの日に、ミキちゃんはそう話していた。でもしばらくして電話で話したときには、やっぱり別れた、と言っていた。ミキちゃんの目をいまでも時々わたしは思い出す。強さと、儚さを併せ備えた目だった。わたしはいま三一歳で、ミキちゃんとバイト帰りにコーヒー屋さんで話していた頃とは、いろいろなことが変わった。久しぶりに東京タワーの近くに来たので、少し遅い時間だったが、その例のコーヒー屋さんに来てみた。季節は違うが、あの日と同じように雨上がりで、きょうも東京タワーは霧に包まれていた。タワーの先端が、もやもやとした雲の中に消えている。営業時間を過ぎていて、コーヒー屋さんはやっていなかった。ミキちゃんと最後にあった雨上がりの夜は、もうすぐ夏になりそうな季節のにおいがする夜だった。(2018/01/14/21:57)

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