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天ぷらを食べてニヤニヤするふたり

 そのラーメン屋のことを思い返すうちにどんどん不愉快になってきて、それでわたしはもうこれ以上思い返すのをやめることにした。と言いながら、いまもこうして思い返してしまっているわけだが、何日か前に、少し酔って最寄り駅に帰ってきて、ふと思い立ってラーメンを食べることにした。嘘かホントかは知らないが、武蔵小山はラーメン激戦区、なのだとインターネットに書かれているのをいつか読んで、せっかく住んでいるのだから行ってみようと思い立ち、電車の中でネットに書かれていた武蔵小山のおすすめラーメン屋の中からいくつかのお店を絞り込んでから駅を降りた。最終的には、同じ駅にわたしよりも前から住んでいる友人であるホリコシの、みんな美味しいって言ってるね、女の子でも気に入ってる子多いかも、という助言でその店に決めた。その店は、いろいろとこだわりが多いらしくて、店主はかなり味を研究しつくしている店だ、というようなことがネットにあったレビューには書かれていた。それを鵜呑みにして信じたりはしないにしても、参考にはしてもいいとは思うし、その文を書いていたのは人気のあるレビュワーのようだったので、それなりに期待して入った。店構えはおしゃれだし、ちょっと商店街から外れた路地にあるのもなんだかいい感じだった。それで、味が美味しかったらよかったのだが、残念ながら、しばらく待って出てきたのは化学調味料の味しかしない最低のラーメンで、始めの数口は美味しいような気がしたのだが、すぐに嫌になって、麺は一応全部食べたが、スープは全く飲まずに、二度とくるもんか、思って店を出た。それから二十四時間くらい口の中がなんだか変で、ベロの横がピリピリした。そして、とにかく喉が渇いた。せっかく出汁とかにいろいろこだわっても、たっぷり入れられた化学調味料の暴力的な味がそれを全て台無しにしてしまっていた。その店は調理台を囲むカウンター台が少し高めで、客席からは調理する手元が見えないようになっているが、食券を出す時に、どんぶり一杯に対して結構な量の白い粉を入れるのが見えてしまって、それで嫌な予感はしていたのだが、やはり案の定、というような感じだった。その店には二度と行かないと思いながらも、どこか腑に落ちなくて、次の日にはわずかな期待を抱きながらまた別のネットで評判だったラーメン屋に行った。しかし、予想通りといえば予想通りなのだが、その期待は見事に裏切られ、せっかくのスープが過剰な塩分と化学調味料の暴力的なうま味で台無しになったラーメンをまた食べる羽目になった。行ったことのないラーメン屋に新しく行くのなんて随分と久しぶりのことだったのだが、二軒立て続けにひどいものを食べて、本当にゲンナリした。女のくせにひとりでラーメン屋とか行くのかよ、と昔付き合ってすぐに別れた男に言われたこともあったが、わたしはけっこうラーメンが好きだし、本当に美味しいラーメンが食べてみたいとはいつも思っているのだが、なかなかそういう店は見つからない。べつにその今回の二軒のラーメン屋だけが悪いとは思わないし、問題はもっと果てしなく壮大なことのような気がする。わたしはもうかれこれここ数年、自分で料理するときは化学調味料は一切使わないようにしているし、化学調味料に頼った味付けの店にはあまり行かないようにしている。そのお陰で、ただ食事をするだけなのに、随分と大変で困難な思いをすることも多い。わたしもかつては、何も思わずに化学調味料を使っていたことがあったが、どうにもいまひとつ美味しくならないと思うようになり、そこで化学調味料を使うのをやめてみたところ、しばらくして、一気に自分の料理が美味しさを増したように感じた。化学調味料とて、昆布の旨味成分ともともとは同じ成分だし、べつにそう有害なものではないのかもしれない。しかし、それでも、化学調味料では、どうしても自然素材で作ったうま味を超えることができない。いや、越えすぎてしまうのかもしれない。過ぎたるは及ばざるが如し、とは言ったもので、過剰な甘みや過剰な塩分は、味を乱す。わたしがその味に不愉快さを感じたラーメン店は、二軒とも、ネットでは高評価されていて、化学調味料が過剰であることについては誰も一切指摘していなかった。もしかすると、化学調味料がどっぷり入っているから、みんな美味しいと思うのかもしれない、とさえ思えてくる。とにかく、大衆が求めるであろうものを提供することが、必ずしも本当に美味しいものを提供することと同じではない、ということなのだろうか。そんなふうに失意を抱いていたとき、友達のナオキが食事に誘ってくれた。ナオキはフリーの映像作家をやっていて、今回もいつものように、唐突に、美味い天ぷらがあるから食いに行かない? と誘ってきた。ナオキとは、もう数年来の友人だが、基準となる味覚が近いのか、同じものを同じように美味しいと思えることが多く、お互いに誘い合って食事に行くことがたまにある。ナオキは車を持っていて、ナオキと食事に行くときは大抵、彼が車を出してくれる。今回は、どういうわけか、ランチに天ぷらを食べるだけだというのに、朝の九時が集合時間だった。流石に少し早すぎるのではないかと思ったが、いいからいいから、と言われて、わたしは黙って朝の九時に身支度をして家の前に立ってナオキを待った。ナオキは九時ぴったりにうちの前に来てくれて、わたしを乗せるとそのまま中原街道に出て荏原から首都高に乗った。ナオキの愛車は、詳しくはわからないが、二十年くらい前のスポーツカー、らしい。助手席で寝ていてもナオキは文句を言わないので、わたしはいつも車の揺れに合わせてウトウトと眠ってしまう。次に目を覚ましたら小田原にいて、その次に目を覚ましたら伊豆についていた。天ぷらを食べるためだけに伊豆に来たわけ? 目を覚ましてわたしが驚くと、ナオキはニコニコ笑いながら、その価値はあるから安心して、などと言って全く取り合ってくれなかった。伊豆には何度か来たことがあるが、大抵は修善寺とか伊東とかに行くので、西伊豆、南伊豆のあたりのことはわたしはよく知らない。下田と西伊豆の間くらいの南伊豆にその天ぷら屋はあるらしい。ナオキもわたしと同じように化学調味料が嫌いで、わたしと同じ、もしくはわたし以上に味覚がシャープで、とにかく食べるものにうるさい。わさびの産地がどうのこうのとか、醤油の種類がどうのこうのとか、一緒に食事をするといつもそんなようなことをブツブツ言っている。わたしも同じように思うことがあるし、べつに不快だとは全く思わないが、相手によってはわけがわからなくてうざいと思ったりもするんだろうなぁ、とナオキの食べ物についての話を聞きながら思ったりして、それで、自分も気をつけなければ、と思ったりする。その天ぷら屋は天保時代の古民家を移築して作られた建物で営業していて、何もない殺風景な田舎道を走っていたら突然現れた。カウンターで揚げたての天ぷらを出してくれるスタイルのお店で、カウンターの横の丸い窓から見える田園風景みたいな景色がなんとも長閑で、居心地がよかった。その景色を見ていて、わたしは東京で生まれ育ったが、それなのになんとなくノスタルジックな気持ちになってしまった。三種の前菜から食事は始まった。サラダが美味しくて驚く。ドレッシングは酢と醤油が主役のシンプルな構成で、カツオとか昆布とかの天然のうま味も含めて、うま味成分の類に頼らない潔い味付けで野菜の風味がしっかりと活きていた。僅かな苦味と、豊かな香りがある不思議な形の葉っぱで、前菜を出してくれたお店の奥さんにおもわず何の葉っぱなのかを聞いてしまった。春菊なんですよ、春菊にしては大きいですよね。にこやかにそう答えてくれて、改めて味わうと、なるほど、そう言われると春菊の風味がたしかにある。わたしは春菊という野菜がかなり好きなのだが、わたしの知っている一般的な春菊の生の味にくらべて、エグみやきつさが全く無くて、サラダにも相応しい春菊だった。春菊のサラダの他には、野菜の和物と、ハゼの南蛮漬けが盛られていたが、どちらも素材の持ち味を最大限に活かした味わいで、手が混んでいるわりに大して美味しくないわけのわからない料理がありふれている東京のことを忘れられそうなくらいには、その店の天ぷらへの期待が高まっていた。揚げたての天ぷらはまずは山菜と野菜からスタートして、ふきのとう、菜ばな、といった感じで、食べるペースに合わせて続々と出してくれた。天ぷらの衣はさくっと軽く、それでいてしっかりと具材をまとっていて、わたしの好きな揚がり具合だった。その美味しさに嬉しくなってニコニコしながらわたしは思わずナオキの肩を小突いた。だから言っただろ? と言わんばかりの表情で、ニコニコしながらナオキも天ぷらを頬張っている。次に出てきたアジで、わたしのテンションは最高潮に上がった。なにこれ。きちんと火が通っているのに、しっとりレアな仕上がりで、それは今まで食べたことの無い味わいだった。なんなの。あまりの美味しさに緩んだ頬をぴくぴく引きつらせながらナオキを睨むと、ぼんやりとした腑抜けみたいな表情でナオキは天ぷらを味わっていた。この店に来るのはナオキは二回目らしいが、お店の人たちはナオキのことを覚えていてくれたらしく、そのことにナオキもまんざらではなさそうだった。天ぷらは蒸し料理だ、というのをどこかで聞いたことがあったが、この店の天ぷらを食べるまで、わたしはその意味がよくわからなかった。数ヶ月前に、会社の接待で、六本木の高級な天ぷらを食べたことがあったが、松茸とかウニとかやたら高級な素材を揚げていたり、接客とかがとてつもなく丁寧だったりしたので、一人一万三千円というその価格に納得できないわけではなかったが、だからと言って特別に美味しいとは思えなかったし、天ぷらが蒸し料理だ、という言葉の意味は、六本木の高級店の天ぷらを食べても、いまいちわからなかった。それに比べて、南伊豆のこの店の天ぷらは、火の入り方が、全くの別物だった。素材の香りや味わいを最大限に活かしながら、ふっくらと火が通っていて、それでいて衣はさっくりと軽い。その後にも野菜や魚やしいたけが続いて出されたが、わたしはその美味しさにもうわけがわからなくなって、ただただ黙って天ぷらを頬張り続けた。ナオキはたまにお店の奥さんとなにやら会話を交わしていたが、それでもあまりの美味しさのせいか、呆けたような表情だった。なにかを食べて、こんなにも美味しいと思ったのは本当に久しぶりのことだった。ご飯と一緒に出てきた味噌汁も、化学調味料は入っていなかったし、出汁と味噌のシンプルで力強い味わいだった。もしかすると、化学調味料に慣れた舌では、たとえばこういう味噌汁は物足りなく感じたりするのかもしれない。しかし、そのへんの定食屋とかで出される化学調味料の味しかしない味噌汁にうんざりしていたわたしにしてみれば、最高の味噌汁だった。それでいて、信じがたいことに価格は六本木の天ぷらやの五分の一以下だった。お店のご主人の話によれば、地場の食材を使っているから出来る価格らしい。もし同じ内容の同じ店を東京でやろうとおもったら、高い家賃を払って高い食材を買うことになるから絶対に無理だろうとのことだった。あっという間に食べ終わってしまったが、これはナオキがわざわざ高速に乗って食べに来るのも頷ける美味しさだと、妙に納得してしまった。いままでの人生の経験から、地方に行けば素材は新鮮で安いが、しかし、素材がどんなに良くても調理技術のレベルの問題で、結局は多少高くても東京で食べたほうが美味しいものが食べられる、そういうふうにわたしは思っていた。せっかく新鮮なお刺身なのにわさびが美味しくない、とか、せっかく美味しい麺なのにつゆが美味しくないとか、そういうことを地方でする食事では思うことが多かった。どうしてこの店では、六本木の天ぷら屋よりも安い価格で、六本木の天ぷら屋よりも美味しい天ぷらが食べられるのか、わけがわからなくて、不思議な気持ちになったが、美味しかった、という事実の前ではそんなことはどうでもいいことに思えた。温泉もいいとこがあるんだけど、と言うナオキの誘いに大賛成して、そのあとに温泉に行くことになった。帰り際に、建物のことをナオキとお店のひとが話していたら、屋根裏を見学させてくれることになった。幅の狭い階段があって、その階段は、この古民家を仕上げた大工さんが梁を眺めるためだけに作った階段らしかった。その階段をナオキのあとについて登ると、百八十年の歴史を下から照らされる光の影に感じるような気がした。丸太のような太い木が何本も横たわって建物を支えている。わたしは免許も車も持っていないので、もし一人で来るとしたらどうやってこの店に来ればいいのかわからなかったが、たぶんこの様子だと、誘えば喜んでナオキはこの店に連れてきてくれそうな気がした。飲食店を続ける、ということは簡単なことではないと常々思うが、長く続いて欲しいお店だと心から思った。人気なのに美味しくないラーメンを二連続で食べて本当にゲンナリしていた心が、その天ぷらのお陰で、すっかり晴れたような気がした。美味しいごはんがあるだけでは人は生きてはいけないし、食事なんて高くても安くても、言ってしまえば、たかが食べ物、でもある。それでも、本当に美味しいものを食べたときには、その喜びは何物にも代えがたいものなのではないかと思ったりもする。天ぷら屋を出ると、そこには夏の青空が広がっていた。たかが食べ物の味でさ、こんなにも悲しんだり喜んだりできるなんて、人間ってなんなんだろね、ほんと。先に車に向かって歩いていたナオキの背中にそう言うと、わたしが美味しくないラーメンを食べてげんなりしていた話しを往きの車の中で散々聞かされていた彼は、ホントそうだよなぁ、と言って声をあげて夏空の下で笑った。ナオキと付き合ったりするような予定はいまのところは特にはないが、それでも食の好みの類似性というのは案外、侮れないものだし、またナオキと何かを食べに出かけたいなぁとわたしは胸の裡でふと思った。夏の太陽に照りつけられたアスファルトが、ゆらゆらと揺れている。わたしたちは、黙ったまま、ナオキの車に乗った。         

(2018/01/30/05:39)                 

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