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会社のサボり方

 たまに、何のために会社に行くのか、自分が何のために働いているのか、わからなくないと思うことがある。仕事の内容にものすごく不満があるとか、職場の人間関係に著しい問題があるとか、そういうわけでは決してないのだが、会社に行くことがすごく嫌に思えることが、たまにある。中学の担任だった体育の吉村とかだったらきっと、怠けてるだけだ、身体を動かせば忘れる、とか言いそうな気がするけど、そういうもんでもないと二十四歳になったわたしは思う。大体、吉村のことなんてよく思い出したな、と思うが、根性論の暑苦しいやつ、といえばわたしのなかでは吉村が一番最初に出てくる。わたしが中学生だったころは、いまほど世の中は体罰とかそういうのにうるさくなくて、男子はよく吉村にゲンコツで殴られたりしていた。職員室で煙草を吸っている先生もいたし、いまだったら世間にうるさく言われるようなことに、誰もがもっとずっと、無頓着だった。大体、世間ってなんなんだろう。小さい頃、親戚のおばさんとかが、世間が〜とか、世間では〜とか、世間に〜とか言うのを聞いて、世間という団体みたいなものがあるのだと漫然と思ったりしていた。世間様に、なんていう言い方をする大人もいたりして、それが人の名前ではないことはわかっていたが、なにかそういうグループみたいなものがいるのだと思っていて、わたしはちなみに、その大人の会話にたびたび登場する世間、というやつが嫌いだった。関係ないくせに余計なことを言ってきたり、どうでもいいことに噛み付いてきたりするのが世間という存在のわたしのなかでのイメージだった。大人になってみると、あながちそれは間違いでもなかったとな、と思ったりする。物理的には存在しないし、たとえば社団法人世間、みたいなものがあるわけでもないが、実態として、世間という名のうるさい団体みたいなは、存在しているような気がする。それは、人々の意識とか心とかの中にいて、その総意、というと大げさだが、みんなはきっとこういうふうに思ってるわよね、こうしておかないとみんなに非難されるわよね、みたいな思い込みの集合体として出来上がっているのが世間だと思う。会社で働いていても、お前はどう思ってるんだよ、と上司とか同僚とかを詰めたくなることがある。そういうシーンでも、やっぱり世間、みたいなものが登場する。社内のみんなはたぶんこう思ってるんじゃないかな、とか、世の中的にはこうだよね、みたいな足かせに雁字搦めに縛られた人たちが、会社の中にはうじゃうじゃいる。もちろんわたしだって、そういうものを全く意識しないわけではないし、そういうものに対する配慮をしたりすることもある。でも、なんでみんなそんなに、下らないとわかっていても、しょうもないなぁって思っていても、そういうシガラミに従ってしまうんだろう。シガラミ、という言葉は漢字で書くと、柵と書く。柵というのは、自分の領地を守るものであり、自分の行動範囲を制限するものでもある。結局みんな守られていたいんだろうし、そりゃあわたしだって守られていたいと思うこともあるけれど…。今朝は、どうしても仕事に行く気になれなくて、会社のかなり手前の駅で電車を降りて、具合が悪くて病院に来ている、と上司に電話した。同期のサキちゃんと前話していて、そういえば仮病の極意を教えてくれた。上司に電話するときはふとんに頭から潜って電話をかけると、声がくぐもって具合が悪そうに聞こえるのでそれっぽさが増すとか、仮病した翌日は化粧をいつもより薄くして具合が悪そうに見せるとか、そういうノウハウを、ミユキもなんか嫌になったらサボったほうがいいよ―と言って嬉しそうに話してくれた。嫌だなぁと思いながら出社の支度をして家を出たのだが、やっぱり嫌だったので、一日サボることにした。外回りもないし、サボったところで誰にも迷惑はかからない日なので、きょうは心の底からサボることにした。とりあえず、ラッシュの人々を尻目に、あまり混んでいなそうなカフェを探して入った。いつもは会社の近くのコンビニでシリアルバーとコーヒーとかを買って済ませている朝食も、きょうはゆったりカフェで食べるかと思うと、意味もなく心が踊った。サンドイッチとカフェラテをゆっくりと味わって、それから文庫本を読んで数時間を過ごした。きょうもしかして例の?笑 最近忙しかったし、ゆっくり休んでね! あ、ほんとに体調不良だったらごめん!! というラインが、わたしが休みなのに気づいたサキちゃんから来た。そうそう、すまんね、サキちゃんも無理しすぎずに!! と返信しておいた。いまわたしが所属しているのはサキちゃんとは別の部署なので、直接仕事で係ることはあまりないが、フロアが同じなので、会社にいると顔を合わせることが多い。たまに漫画の貸し借りをしたりとか、お菓子を交換したりとかするし、そう広いフロアでもないので、どちらかが休みだったりすると、大抵すぐに気がつく。わたしの部署の上司は、芋虫みたいな顔のおじさんで、とにかく考えが古い。世間とか世間体とか、そういうのをいつも気にしていて、社内での行動も、とにかく失敗しないようにすることにばかり気を使っているので、たしかに大きなマイナスは全くないが、なんにもチャレンジしないので、もういい歳なのにいつになっても係長から進まないでいる。男性と女性の役割分担、みたいなことに関する価値観もとにかく古くさい人で、つらい仕事とかキツイ仕事は男性にやらせようとしたり、女だからという理由で、女の部下になかなか権限をもたせようとしなかったりするのもわたしは嫌だった。べつに悪い人ではないし、嫌いというほどではないが、話していてもつまらないし、仕事の上でもアグレッシブさみたいなものが微塵も感じられないので、それに基本的には従わなければならないわたしは、鬱憤ばかりが溜まる日々だ。読書にも飽きて、どこか外へ出ることにした。とくに行きたいところとかはなかったが、なんとなく、余裕のあるなにか、がしたくて、近場にあった美術館に行った。特に見たかった展示というわけでもなく、なんとなく雰囲気で選んだのだが、絵画から謎の現代アートまでが揃った不思議な展示で、会社をサボった一日を彩るのになかなかよくマッチした展示内容だった。ランチは行ってみたかったイタリアンに行った。目白にある店で、基本的にはバルなのでが、ランチもやっていて、手頃な価格のわりに内容が本格的、ということで人気だった。まだ若いシェフが切り盛りしているお店で、わたしはピザとサラダのセットを頼んだ。確かに美味しかったような気がしたが、かなり混んでいて、よくわからないままに食べて、外で待っている客の視線に急かされるようにしてわたしは店を出た。ピザの写真をサキちゃんに送って、でも混んでいてなんかよくわからなかった、と書き添えた。サキちゃんはオフィスでコンビニの弁当を食べていたらしく、すぐに返事が来た。ちっちっち、これだからサボり初心者は困るのだよ、ランチは終わりギリギリとかの会社員の昼休みが終わったころに行くのが鉄則! 休みの日までピーク時にランチすることないじゃーん。青ざめたて汗を流しているうさぎのスタンプと一緒にそう送られてきた。なるほど、そうか、お昼になったから食事をしようと思ったけど、よく考えると、べつに少し我慢して、みんなの昼休みが終わることに行けばよかった、というだけのことだった。こういうところでサボりの素人っぽさがでてしまうのか、とわたしは心のなかで苦笑いした。その後は、ちょっと服を見たり、雑貨屋を眺めたりして、カフェでiPadで漫画を読んでいたら、びっくりするくらいあっという間に午後が終わってしまって、気がつくと外はすっかり暗くなっていた。夕飯は家に帰ってなにか作ろうかと漫然と考えてはいたが、まだ何も決めていなかった。夕飯をどうするか、というのに限ったことではないが、なにかをまだ決めていない、という状態は、つまり、自由である、ということだが、それは同時に怖いことでもあって、うまくいく可能性だけではなくて、失敗する可能性をもいつだって孕んでいる。そして、自由であるということは、他人からみても、時には怖いことになりうるらしい。職場の上司の芋虫おじさんのことを思い出しながら、彼もまたきっと、自由であることや、自由なひとを見ることが、怖いのだろうなと、ふと、日が落ちた街にひとり立って、わたしは思った。(2018/02/05/03:05)


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