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二十二歳

 たぶん、それは今までの人生のなかで、おそらく最悪の誕生日の迎え方だった。別に、自分の誕生日を祝うということに特にこだわりはないし、むしろ、祝ってもらったりするのが苦手で、誕生日はいつもどおりに普通に過ごしたいと常々思っている。SNSに祝いのコメントとかメッセージとかが適当に届いたりするくらいであとはいつもどおり、というくらいがたぶんオレにとって一番快適な誕生日の過ごし方なような気がする。二十二歳になる前日、つまり二十一歳最後の夜、おれはなにをどう間違えたのかよくわからないが、運転代行の随伴車のドライバーのバイトの研修を受けていた。代行ドライバーを勤めるには二種免許が必要だが、随伴車のドライバーは普通免許があればできるのでオレはそのバイトに応募していて、なぜかはわからないが誕生日の前夜にその研修を受ける羽目になっていた。その会社の事務所は六本木の雑居ビルにあって、事務所にはカエルのような顔でカバみたいに太った社長と、マッチ棒みたいに痩せたメガネの社員がいた。研修を受けるのはオレともうひとり、二十七歳の男で、あとで聞いた話しによれば、彼はその運転代行業者の取引先の会社の社員で、会社の経営が思わしくないので、出向してバイトさせてもらうことなり、それで研修を受けていたらしい。彼の会社は彼の兄が経営していて、思わしくない売上を少しでも補填するために、社長の弟である彼が、昼間の仕事に加えて夜間に出稼ぎをすることになったのだった。研修中の車のなかでその話を聞いて、夢のない話だなぁとオレは他人事のように思っていた。その頃オレはちょうど免許を取って二年くらいで、スピード違反で警察に捕まったりとか原付きに突っ込まる軽微な事故とかを一通り経験して、すっかり運転に慣れていたし、車や運転が好きだと思うようになり始めていた。それで、金が欲しくでバイトをしたかったが、配達とかは嫌だったけど代行ドライバーならできるような気がして、ネットで調べてその会社に応募した。その雑居ビルの小汚い事務所での面接を経て、何日か待たされたが採用の通知が来て研修を受けることになった。予定外だったのは、随伴車のドライバーもスーツを着なければならないことで、オレはその頃、昼間は出版社で働いていたのだが、スーツを着なければいけないような機会はまずなかったので、その研修の日にも一張羅のスーツを着込んで出勤した。何年か前に、ダイエーのスーツ売り場で父親が二万円で買ってくれたスーツを一着だけオレは持っていて、仕方がないのでそれを着て行ったのだった。研修ではよく客に依頼される都内の主要な駐車場を、オレと二十七歳の彼との二人で運転を交代しながらただただ巡った。研修の講師はまるで社長のカバガエルの弟ではないかと思うような体格と顔つきで、社長に比べて顔がカエルよりもワニに近い印象だった。社長のカバガエルも充分にうざかったが、弟、ではないらしいが、そのまるで弟のような社員のカバワニはもっとうざかった。オレとか二十七歳とかにちまちまと運転の文句を言っていたが、その指摘の仕方には全く具体性がなくて、何が悪いのかとか、何を直せばいいのかとかが、微塵も伝わって来なかった。研修は二十一時くらいから始まって、誕生日を迎えた瞬間は麻布十番のあたりを走っていた。カーオーディオから小さく流れるているラジオが午前零時を回ったことを伝えたとき、オレは一体何をしているのだろう、という虚無感のような思いが身体を巡った。青山一丁目から青山霊園の方に向かう公園に沿ったカーブを走っていたとき、随伴車の軽自動車の性能がオレはいまひとつ掴めていなくてブレーキが足りずなかった。それでコーナーへの侵入前に減速が不十分だったので、オレはコーナリング中も薄っすらとブレーキを残したまま、前輪への荷重を増やすことを意識した。後部座席に座っていたカバワニは、それを見てまるで敵の首でも取ったかのように、いかにコーナー中のブレーキが危ないかを説明しはじめた。カーブのなかでブレーキを踏むと、タイヤがスリップして危ないから、雪道でそれで横転したやつをオレは知っているから、というようなことを言っていたが、よく聞いていると、とにかく危ない、というようなことを言い方を変えて繰り返し言っているだけで、どうして危ないのかは伝わってこなかったし、コーナー中のブレーキが問題となる場合があることくらいはオレだって知ってはいたが、そもそもここは雪道ではなかったし、こんなスピードとこんなブレーキの弱さでは、事故に繋がることの方が難しいだろうと言い返しやりたかったが、面倒だったのでオレはただ黙って聞いていた。二十七歳は運転中の雑談のなかで、兄の会社はの経営は正直かなり危なくて、自分も昼はセールスを頑張らないといけないし、それに合わせて夜もこうしてバイトしなければ回らないのが現実なのだが、そんな生活でいつまで身体が持つか不安だ、というようなことを話していた。カバワニはうちの会社は安定しているから大丈夫、というような的外れなことを言って、オレはなんと言っていいのかわからなかったので黙ってハンドルを握り続けていた。研修と称された東京の夜のドライブは深夜の三時近くくらいまで続いて、休憩もろくになかったので終わる頃にはオレはすっかり腹が減っていた。事務所に戻ると、今後の勤務形態についてや、次回の研修の日程などについて聞かれたが、このバイトを続ける意思が全くなかったので、オレはその場は適当に答えてすぐに帰った。外にでると、一枚しか持っていない大切なスーツの裾がしわしわになっていて、なんだか悲しい気持ちになった。深夜三時の六本木の街は変わらず賑わっていて、オレはなんとなく、ドンキに立ち寄った。特に用事はなかったが、店内をウロウロと眺めた。小学生くらいの頃に、よく家族で買い物に来たりしていたことを懐かしく思い出した。食品売り場で、携帯で誰かと話している黒人の女が牛乳を手に取っていた。会話の内容が聞こえてきて、英語だったがなんとなく聞いていると、明日の朝の食事の材料が家にあるかどうかということをルームメイトだか恋人だかに尋ねているというような感じの内容だった。女の髪はチリチリにパーマで丸まっていて、携帯を耳に当てている腕にぶら下げたカゴにはキュウリとカップラーメンが入っていた。こういう女は。オレはケータイを握る女の手のあたりを眺めながらオレは思った。こういう女は、いったいどういうところで働いて、どこに住んでいるのだろうか。もうとっくに電車も止まっているし、タクシーはあるにしても、食品を買っているのだから、おそらくそう遠くへは帰らないのだろう。六本木の夜の街にいる外国人が、いったいどういう働き方や生活をしているのかが、あまりにもオレの日常とは遠い話だったが、すこしだけ気になった。特に欲しいものもなかったし、何も買わずにドンキを出て、おれは運転代行の会社のバイク駐輪場に向かった。当時のオレは原付きを友達から買ったばかりだった。動かなかったやつをレンタカーで近所のバイク屋まで運んで、三万円くらい払って直してもらった。早く二輪の免許が欲しいと思いながら、警察にビビりながら原付きに乗って生活していた。原付きのボディの側面にこすり傷があったので、おれは傷をペンキで塗りつぶして、そしてその上に忌野清志郎の目がハートマークになっているうさぎの絵を描いた。六月の夜風は湿り気を帯びていた。これから来る夏のことを思って、オレは半分くらい楽しみで、半分くらい憂鬱な、妙な気持ちになった。運転代行の会社にいたおっさんたちとも、二十七歳の彼とも、たぶん二度と会わないんだろうなぁと思った。研修を途中でやめてしまったので、たぶん、給料は一円ももらえない。バイク置き場は、代行ドライバーたちの通勤用に会社が借りている四輪用の月極駐車上で、その枠の中にバイクとかスクーターを停めていいことになっていた。その夜はオレ以外はバイクで出勤したやつは誰もいなくて、オレの原付きだけがポツンと停まっていた。家に帰る道の途中に信号待ちで前を見上げたら、東京タワーが湿り気のある空のなかで、しっとりと光っていた。東京タワーの照明は、夏と冬とでは配色が変わるらしく、七月〜九月の間だけ、すこし青白いライティングになる。まだ六月だから、冬と同じ、オレンジ色が濃い、暖かみのある色で光っていた。今までの人生で見てきた六月の東京タワーのことを少しだけ思い出して、それから信号が青に変わってオレの原付きは走り出した。(2018/02/01/06:31)

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