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ゆきのひ2

 出欠の締め切り日は今日だった。返信はがきは手帳に挟んだままで、まだ返事は決められていなかった。有希子とは前職の同僚だった。招待状が届いたとき、おめでとうという気持ちと同じくらい、いや、それよりも少し多いくらいの、困ったな、という気持ちが自分の中にあるのを感じた。素直に祝ってあげたいという想いはもちろんあったが、なぜそう大して親しくもないわたしなんかを呼んだのだろうか、とか、またご祝儀の捻出で悩むのか、とか、自分自身は結婚の兆しなんて全くないのに何故もこうして人の結婚式ばかりに参加しなければならないのかとか、そういうモヤモヤとした想いのほうが強かった。何度か二人だけで食事に行ったこともあったし、特に不仲ということはなかったが、それでも、親しいとはおよそ言い難い間柄だった気がする。朝から雪が降っていて、オフィスを出るころにはすっかり積もっていた。こんなに積もるとは思っていなくて、いつもと大して変わらない靴で出勤してしまったし、ツイッターのタイムラインに流れてくる駅の人混みの画像を見ていると家に帰るだけなのに、会社を出ることがものすごく億劫に思えて仕方がなかった。天気予報で、たしか六センチ積もる、というようなことを言っていたのを聞いた記憶があったが、その記憶が定かではないというのはあるにせよ、会社のあるビルの前の植え込みには二十センチ近い高さの雪が積もっていた。最悪に混雑している駅を通り、人身事故で他線が止まったあとの振替輸送の大混雑みたいな電車に乗って、最寄り駅からは靴の中に染み込む冷気と水に凍えながら家まで歩いた。駅の近くで食事をしていたときには有希子の結婚式の招待状のことを覚えていたが、帰宅する頃にはすっかり忘れていた。少しだけお酒を飲んで、美佳子とラインでくだらないことを話して、さあ寝ようというときになって、招待状は待ち構えていたかのように脳裏に舞い戻ってきた。もしかして締め切りは今日ではなかったかもしれないと思って、何度も見た招待状を確認したが、やはり今日が締切だった。べつに少しくらい遅れてもいいだろうとは思ったが、これ以上このことで悩みたくないからさっさと片付けてしまいたいという気持ちもあった。会社に履いていったパンプスは帰宅するころにはすっかり濡れてしまっていたので、家についてすぐに新聞紙をなかに詰めておいた。新聞なんか取っていないが、こういうときのために、通販の包装紙とかで届いた新聞を下駄箱のなかに取ってある。窓を明けてみると、マンションの十階ということを差し引いても、外は寒かった。意を決して、パジャマの上から考えられる限りのあたたかそうな服を着た。登山用に買ったモンベルのフリースとか、パタゴニアのダウンとかを着て、下はジムに行くときのジャージを二枚重ねにしてパジャマの上から履いた。マンションの廊下は暖房が効いていて、暑いくらいだったが、外に出ると顔に当たる風が冷たかった。寝ようと思ってコンタクトを外してしまったので、メガネ越しに見える景色は乱視のせいで、なんだか濡れているように見えた。寒さで目を開けているのがなんだかつらかった。ポストまでの間に返事を決めようと思って、招待状の肝心の出席・欠席の部分には記入していなかった。手袋をしていたが寒くて、ダウンのポケットに突っ込んだ手の中で持ってきたボールペンを握りしめる。ポストの前まで来たが、結局決められなかった。三万円あればできることが脳裏に浮かんでくる。三万円ぽっちじゃなにもできやしない、とうそぶいてみたところで、三万円で行けるところ、食べられるもの、買えるもの、そういうものがいろいろと脳裏に浮かんでくる。お金の問題だ、と割り切ってみたつもりになっても、本当に自分は行きたいのだろうかとか、行くべきなのだろうかとか、そういうこともよくわからなくなってきて、終いにはなぜわたしなんかを招待したのかを会って有希子に問い詰めたくなってくる。ポストの前にいつまでも突っ立ているわけにも行かないし、交差点の向こうにある交番には暇そうなおまわりさんが立っていて、わたしの方をぼんやりと見ていた。公園を一回りしたら決められるような気がして、すぐ横の公園に足を伸ばすことにした。公園のなかは人影は全くなくて、とにかく静かだった。雪が積もると、なんだか静かに感じるような気がするが、本当にそうなのかどうかはわからないし、もしそうだったとしてもその理由をわたしは知らない。時々、遠くの方で、積もった雪が崩れて落ちる音がする。あとは何も聞こえない。少し森の奥に足を進めると、車道の音も聞こえなくなった。自然の中にいると、いや、自然と言っても都心のど真ん中のただの公園だが、それでも、木々に空が覆われた森の中にいると、月並みな感想かもしれないが、結婚式の出欠なんて、どうでもいい悩みに思えてくる。足跡のないところを選んで踏むと、サクサクと音を立てて雪に靴が沈む。登山用に買ったハイカットの靴を履いてきたので、通勤のときのパンプスとは違って、安心して雪に足を踏み入れられる。誰かの足跡の上を歩くのは楽だし靴も濡れないが、誰も踏んでいないところを踏み荒らすほうが、なんだか楽しいような気がした。不意に、植え込みの向こうに、人影があるのが目に入った。二人いるみたいで、ベンチの前に突っ立っているのが男の人のようだった。その男の人の人影のすぐ前に、女の人だと思われるもう一つの人影がしゃがみこんでいる。よく聞き取れなかったが、女の人の声で小声で何かを言うのが聞こえて、男の人が、ベンチの上の雪に身体を押し付けた。何をしているのかよくわからなかったが、少しして、女の人がまたしゃがみこむと、その顔が男の人の腰の前あたりにぴったりとくっついて小刻みに動きだして、さすがのわたしでも何をしているのかがわかった。表情は見えないが男の人の方の人影は、肩で息をしているような動き方で、呼吸に合わせて身体がゆっくりと動いていた。どうしたらいいのかわからなくて、わたしはしばらく、その姿を息を飲んでじっと見つめていた。なんでわたしのほうが逃げなければならないのかわからなかったが、彼らに見つけられてはならないような気がして、それで、そっと音をたてないようにして、二、三歩、後ろに下がった。どうしたらいいのか迷っていると、不意に、数ヶ月に一度行く喫茶店の顔なじみの奥さんのお腹が、何日か前にすこし大きくなっているように見えたことを思い出した。赤ちゃんですか? とかそういうようなことを聞けるほどは親しくないが、定期的な用事のついでにいつも行っている店なので、明らかにその二ヶ月前くらいに来たときとは様子が違っていたのはわかった。着ている服も、身体のラインがわかりにくいようなすこしゆったりとした服になっていたし、それで妙に気になったことを、突然に思い出した。夫婦でやっているお店で、旦那さんがコーヒーを淹れて、奥さんが料理とかお菓子を作っている。当たり前だが、もし妊娠なのだとしたら、あの旦那さんの精子が奥さんを妊娠させたことになるわけだが、わたしの視界の中のカップルも、方法は違えど、これから精子を出そうとしている。見届けたいという妙な好奇心と、見てはいけないという妙な良心のような気持ちがわたしの中でぶつかり合う。乱視のせいではっきりとは見えないが、雪原のなかのカップルは、口でするのはやめて、手でしているようだった。女の人の服が擦れる音が聞こえる。しばらくして、出そう、という男の人の低い声が聞こえて、それから、女の人の服が擦れる音も止まった。なんとなくここから動いてはいけないような気がして、まだ出欠の返事も決められていないし、わたしは植え込みの影に身を潜めた。何分経ったかわからないが、更にしばらくして、彼らが動き始めた様子が聞こえてきた。思っているよりもわたしがいるところが彼らの位置から近く、植え込みの向こうからその様子が伝わってくる。すごい、ひでくんので、雪、溶けたね。という女の人の小さな声とか、寒いからもう帰ろうよという男の人の声とかが聞こえた。それからどうやら彼らはわたしとは反対の方向に歩いて行ったようだった。恐る恐る、植え込みの影から出ると、もう彼らの姿はそこにはなくて、遠くに、並んで歩くふたつの背中が見えた。その姿が完全に見えなくなってから、わたしは彼らがいたところまで雪を踏みしめて歩いた。まさかとはおもったが、ベンチの雪には筒状の、男性の性器の形の穴が空いていて、妙に恥ずかしい気持ちになってわたしは耳が熱くなるのを感じた。二人が立っていたところの前には、女の人が言っていたとおり、地面に飛んだ精液で雪が溶けて小さな穴になっていた。突然、どういうわけか、結婚式の出欠は、欠席で出せばいい、と急に決意ですることができて、やっと返事を決められたということが嬉しくてわたしは少しだけウキウキした気持ちになった。どうして公園でエッチなことをするカップルを見ていて決意できたのか、それから、妊娠しているのかもしれない喫茶店の奥さんのことを突然思い出したのか、全くわからなかったが、自分の意識の奥のもやもやとしたところにあった気持ちが、カップルと奥さんを触媒みたいな役割にして、浮き上がったのかもしれないような気がする。人間の意識というものは、はっきりと自分で自覚できる顕在意識と、自分でもわからない潜在意識とで構成されているが、その比率は、表層にある潜在意識が五%、無意識とも呼ばれる潜在意識が九五%という割合らしいというのを何処かで読んだことがある。ポストにはがきを出すために公園を出ることにして、精液を踏まないようにしてわたしはその場所から歩き去った。公園のすぐ横の表通りに出て、ポストに向かって歩いていると、ポストの直ぐ傍のコンビニから、さっきのカップルが出てきた。目を背けてしまいそうになったが、彼らはわたしのことは見ていないはずだし、素知らぬ顔でわたしはポストに向かってあるいた。すれ違うときに彼らの顔をみたが、ふつうの、ありふれた、どこにでもいそうな顔をして、楽しそうに話していた。ほんのすこしの罪悪感のような気持ちを感じながら、わたしははがきを取り出して、欠席という文字に丸をして、御という字と、御出席、の文字を二重線で消した。(2018/01/26/00:37)

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