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あつあつの豚バラうどん

 十二月も半ばの肌寒い日だった。俺は吉田戦車の漫画を読みながら、うどんを待っていた。吉田戦車という漫画家をどれくらいの人が知っているかわからないが、個人的に、とても好きな漫画家だ。誰もが知っている有名漫画家というわけでもないかもしれないが、知っている人はとても良く知っている、そんな漫画家だ。かの椎名林檎も、吉田戦車というペンネームの語感にインスパイアされて、林檎という名前をつけたという話もあるが、およそ初見では人名とは認識し難いそのペンネームからも、吉田戦車という漫画家の世界観がわかるような気がする。そのシュールさやコミカルさではそんじょそこらの作家の追随を許さないし、ナンセンスさにおいては、かの、つげ義春にも劣るとも勝らないのではないかと思うことさえもある。とにかく、ヤバイ世界観の漫画を描くひとで、そのうどん屋においてあったのは「油断ちゃん」というスパイ少女が主人公の作品だった。じわじわと脳に響いてくる独創的な世界に、くすくすとこぼれそうになる含み笑いをこらえて、俺はうどんを待っていた。そうえば、以前にこのうどん屋に来た時は佐竹くんと一緒だった。俺が引っ越してしまったりしたこともあって、しばらくの間、俺もこの店には来ていなかった。佐竹くんはその頃、この店からほど遠くないところにある整骨院に勤務していて、俺が背中とか腰とかが痛くて訪ねると、いつも施術を担当してくれていた。何歳か俺の方が年上だったが、世代が近いこともあって、いつもあることないことを話しながら施術を受けていた。俺が引っ越してしまう少し前に、佐竹くんもその整骨院を辞めようと思っているのだと話していた。たしかに、権威主義で頭の硬い院長と高圧的な事務スタッフが揃っていて、居心地の良さそうな職場ではないのは患者の俺にもひしひしと伝わってきていた。佐竹くんには付き合って二年になるという彼女がいて、もうすぐ一緒に暮らし始めるのだと言っていた。次の仕事が決まっているのかと聞いたら、佐竹くんはまだ決まっていないと話していて、それじゃあ同棲するのに仕事を辞めてしまって大丈夫なのかと心配になって俺はそのことを尋ねたが、実家が自営業をしていて、その店をしばらくは手伝って生計を立てるつもりなのだと佐竹くんは話していた。吉田戦車の「油断ちゃん」はくだらなくてナンセンスで意味深でシュールで、初めて読んだが、とても好きなタイプの漫画だった。この漫画を読んで面白いと思うか、思わないか、というのは、もしかすると、俺が親しくなれる相手なのかどうか、という線引になるような気がする。もっというと、その、吉田戦車独自の世界観に、しっかりと順応できるか、というのも大切だと思う。まず、吉田戦車を受け入れることができないという人たちがいて、その次に、受け入れることは出来るが特には好まない、という人がいる。そして、最後は、積極的に読もうと好む人たちだ。俺はもちろん最後者だが、佐竹くんと吉田戦車のことを話したことはないのでわからないが、佐竹くんはたぶん、受け入れることは出来るが特には好まない、という人のような気がする。「油断ちゃん」のページをパラパラとめくっていると、大将がうどんを持ってきてくれた。このうどん屋の店主はがたいのいい、くまのような人で、フクロウを家で飼っているらしく、だからというわけではないらしいが、店内にはふくろうのグッズがいろいろとある。この店のうどんは、冷たい麺に冷たいかけつゆで食べる、冷かけが一番好きなのだが、この日はあまりにも寒くて、おれは温かいうどんを注文した。香りよく煮込まれた豚バラとネギの風味が、さぬき系ではあるが関東の人間にも美味しく仕上がったかけつゆと合わさって、最高のハーモニーを奏でている。手打ちの自家製麺は、これもさぬき系ではあるが、細麺で、コシと柔らかさが絶妙に同居している、独特の打ち加減で、とてもいい麺だ。「油断ちゃん」を閉じて、俺はうどんを啜った。冷えた身体に温かいだしがよく沁みる。うどんを食べながら、俺はまた佐竹くんのことを思い出していた。いつか、とんかつでも奢るよ。そんなことをある日、俺は佐竹くんに言った。その約束はまだ果たしていなかったが、具体的な日にちを約束したわけではないので、まだ約束を反故にしてしまった、というわけでもない。佐竹くんとは携帯の連絡先は交換してあるし、それがいつになるかはわからないが、そのうちに、とんかつを食べに行く誘いをしようとは思っている。佐竹くんは携帯で動画を見るのが好きで、休みの日はたいてい家でYoutubeを見ているのだと、いつか話していた。佐川くんのことを思い出した後、うどんを食べる前に読んでいた「油断ちゃん」にでてきた、「私の知り合いの尿酸値の高い老人が相談に乗ってくれるわ」という破壊力のあるセリフのことをまた思い出しながら、俺はあつあつの豚バラうどんをまた啜った。(2018/01/09/23:47)

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