The chair-man #9 椅子屋になった男

「やっちゃいなよ、俺が保証人になるから」


もうその頃は天童ともすごく仲良くなっていて、天童にもよく遊びに行っていました。
菅澤さんが、「田村君、東京の店の話はどうなっているの?」と聞くので

「やりたいんですけど、お金も無いしなあ。」なんて言うと、
「(お店を出す件に関して)取締役会議で全部OKを貰ったよ」と言ってきました。
こちらが提示した掛け率で、名前も使って良いとの事。

分かりました、と伝え新潟に帰ってきましたが
東京にお店を出せるほどのお金も無いし、銀行も貸してくれるのかどうか、
悩みどころは多いままでした。

そんなある日、タレルを紹介してくれたアートディレクターの関谷さんが来られて
「天童の話どうなった?」と聞くので
「天童からOKは出たんですけど、そこまでお金も無いし、借りれるかどうかも分からないから、
どうしたもんですかねー」
なんて話すと、
「やっちゃいなよ、俺が保証人になるから」と言ってくれて
北越銀行から2,000万借りることが出来ました。

そのお金で東京に店を出したんです。

いまだにお付き合いをさせてもらっていますが、
その後一度たりともその話には触れることはなく、本当に感謝しかありません。

店の名前やロゴについて

名前も色々考えていて、天童木工ストアとか天童○○とか...
でも何かピンと来ないなあ、なんて考え続けて
最終的に天童木工PLYに決定しました。
天童の使う積層合板を英語にすると"プライウッド"だからでした。

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名前を決め、お店自体はスタート出来ますが、
どうやって東京で天童木工PLYを広めて行ったら良いか
当然分かりませんでした。

そんな時、
「前面的にバックアップしますよ」と言ってくれたのが
当時E&Yの別会社、【Daily press】というプレスリリースをやっている会社でした。当時創業したばかりでした。

彼らの協力で、オープニングパーティにはなんと200人ほど集まりました。
ソフのデザイナーの清水さんや、デザイナーの吉岡徳仁さんなど、他にも錚々たるゲストたちが来てくれました。

そんな事もあってPlyは最初から雑誌には信じられないくらい取り上げてもらいました。
売上はそんなんでも無かったけど。笑

実際、飛行機の中でイギリスの雑誌MONOCLEのPLY取材記事を見て、
ジャスパーモリソンも遊びに来てくれました。


美術出版社から刊行された天童木工の書籍もPLYからの提案でした。

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天童との関係が良かった頃は様々な提案も快諾してくれました。

例えば今は誰もが知っている"ヘロンロッキングチェアー"。
そのころの天童の商品はバタフライスツールや柏戸チェアー以外には名前などは殆ど無く、T-2067とか、番号で呼ばれていました。
天童の本社で菅澤さん達と話している時に、
ロッキングチェアーに名前を付けませんか?と提案し、
「名作椅子の名前には生き物の名前を持った物が多いですよね、柳さんの”バタフライスツール”然りウェグナーの”ベアチェアー”やヤコブセンの”アントチェアー”とか。」と言うと、
「そう言えば先代の社長がこの椅子は白鷺に似てるなんて言ってたなー」と菅澤さん。
「鷺は英語でヘロン、ヘロンロッキングチェアーにしましょう!」と言った僕の案が採用されたのでした。

その後、しばらくは天童との関係は良かったのですが、
PLYを全面的にバックアップしてくれていた取締役兼デザイナーだった菅澤さんが退職後のある日、
急に商売ができないほどに掛け率(仕入れ値)を上げられてしまったのです。
(卸さないとは言いませんでしたが。)

結局最後は空中分解みたいになってしまって、約7年間でPlyは閉店しました。
その後、天童とは裁判などで色々と揉めたけれど、縁があればまた一緒に仕事をしたい。
こんどは世界を相手に!


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追記:


実はPlyをオープンしてから2年目くらいに倒産しそうになりました。

新潟とPlyを行ったり来たりしていたから、
僕が新潟にいない間にアパートメントの売上がガタ落ちしたのです。。

話題にはなっていたplyも、
その時はそこまで売上が良い訳でもありませんでした。

当時 本当に苦しくて、こんな思いをするくらいなら自殺しようと本気で考えました。
何もかも どうでも良くなって一ヶ月近く家に引きこもって
テレビを見たりして過ごしました。お店も全部スタッフに任せきりにして。

今の奥さんと付き合い始めたのはその頃だったのですが、
毎日家に来てくれて、僕に何も聞かずにただ側にいてくれました。
本当に何も聞かずに。
その支えが無かったら死んでいたかもしれません。

本人は忘れていると思うけれど 笑

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