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アメリカン・ポップス・クロニクル 1960年代編 ch.5 (4)

Twilight Time

ロネッツの"Be My Baby"がチャートを駆け上がっていた頃に、チャート1位に輝いたのは『ミスター・ブルー』ボビー・ヴィントンでした。

ボビー・ヴィントンはペンシルベニア州キャノンズバーグの出身です。ポーランド移民の父親は、地元では人気のバンドリーダーで、ボビーは幼い頃から『The Polish Prince』と呼ばれ、クラリネットの練習に励み、ビッグバンド・サウンドに興味を示していました。16歳の頃からバンドを組んで、クラリネットやトランペットを担当して、ピッツバーグ周辺のクラブで演奏していました。デュケイン大学在学時もコンボを組んで、演奏活動を続け、大学卒業後はプロのミュージシャンを目指し、メロディ・レーベル~アルパイン・レーベルと契約して、シングルを2枚残しています。

2年間の兵役後、新しいバンドを結成して、NBCのタレント・スカウト番組に出演、地元ピッツバーグの人気ディスクジョッキーのディック・ローレンスがボビーの音楽活動に惚れ込み、デモテープを作りました。そのデモテープがCBSレコードに渡り、CBSの新しいレーベルのエピック・レコードと契約しました。

60年秋から61年にかけて、ボビーは3枚のバンド音楽のシングルをリリース、クレジットはボビー・ヴィントン&ヒズ・オーケストラで、ボビーは若いバンド・リーダーとして期待されましたが、結果は出ませんでした。『Dancing At The Hop』、『A Young Man With A Big Band Plays For His Li'l Darlin's』という2枚のアルバムも全く売れませんでした。

エピック・レコードは彼に将来性を感じることはなく、見限るつもりでいましたが、ボビーは契約上あと2曲録音できることに気付き、次のレコーディングでは自分の歌を入れて欲しいと、エピックに願い出ました。エピック側はそれほど期待せず、契約履行のために、彼の要望を受け入れました。

62年2月16日、"Roses Are Red (My Love)" / "You and I" は録音され、4月6日リリースされました。彼はこの曲のプロモーションを自分でやる必要があり、1000枚のシングルを買い、それに12本の赤い薔薇を一緒にして、ラジオDJに手渡す女性達を雇いました。彼が行った宣伝活動の効果は抜群で、ポール・エヴァンスの曲も良かったこともあり、6月9日に68位でチャートに登場すると、5週間後の7月14日に全米1位に輝きました。エピック・レコードにとってもTop 10入りは初のことで、契約もソロシンガーとして更新しました。

1963年4月リリースの"Blue on Blue"は、バート・バカラック&ハル・デヴィッドの作品で全米3位。8月には、クローヴァーズのカバーで"Blue Velvet"が全米1位。11月にリリースの"There! I've Said It Again"は、翌64年1月全週1位で、次にきた全米1位はビートルズでした。ビートルズ旋風のなか、10月にリリースの"Mr. Lonely"をまたしても全米1位にしています。彼のようなスタイリッシュなクルーナータイプはあまりいなかった時代であり、彼の切ないラブ・バラードは、リスナーの共感を呼んだのでしょうか。

"Blue on Blue"の作者である、バート・バカラックとハル・デヴィッドにも触れておかねばいけません。バート・バカラックは1928年生まれで、ファッツ・ドミノやボビー・デイと同い年、作家としてはドク・ポーマスの世代です。ハル・デヴィッドはもう少し年上で1921年生まれです。

1957年、2人はブリルビルディングのパラマウント音楽社で知り合いました。早速コンビを組み、マーティ・ロビンスに"The Story Of My Life"を書き、この曲はカントリーチャートで1位、全米15位のヒットになりました。ペリー・コモに書いた曲"Magic Moments"は57年暮れにリリースされ、翌年チャート4位を記録しています。しかし、その後しばらくは別々のパートナーと組んで楽曲提供していました。

バカラックがその時期多く組んでいたのがボブ・ヒリアードで、61年ドリフターズの"Please Stay"が全米14位、ジーン・マクダニエルズの"Tower of Strength"が全米5位、62年チャック・ジャクソンの"Any Day Now (My Wild Beautiful Bird)"は全米23位とヒットさせていました。

62年、バート・バカラックとハル・デヴィッドは再びコンビを組み、曲を書き始めます。ジーン・ピットニーの"(The Man Who Shot) Liberty Valance"は全米4位、"Only Love Can Break a Heart"は全米2位と、たて続けにヒットを出しました。順位は20位でしたが、バカラックがその録音工程すべてを任され、管理して進めた、ジェリー・バトラーの"Make It Easy on Yourself"は、その楽曲制作から制作管理をするにあたり、彼に随分自信を持たせた仕事になりました。また、この曲は65年にウォーカー・ブラザーズがカバーして、全英1位、全米16位、70年にはディオンヌ・ワーウィックが取り上げて全米37位と、彼らの代表曲のひとつになりました。

バカラック&デヴィッドとディオンヌ・ワーウィックの出会いもまた、双方にとって幸福をもたらすものでした。61年、セッション・シンガーをしていたディオンヌ・ワーウィックは、ドリフターズの"Mexican Divorce"のレコーディングにバックヴォーカルとして参加していたのがきっかけで、バカラックにその才能を見出されました。62年、ディオンヌ・ワーウィックはセプター・レコードと契約して、11月最初のシングル"Don't Make Me Over"をリリース、バカラック特有の凝ったメロディラインを見事に歌いこなし、チャートも全米21位を記録しました。

バート・バカラックとハル・デヴィッドは、62年後半から 60年代後半にかけて、ディオンヌ・ワーウィックの才能を生かす曲作りに自分たちの能力を集中させ、結果的に62年から68年の間に、Top 40シングルを15曲出し、そのうち7曲はTop 10入りを果たしています。彼女の代表曲のひとつである"Walk on By"は、数多くのアーティストにカバーされています。ディオンヌ・ワーウィックは、バカラック&デヴィッドの最高の理解者であり表現者で、この3人のチームはポピュラー音楽史上最も成功したチームのひとつになりました。

(2022/03/10)

ch.5

The Boy I Love (2022/03/03)
Flip and Nitty (2022/03/06)
Tedesco and Pitman (2022/03/08)

This Could Be the Night (2022/03/12)

ch.4

1.ビートにしびれて (2022/02/13)
2.Power Blues & Sophisticated Soul (2022/02/18)
3.I'll Go Crazy (2022/02/20)
4.Do You Wanna Go With Me (2022/02/23)
5.I Got Lucky (2022/02/25)
6.The Lovin' Touch (2022/02/28)

ch.3

1.サーフビート・ゴーズ・オン (2022/01/29)
2.A Sunday Kind of Love (2022/02/01)
3.夜明け前の月光 (2022/02/03)
4.West Coast R&B (2022/02/05)
5.くよくよしないぜ (2022/02/06)
6.誰にも奪えぬこの想い (2022/02/10)

ch.2

1.シビレさせたのは誰 (2022/01/14)
2.ブロンクス・スタイル (2022/01/15)
3.ツイストが2度輝けば (2022/01/21)
4.太陽を探せ (2022/01/22)
5.1961年のNo.1 R&Bソング (2022/01/25)
6.Romancing the '60s (2022/01/27)

ch.1

1.1959年のNo.1ヒットソング (2021/12/31)
2,1960年のNo.1ヒットソング (2021/12/31)
3.1960年のヒットソング (2021/12/31)
4.インストゥルメンタル・ヒット (2022/01/04)
5.60'Sポップスの夜明け (2022/01/05)
6.R&B、ソウルミュージックの躍進 (2022/01/07)

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