これは納豆の話だ。

納豆を納豆だけで食べる人が信じられない。納豆はごはんと一緒に食べるもので、納豆だけで食べるものではないと思う。僕がそう言うと渡邊さんは、納豆を納豆だけで食べるのは妥協だ、と言った。サイゼリヤでミラノ風ドリアを食べながらのことだった。つい先日までフランスにいた渡邊さんは向こうで納豆が食べられなかったので、ごはんがなくて、それでもどうしても納豆を食べたいとき、仕方なく納豆だけで食べることはあるけれど、ごはんと一緒に食べるのが最善の食べ方で、納豆だけというのは妥協、それでごはんと納豆にはちょうどいい比率があって、納豆を食べるときは、それをいかに保ったままごはんを食べ切るかの勝負みたいになるよね、みたいなことを渡邊さんは話した。

納豆を納豆だけで食べる人が信じられない、と僕の言うのは渡邊さんのそれとは少し違っていて、僕は納豆のネバネバするのが口に付くのが嫌で、だから納豆をごはんの上に少量乗せて、必ずごはんと一緒に納豆を食べる。納豆を直接食べるとネバっとするのが口に付いてしまうのが、ごはんに乗せて一口で食べることで納豆に直接口が触れずに、ネバネバせずに食べることができる。もちろんごはんと納豆のおいしい黄金比があって、それを崩さずに食べるようにというのはよく分かるけど、ごはんがなくて納豆だけを食べたいと思うことは僕はない。ネバネバするのはヤだし、やっぱりごはんと食べないと美味しくない。なんなら他のおかずにしたってそうで、とにかく白いごはんがないと味の濃いものを食べるのはしんどい。なんだか酷い贅沢をしているみたいな気分になる。幸せなことがあってもそれを共有する相手がいないときの孤独な感じに似ている。なんだってそんな風に感じるのかは我ながらによく分からない。

ともかくそういうわけで、渡邊さんはきっと納豆を納豆だけで食べられるんだろうなと今考えるとそう思うし、それは僕とは決定的に異なるのだけれど、でもその話をしているときは、ああこの人とは話が合うなあと思った。話は驚くほど合っていた気がする。すごく良い話が出来た気がする。それが僕だけだったのか渡邊さんもそう思っていたのかは分からないけれど、少なくとも僕は特に気を遣うことなく言いたいことを話せたし、それが相手の言いたいことに上手く繋がった気がした。しかも全体としては別に一貫した話題だったわけではなくて、納豆の話とか、フランスでの話とか、演劇の話とか、色んな話題に移り続けていた。お互い相手の話に対して、必ずしも同じ話題で返すことはなくて、全然関係ないんだけれど、と断りながら、互いに、全然違う話で返答したりもした。その中で、違う話にも関わらず、やっぱりそれは返答で、それでも積み重なるものがそこにはあって、全体として一つの時間だった。納豆の話みたいに、本当は違っていても、話は合う、ということがある。話というか、呼吸だろうか。呼吸が合っていれば、話は合っていなくていいのかもしれない。どんどん話題が移り変わっても、呼吸さえ合えば、目先の繋がりよりも大きな繋がりで話をすることができるのかもしれない。それが出来るくらいに相手を信じられるのかもしれない。

しかし、納豆の話以外の話を書くことは難しい。他にも色んな話をして、そのことごとくが良い話だった。それを書いて人に伝えたいという思いはあるけれど、それが出来そうにないとも感じている。そして納豆のことなら書いても良いかなと思った。納豆のことならそこだけ切り取っても構わない気がしたけれどそれも本当はギリギリだ。そう感じてしまうのは、その呼吸まで届けることが出来ないからかもしれない。その呼吸が、バラバラの話を繋げていて、その呼吸がなければ意味のない話だったかもしれない。でもその呼吸はその場だから、私たちだから生まれたもので、簡単に他の場所に持っていったり、他の人に見せたりはきっと出来ない。関係性は切り売り出来ない。けれど新しい関係性をあなたと築くことは出来るかもしれない。そのとき、私たちの呼吸をあなたの呼吸と合わせることができるかもしれない。目指すならそれを目指すべきかもしれない。それが叶ったなら、なんでもない意味の通らない話も、たちまち楽しい良い話に変わってしまうだろう。なんなら納豆の話をして以来納豆が食べたくなってしまって、昨日は納豆を食べて、今朝も納豆を食べた。それで今は電車に乗っているけど外の天気がやたら良い。厚着をしたけど暖かい。