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【夢】の取り扱いのはなし。

「将来の夢は何ですか?」とか「大きくなったら何になりたい??」とか、小さい頃に、多くの人が事あるごとに大人から言われた質問だと思います。文集のお題だったり、短冊のお題だったり、発表会のお題だったり、または初めて会う大人への挨拶でのやり取りだったり、ときどき会う親戚のおばちゃんとの毎回の問答であったり、とにかく小さい頃は、たくさんの大人が当然のようにニコニコと、それを問うてきました。

私は小さい頃から”不思議な子”か”変わった子”だったらしく、マイペースで好き放題、放っておけば好きなように何かに没頭していると思われている子でした。そのキャラクターからして意外かもしれませんが、本当に小さな頃からずっと、何になりたい、とかいう将来の夢なるものを持ったことがほぼありませんでした。絵が得意だったので、小学生の頃は漫画家になりたいとか、あとは部活で一生懸命トランペットを吹いていたので、さすらいのトランぺッターになるのだとか、そんなことは一応「回答用」に言ったり書いたりはしたものの、本当にこれになりたいとか、あれになりたいとか、そんなことを思ったことは、記憶の限りおそらく一度もありませんでした。

ひとつだけあるとすると、ジブリアニメの風の谷のナウシカの、ナウシカになりたい、とは、割と大きくなっても真剣に思っていたように記憶しています(あとは仲良しだった中学校の校長先生宛に、オリンピックの開会式の総合演出をしたいと手紙に書いたことはありました)。ただそんな馬鹿げたことを誰に言おうという気もせず、ただ実のところ深く、その憧れだけは静かに持ち続けていたように思います。


時が経って高校受験の歳になり、勉強をする意味が分からないと若干路頭に迷い始めていた私は、得意だった絵で受験が出来る美術科(高校の中の美術の専門クラス)を目指しました。中学校で大好きだった美術の先生は、美術科を目指すなら将来を見通せよ、とメッセージをくれましたが、私はあまり深く考えず、受験した2校の美術科のうち合格したほうへ入学しました。

実は入学した学校は吹奏楽の強豪校で、トランペットが大好きだった私はすぐに吹奏楽部に入部しました。しかしながら強豪校の徹底した練習スケジュールと、美術科でのひたすら画面に向き合う作品づくりの時間は両立せず、私は部活を2か月足らずで退部しました。私は自分が音楽では満足な才能がないと自覚をしていたので、将来的にプロを目指そうなどという気は中学生の時に既にありませんでしたが、このとき「好きなこと」という基準で言えば、明らかに、トランペット > 絵、でした。それなのに好きなほうを手放した決断にも状況にも、私はひどく落ち込みました。

そのあとはまた大学受験の歳になり、周囲の言葉に乗るまま藝大を目指し、現役で落ち、1浪で落ち、2浪目でも藝大は落ちましたが別の大学の文学部に合格し入学しました。大学を卒業すると、丸の内のベンチャー企業に入り9年半朝から深夜まで仕事の日々を過ごしました。


そうして、「夢ってなんだっけ??」という小さい頃に散々大人から聞かれた問いに、再度立ち止まることになりました。

…何かになりたい、という気は全くなかった。こういう職業につきたいとかいうこともなかった。あとは、なんかあったっけ…

一度芸術の世界を目指したけれど入れずに、サラリーマンになって、今は自分の会社もつくって、ビジネスって創造や発信なのだと思って走ってみたけれど、私のいる界隈に飛び交う「ビジネス」的なものは、自分のお金を儲ける以外に何にもならない、くだらない、寂しいものがわりと多くを占めていました。でもそれが正解なの??と混乱してその世界の言葉から出られず、やはりここのどれかに当てはまるような「何か」にならなければいけないのか?とか、正解を探して彷徨うことになりました。

ある、とても考えが行き詰ったときに、何の格好もつけずに願いを書いてみました。望むもの、「誰も不幸になってほしくない、ということ」。私の嫌いなことは、誰かの何でもない小さな純粋な思いが”ガッカリ”させられること。【夢】は何かと問われたら、おそらく答えはこれでした。小さい頃から、それは今までずっと強化されてきたものでした。そして、ナウシカになりたい、というのと全く遠くないものでした。

【夢】への問いは、幼い頃ほどよく聞かれ、中学生の頃には受験を控えて少し現実的になり(でもまだ【夢】で)、高校生では急に【進路】という言葉に完全に置き換わりました。大学生にもなればそそくさと【就職先】に置き換わるか、または既に何かしらの夢を現実の中にスタートさせ始めているかのどちらかです。

私には、「あなたの夢は何ですか?」の「あなたの」の部分の意味が分からなかったのです。私の?個人的な?…いや、別になりたいものは無い。何屋さんになりたいとかそういうの無い。何か選ばないといけないの??私にとっては夢中になることはつまり小さくなることで、聞かれるほどに窮屈で、言葉にするほど遠く無意味でした。


もし小さい頃に、夢はなあに?と聞かれて、「誰も不幸にならないこと!」と答えていたら、大人はきっとニコニコして「いい子だねえ、素敵な大人になるね」と言ったのでしょう。中学生の頃に言ったら、まだニコニコしていたでしょう。高校生で言ったら、大学生で言ったら、ニコニコしながらも「おめでたい子だ。先が思いやられる」とか、意地の悪い人なら「そんなの出来るわけがないだろう」とか「まあ偽善者ぶって」とか腹の中で言われたかもしれません。


相手がどんなに小さな子どもであっても、【夢】を取り扱うとき、単に「選択」ではない人間同士の議論が必要になります。いくらおとぎ話のような回答が子どもの口から出てきても、「子どもは面白いこというね」とか「まだまだ純粋でかわいいね」とかいってニンマリ可愛さに満足している場合ではありません。または「何もない」などと言われても、「かわいくないやつだ」とか「このままではダメだ」とか「何か目標を作らせなくては」と決めつけるのは自分への過信です。私たちはそれほど、相手を分かってなどいません。更には、相手が自分と違う何かを見ている可能性に(自分の知らない領域や視点があることに)、気が付いていません。何を望んだか、どんな世界が見えているか、全力で教えてもらわなければいけません。


こんなことを思いながら進んでいると、同じような夢を大っぴらに人生の目標に掲げて仕事をしている人にポツポツと出会い始めました。なあんだ、私の目標って、やっぱりナウシカでいいんだ!と、いま大人になってやっと、もう一度、知ったのです。

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