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影響。

人はただ毎日を生きているだけで、周囲の人…家族や友達、職場の同僚、上司部下、またはお昼に行った定食屋の店員さん、会う人みんなに無意識にも意識的にも何かしらの「影響」を与えている。そして同じように、与えられている。

…これは、私が人によく言ってきたこと。塾の講師をしていたときには受講生に、会社員のときは上司に、大学ではそれとなく友人に。

それに気が付けば自身の行動がよく見えるようになる。自身の捉え方や立ち居振る舞いに変化が現れる。だからそれを意識させようと手を変え品を変え、人に伝えてきた。


だが今日、ふと、私が、私自身の人への「影響」を捉えていなかったのではないか?と薄っすら思い始めた。

小さい頃、私はとにかく恥ずかしがりだった。人と話をするのもモジモジ、やりたいことを言うのもモジモジ、とにかくモジモジだったので行動が常に遅れた。ただし、引っ込み思案ではなかった。本当は表に出るのが好き、考えていることを人前で発表するのも好き、やりたいことは山ほどあった。

モジモジよりも、これやりたい!が全面に飛び出したのは中学生のとき。受験をし、国立の中学校に入学した。その学校は「自由」に定評があり、その通りに生徒も先生も自己表現豊かで行動力のある面々が非常に多く、私はまさに水を得た魚といった具合にとにかくやりたいことを全部やり、何でも好き放題言い、心の赴くままにふるまった。

どれくらい好き放題だったかというと、昼食後の時間に委員会の会議がある日、お弁当を食べ終わるのがギリギリになったときに、私はよく「ごめん!間に合わんからお弁当片付けといて!」と友人に言い残し、自分の食べ終わった弁当の後片付けを人に押し付けてドタバタと委員会へ走っていく…といった具合。部活革命を掲げて吹奏楽部の部長になり、練習に来ない部員は平気で「これ次の曲の楽譜なんだけど、この後もやる?」とバシバシ切って、新しい方針をどんどん出し、勝手に朝の通学時間に校門付近で演奏会をし、何年も出ていなかったコンクールにもエントリーした。また年に1度の学校行事の中で新喜劇をやろうと言って面白そうな人を勝手にキャスティングし、先生たちも有無を言わさず出演してもらい、学内で場面をマネするちょっとした流行が出来た。実行した企画で学年160人全員から大バッシングを受けることもあった。とにかくその「面白いこと」をやるための仲間を都度集め、誰に何の遠慮もなく実行していった、…というのが私の中学時代。

ただその中で、小さな事件が起きた。

やりたいことに応じて都度仲間を集め、とにかく色んなことをする私。だが中学生の女子といったら、友人グループで行動するのが、年齢的にも「普通」の行動だった。他もそのような人が多い。私も入学当初から仲の良い友人が数名いた。互いの家に遊びに行ったりする友人。ただし彼女らは派手に面白いことをするようなタイプではなく、好きなことも得意なことも違ったので、私の各おもしろ活動のメンバーには一度も該当しなかった。お昼ご飯は一緒に食べるけれど、時間が来ると私はピューっと別の場所へ走っていく。とにかくやりたいことに邁進。そして時間があれば、私を面白がってくれる大好きな先生のところでチョロチョロしていた。

ある日のこと、2人から言われた。

「あなたは一人で大丈夫でしょう?グループ別れよう」

グループ、という認識はなかったが、私の自由気ままな活動が、身近な友人に何かしらの不快な悲しい思いをさせていたことを知った。青天の霹靂、全く想像もしなかった、未知の衝撃だった。

私はどうしたらよいか全く分からなくなった。とにかく、腫物を触るように気を遣う必要があるとだけ思った。そのあと別の友人に、「暗くなったよね」と言われるようになった。


高校は美術の専門クラスに入学。私は職人のごとく時間を使い、描いたり作ったりすることに取り組んだ。「徹底してやる人」という定評をもらい、制作物への評価も学校の中では高かった。

中学生のときの小さな事件をまだ理解できていなかった私の行動は、少し大人しくなっていたが根本的には変わっていなかった。

ここでも同じことが起きた。

美術科は1クラスだけなので、3年間メンバーは変わらない。私が毎日一緒にお昼ご飯を食べていた友達。例によって私は女子の「グループ」という考え方に無頓着なので、放課毎に集まって話をしたりすることもなく、時間があれば自分の作品の前にいたり、友人とキャッキャする時間をほぼ持たなかった。やはり、やりたいことはそれに適したメンバーと。いつも同じ友人と一緒に行動するということは苦手であり、それが「普通」であるという意識も一切ない。

私の行動は、友人の一人にとても強い不安を与えていた。無視されている、好かれていない、…どう感じさせてしまったのか、詳しくは分からない。そうだと気付き始めてからも、それが理解できない私は解決する行動を起こさなかった。少し話かける回数を増やしてみるとか、それくらいだった。

卒業まで半年以上の期間を残して、友人は退学した。

私は担任に、彼女の退学は私のせいだと申し出た。だが担任は被せるように「そうじゃない」と言った。その否定がまた、私には絶望的だった。そうだお前のせいだ、なぜ彼女ときちんと向き合おうとしなかった?とグッサリ一突きにとどめを刺してくれたほうが、よほど有難かった。


それから、私は人に関わるべきでないとかそんなことを思う真っ白な期間を経て、何年か経ったあと、私はここまでの自分をよくよく見つめる時間を与えてもらい、息を吹き返して冒頭のように「人への影響」なるものを周囲に言うまでになった。

ただ、やはり私は根本的には、「人は人」だと思っているようだ。

今も、人付き合いはあまり変わっていない。

グループに属するのは嫌い。私のやりたいプロジェクトに応じて、都度適した必要な相手と会う。目的が無い集まりは嫌い。ゴールの無い行動も嫌い。拘束的な関係値はどんなケースでも嫌い。行動や考えを限定されるのも嫌い。ただし、そんな私を見ていて性質を解ってくれていそうな人、それを面白がってくれる人には、無条件で大いに懐く。

世界の大半の人は、私を正しく理解しない、と思っている。

基本的にはあっけらかんと明るい顔をしているが、どこか深い暗さを抱えているように見えると時々言われる。おそらくその原因はその、「世界は私を正しく理解しない」という小さい頃からの実感なのではないかと思う。どれだけ明確に思ったって的確に言ったって、その通りに相手が理解することはない、と、記憶のある限りでは小学1年生の頃にはすでに考えていた。それは悲しい感情ではなくて、逆にとても恐ろしい、強烈な支配的な感情。

「人は、言うに、値しない。」

でも私がその私のままでいると、誰かが不幸になるという後付けの恐怖は、自分の背後から消えない。だから、普段は柔らかく笑っている。分からないだろうと思いながらも、自己内で消化処理をして、笑っている。正しく理解されなくても自分がイライラしないことだけを口に出して言う。だから、フラットな立場での1対1の対峙は何よりも苦手。そのくせ、客観的には相手のことは本人が自覚しないことまでよく捉えられると考えている。

私はここまでの気付きの過程の中で、「気付いている私は状況を支配できる」と勘違いしていたかもしれなかった。自分は人より少し深く世界が見えていて、それを人に気付かせる使命があると思っていた。

違うのだ。

私が見ている世界は、私が見えている世界だ。相手から見たら、そこには私ではどうしても見られない「私」の存在があって、どう考えたって私と相手とは違う世界が見えていることが分かる。在ることそのものが、「影響」であるのだ。ある場所であれば、居ることも影響であり、居ないことも影響である。

中学の、高校の、あの時、どうしていればよかっただろうと思うことが今もよくある。中学時代の自分には憧れもある。まだ「分からない」という恐怖に気を遣うことがなかったときの、自由なパワー。

分からないことは、怖い。小さな頃から本心を言葉にせずに面白いと思う行動だけをしてきた私は、人から見たら「分からない」の最たるものだったかもしれない。見た目も、この支配的な本心を晒したキャラクターであったなら、あの優しい友人は私に「友達になろう」と声をかけてこなかったかもしれなかった。つまりは、不幸にさせることもなかったかもしれなかった。

私は一巡の自己分析と回復を経て、また、「神」になろうとしていた。俯瞰した存在だという意識が基本的な性質なのかもしれない。ただどれだけ客観的に周囲を観察出来て鋭く言い当てることが出来たとして、自分の存在がここに在ることへの理解を、周囲との(言葉に限らない)対話で都度捉えていくことが出来なければ、ずっと、存在としての自己と意識としての自己は乖離していくばかりだ。小難しい言葉を省けば、現実をただ怖がって、相手が私を理解するのを待っている(分かるわけがないと思いながら)。



基本的な指向は変わらない。そこは、変えようがない。

この、そもそも無茶苦茶な自分丸ごと、これが存在であって本来的な「影響」のかたちであるのだから、表向きにそれを隠したり曲げたりしようとする顔はどこかで大きな歪みを生む。そしてその隠ぺいを促す経験的な恐怖は、全く不要な不幸を生み続ける。絶対的に別の存在である他の人を、意図して支配など出来ないのと同じように、自分に対する後付けの支配だって到底出来ないということだ。

そのものを尊敬し、大事に、出来るだけ素敵な方向へ。常にいつだって意識の外で続いていく「影響」の、その雑味をなくしていく活動は、きっと人が年月を重ねる醍醐味だ。

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