川崎市の街づくりにおける戦後の変化

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1、はじめに

2、都市化計画

3、娯楽エリアの確立

4、川崎市における街づくり条例

5、最後に



1、はじめに

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川崎市の人口は昭和30年から大幅な増加を記録し、戦後は減少したものの、高度経済成長期には再び増加傾向にあり、人口増加は落ち着いたものの現在も増加が続いています。

そこで、本稿では戦後における川崎市の街づくりに着目し人口増加にいたった経緯を明らかにしていこうと思う。


2、都市化計画

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       (1923年~1927年の川崎市の様子)

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       (現代の川崎市の様子)

上記の地図は戦前の1923年~1927年の川崎市の地図であり、下記は現代の川崎市の様子である。

上記の地図からもわかるように都市化が大幅に進み、田んぼであった昔と比較して建物が多く隣接し、商業施設も増えたことが読み取れる。

3、娯楽エリアの確立

川崎

戦争による荒野から復興するにあたり、川崎駅周辺を中心として映画施設の建設が進みました。

1939年に川崎映画街が完成し、本土空襲により退廃したものの直ちに復興計画を練り、映画館を建設しました。

戦後の物資が不足している中で文化的娯楽を守り抜いたことは川崎市の現在の発展に大きく影響したと考えられる。


4、川崎市における街づくり条例

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川崎市では、買い物や通勤・通学などの日常生活で利用する駅やその周辺を対象に高齢者や障害者等の移動を支援するバリアフリー化の推進に取り組んでいる。

これまでバリアフリー法(新法)に基づき、市内54駅のうち17駅を対象に8地区の「バリアフリー基本構想」を策定している。

また、基本構想を策定していない37駅(内4駅は策定対象外)を対象に、バリアフリー法に基づく基本構想の考え方を踏まえながら、地区ごとにバリアフリー推進に向けた基本的な考え方を示す「バリアフリー推進構想」を策定し、駅を中心としたバリアフリーのまちづくりの計画的かつ積極的な推進を図っていて誰にとっても住みよい街づくりをモットーにさまざまな対策が行われている。


5、最後に

これらのことから、川崎市は戦後でも街が衰退することなく、人口が増えていったと考えられる。積極的に街づくりを行い、戦後という状況下でも娯楽施設を維持し、文化的欲求の追求を忘れなかったことは、今日の川崎市の街づくりにも大きく影響していると考えられる。

また、都市化計画や娯楽施設の確立にとどまらず、バリアフリーの街作りに力を入れ、誰にとっても住みよい街づくりを実現させたことは今日の人口増加の大きな要因と考えられる。

川崎市の街づくりからわかるように、戦争や自然災害で街の復興を余儀なくされた時、どんな街にしたいのか、どのように人々と手を取り合って生きていくのか考えることがとても重要であると私は考える。

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